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三人の妻を持つ山男
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山男はツノゴの手から酒瓶を奪い取ると、ツノゴの隣にドッカリと岩のように座り込みながら、喉を逸らしてグビグビと酒を飲んだ。岩のカケラのような喉仏が、上へ下へと動き、樽のような腹の底へ酒が下っていく。山男の唇の端から、飲み込みきれなかった酒が、岩間から溢れる水のように伝い、山男の膝の上にポタリポタリと落ちるのを、竹林を舞う青白い蛾が啜る。
「もったいない」
「酒はこう飲むものだ」
山男は赤い歯茎まで剥き出しにして、アハアハと笑った。モジャモジャとした胸毛の奥の肌の底から、血の色が上る。
「お前のお雛はどこじゃ」
「トワコは寝かせている」
「嘘をつけ。そこにいるではないか」
トワコは、襖の向こうにひっそりとして、山男がグビグビと酒を飲むのを、面白そうに見ていた。
「お雛、お雛」
山男は青緑の目をグリグリ光らせながら、トワコを呼んだ。
山男は唐草模様の風呂敷を広げた。大きな果物が三つも、ゴロゴロとある。そのうちの一つがトワコの膝の前まで転がってきたのを、トワコは掌を皿のようにして受け取った。皮の色は黄色味がかった桃色で、表面に細かい産毛が生えている。トワコは果物の形を確かめるように撫で、鼻を近づけた。鼻の先に、チクチクと産毛が当たる。スゥッと息を吸うと、酸いような、甘いような匂いが、胸の奥に染みた。
「おい、いつまでそうしておる」
山男は呆れたように言った。
「こう食うのじゃ」
そう言って山男は、自分も果物を掴んだ。トワコが両手で大事に持つ果物を、片手で鷲掴みにしたのである。そして、それを口元まで持っていくと、大きく口を開けて、果物の皮を剥くこともせず、ガブリと噛んだ。果汁がドッと溢れ、山男の手首まで濡らした。山男はモッチャモッチャと口を動かすと、実だけを飲み込んで、種と皮は地面に吐き出した。蛾がヒラヒラと飛んでくるが、躊躇うように、山男が吐き出した果物の種と皮の周りを飛んでいる。
「トワコ、後で切ってやるから」
ツノゴはそう言ったが、トワコは山男の真似をして、果物に歯を立てた。しかし、トワコの小さな歯では、果物の案外丈夫な皮を食い破ることができなかった。
「トワコ、やめなさい」
ガジガジと果物に歯を立てようとするトワコの手から、果物を取り上げながらツノゴは言った。果物が手から離れてもトワコは、カチリ、カチリ、と二回歯を鳴らした。
「口の中が、何だかイガイガする」
「ガジガジしていたから、産毛が口の中に入ったのじゃないか」
「そうじゃの。儂はどうでもないが、気になるなら、うがいせぇ。ここに酒がある」
「トワコ、水があるからこれで口をゆすぎなさい」
トワコはツノゴから受け取った水でうがいをした。
「お雛、その浴衣の柄は何じゃ」
「ススキです」
「幽霊のようじゃの」
「古着屋で買ったの」
トワコはニコニコとしている。ツノゴは膝の上で、トワコから取り上げた果物を転がしている。
浴衣の値段を、山男は訊いた。
「その値段は安すぎる。それなら、曰く付きかもしれんなぁ」
「あなたは山で暮らしているから、近頃の物価を知らないのだろう」
ツノゴが、無愛想に言った。
「それなら、高いのか」
「まぁ……良いものですよ」
ツノゴは、曖昧な言い方をして、ニヤリと笑った。
「古着屋で買っても高いのなら、儂の女房に用意させよう……うん。その方がええ。女房の織った生地が、たくさんある」
「おじさん、奥さんがいるの」
「三人おる」
山男は、胸を張って言った。
「一人は梅の木じゃ。月に向かって枝を伸ばし、青い炎のような花を咲かせるのじゃ」
「青い梅の花なんて、聞いたことがない」
ツノゴが言った。少し、笑っているらしかった。
「おぬしらがこっちに来たときは、花は散ってしまったからのぅ……梅の木の妻は一晩しか咲くことができぬ」
山男は、美しい妻のもっとも美しい姿を見ることが出来なかったツノゴとトワコを樽のような腹の底から気の毒がるように言った。
「花が咲かなくとも美しい妻じゃが、花が咲いていなくてはみっともないと言って、儂以外には会おうとせん……もう一人の妻は、湖の底におる。これも美しい妻じゃ。目がよく見えんが物語が好きで、儂が時々本を読んでやる」
「おじさん、本が読めるの」
「読める。読める。あまり人を馬鹿にするな」
山男は、本当に驚いたように目を丸めているトワコに向かって、赤い歯茎を見せつけた。
「会いたいというなら、会わせてやろう」
「もう一人……最後の奥さんは?」
「機織りじゃ」
山男は、自慢げに笑いながら言った。トンテンカラリ、と口先で言いながら、機織りの手つきをしてみせる。
「器量は十人並みじゃが、こうやって、美しい機を織るのじゃ。夢のように美しい機じゃ。糸が足りなくなると、儂に糸を紡いできてくれと言う。儂は高い山に登って、一番近くにある雲から、よいせ、よいせ、と糸を紡ぎ、それを機織りの妻が染めて織るのじゃ。妻の機織りの技量は有名で、火の神様の娘の婚礼衣装を頼まれたこともあるのじゃぞ」
実は山男は、今日二人の元を訪ねてから、ずっとこの話がしたくてたまらなかったのである。この話をした山男は、そのときの、機織りの妻の喜びに輝きながら機織りをする横顔を思い出し、ガラガラと雷のような声で笑った。青白い蛾がその音に驚いたように、一斉に月に向かって飛び去った。キラキラと、月の粉のような淡い光だった。
「じゃあ、いつかトワコの婚礼衣装もその人に頼もうか」
ツノゴが、不思議な深みのある声で言った。
「うむ、引き受けた」
引き受けた、引き受けた、と山男は繰り返して、嬉しそうに頷いたら。
トワコはