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秋
三
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家に入ると、女中のすずが迎えてくれた。
「まぁ、奥さま綺麗なお花をお持ちになって……」
美津江から蘭の花束を受け取ると、すずは嬉しそうに言った。まだ二十歳になる前の、初々しい娘である。化粧のしていない顔に、花びらのような唇が可愛らしかった。
「これを、玄関に生けておいて」
美津江はすずにそう命じて、自分は二階の夫婦の部屋に入った。椅子を窓際まで寄せて窓を開け放し、窓の縁に頬杖をついて庭を見下ろした。庭には松の木が三本と、白い萩と秋桜が植えられている。秋桜はどこからか勝手に根付いたものだったが、毎年、美しく咲くのでそのままにしている。
冷たい風が吹いて、美津江の化粧を落とさない頰を撫でた。まだ胸が、ドキドキと痺れるようだった。ついてくるものはもういないのに、まだ追いかけられているような気持ちだった。目蓋を伏せると、まつ毛が震えた。
コトコトと戸を叩く音がした。美津江は目を開けた。一瞬、世界が青く見えたようだった。
「お入り」
返事をすると、入ってきたのは女中のお豊だった。美津江が散歩から帰ってくると、硝子のコップから一杯水を飲む習慣を心得ているので持ってきたらしかった。
「ありがとう」
美津江はお豊から硝子のコップを受け取った。美津江は帰ってきてから、羽織も脱がなかった。水を一口飲むと、胸から胃の腑にかけて、体温がスゥッと冷たくなっていくようだった。
「奥さま、失礼致します」
お豊は硝子のコップを持ってきた盆を傍の机に置いて、美津江の額に手を当てた。美津江がお嬢様と呼ばれていたときから彼女のお付きの女中なので、このような親しげな振る舞いも許されている。美津江の方も安心して、お豊に額を触れさせた。
「熱はなさそうですね」
「ええ……何故?」
「何故って、そのように青いお顔をなさっていらっしゃるから、ひょっとしたらどこか具合でもお悪くなったのではないかと、心配になったんですよ」
「まぁ」
美津江はお豊が手を離した顔を、あちこちヒタヒタと叩いた。本当に青くなっているのかどうか、自分では判断がつかなかった。思わず、微笑みが浮かんだ。
「まぁ、本当?」
「ええ、いきなり花などお買いになって……」
「すずは喜んでいたみたいよ」
「あの子はまだ、子どもでございますから、綺麗なものを見れば、ただ嬉しいのですよ」
美津江は笑みを深くした。すずの無邪気が、嬉しかったのである。すずは十六で、女中奉公に出された娘だった。家が貧しく、女学校にも通っていないが、顔立ちが可愛らしく、性質も素直なのでバレれば後でお豊に小言を言われるだろうと思いながらも、美津江はついこの娘を甘やかして、内緒でお小遣いをあげたり、お菓子をあげたりしてしまう。そんな気持ちになるのは、美津江と辰次の夫婦に、まだ子どもがいないからだろうか。
美津江の血を通じて、花織の血が、生き返りはしないか。しかし、花織の美しさは、美津江の中には流れていない、花織の母の血なのである。
「お豊」
美津江は、お豊を呼んだ。自分でも思いがけず、不安そうな声になったことに、驚いた。お豊に青いと言われた顔が、自然と赤らむ。
お豊は何か感じたらしく、美津江の足元にしゃがみ込んだ。
「何でしょう?」
美津江の体に、ふと、緊張が走った。
「つけられていたの」
言葉にすると、後をつけられていたときに感じた感覚が、足元からせり上がり、胃の腑から胸を通り、口から吐き出された。体が、キン……と冷たくなるようだ。
「つけられていたのよ」
二度、同じことを言った。
「……まぁ」
お豊は微かな息を吐いた。その吐息に、様々な感情が込められているようだった。
「泥棒ですか?」
「こんな昼間から……?」
美津江は笑った。
「何も盗られたものはないわ」
花屋を出たあとも、暫くついてくる気配があった。しかし、郵便局の角を曲がった辺りで、気配は遠ざかった。
「それで怯えて、花をお買いになられたのですか?」
「…………」
美津江は、それには答えなかった。
ついてこられることに、怯えや恐怖があっただろうかと考える。そういう気持ちも、無論、まるでないわけではなかっただろう。しかし自分は、それ以上に何か昏い歓びを感じていたのではないか。誰か知らぬもの、分からぬものに後をつけられる怯えや恐怖よりも、その歓びに鋭く刺されたことに怯えや恐怖を感じたのではないか。
だから、美津江には答えることができなかった。
美津江の沈黙を、何と捉えたか、お豊は美津江の手を握り、摩っていた。その口元は、微笑みを浮かべていた。美津江の幼い頃から、美津江が成長するに従って、同じように歳を取って、皺も白髪も増えたお豊だが、美津江を安心させようとするときの笑い方は、昔から変わらない。それとも、それは美津江にとって、お豊が近しい存在だから、そのように感じる幻だろうか。
「まぁ、奥さま綺麗なお花をお持ちになって……」
美津江から蘭の花束を受け取ると、すずは嬉しそうに言った。まだ二十歳になる前の、初々しい娘である。化粧のしていない顔に、花びらのような唇が可愛らしかった。
「これを、玄関に生けておいて」
美津江はすずにそう命じて、自分は二階の夫婦の部屋に入った。椅子を窓際まで寄せて窓を開け放し、窓の縁に頬杖をついて庭を見下ろした。庭には松の木が三本と、白い萩と秋桜が植えられている。秋桜はどこからか勝手に根付いたものだったが、毎年、美しく咲くのでそのままにしている。
冷たい風が吹いて、美津江の化粧を落とさない頰を撫でた。まだ胸が、ドキドキと痺れるようだった。ついてくるものはもういないのに、まだ追いかけられているような気持ちだった。目蓋を伏せると、まつ毛が震えた。
コトコトと戸を叩く音がした。美津江は目を開けた。一瞬、世界が青く見えたようだった。
「お入り」
返事をすると、入ってきたのは女中のお豊だった。美津江が散歩から帰ってくると、硝子のコップから一杯水を飲む習慣を心得ているので持ってきたらしかった。
「ありがとう」
美津江はお豊から硝子のコップを受け取った。美津江は帰ってきてから、羽織も脱がなかった。水を一口飲むと、胸から胃の腑にかけて、体温がスゥッと冷たくなっていくようだった。
「奥さま、失礼致します」
お豊は硝子のコップを持ってきた盆を傍の机に置いて、美津江の額に手を当てた。美津江がお嬢様と呼ばれていたときから彼女のお付きの女中なので、このような親しげな振る舞いも許されている。美津江の方も安心して、お豊に額を触れさせた。
「熱はなさそうですね」
「ええ……何故?」
「何故って、そのように青いお顔をなさっていらっしゃるから、ひょっとしたらどこか具合でもお悪くなったのではないかと、心配になったんですよ」
「まぁ」
美津江はお豊が手を離した顔を、あちこちヒタヒタと叩いた。本当に青くなっているのかどうか、自分では判断がつかなかった。思わず、微笑みが浮かんだ。
「まぁ、本当?」
「ええ、いきなり花などお買いになって……」
「すずは喜んでいたみたいよ」
「あの子はまだ、子どもでございますから、綺麗なものを見れば、ただ嬉しいのですよ」
美津江は笑みを深くした。すずの無邪気が、嬉しかったのである。すずは十六で、女中奉公に出された娘だった。家が貧しく、女学校にも通っていないが、顔立ちが可愛らしく、性質も素直なのでバレれば後でお豊に小言を言われるだろうと思いながらも、美津江はついこの娘を甘やかして、内緒でお小遣いをあげたり、お菓子をあげたりしてしまう。そんな気持ちになるのは、美津江と辰次の夫婦に、まだ子どもがいないからだろうか。
美津江の血を通じて、花織の血が、生き返りはしないか。しかし、花織の美しさは、美津江の中には流れていない、花織の母の血なのである。
「お豊」
美津江は、お豊を呼んだ。自分でも思いがけず、不安そうな声になったことに、驚いた。お豊に青いと言われた顔が、自然と赤らむ。
お豊は何か感じたらしく、美津江の足元にしゃがみ込んだ。
「何でしょう?」
美津江の体に、ふと、緊張が走った。
「つけられていたの」
言葉にすると、後をつけられていたときに感じた感覚が、足元からせり上がり、胃の腑から胸を通り、口から吐き出された。体が、キン……と冷たくなるようだ。
「つけられていたのよ」
二度、同じことを言った。
「……まぁ」
お豊は微かな息を吐いた。その吐息に、様々な感情が込められているようだった。
「泥棒ですか?」
「こんな昼間から……?」
美津江は笑った。
「何も盗られたものはないわ」
花屋を出たあとも、暫くついてくる気配があった。しかし、郵便局の角を曲がった辺りで、気配は遠ざかった。
「それで怯えて、花をお買いになられたのですか?」
「…………」
美津江は、それには答えなかった。
ついてこられることに、怯えや恐怖があっただろうかと考える。そういう気持ちも、無論、まるでないわけではなかっただろう。しかし自分は、それ以上に何か昏い歓びを感じていたのではないか。誰か知らぬもの、分からぬものに後をつけられる怯えや恐怖よりも、その歓びに鋭く刺されたことに怯えや恐怖を感じたのではないか。
だから、美津江には答えることができなかった。
美津江の沈黙を、何と捉えたか、お豊は美津江の手を握り、摩っていた。その口元は、微笑みを浮かべていた。美津江の幼い頃から、美津江が成長するに従って、同じように歳を取って、皺も白髪も増えたお豊だが、美津江を安心させようとするときの笑い方は、昔から変わらない。それとも、それは美津江にとって、お豊が近しい存在だから、そのように感じる幻だろうか。
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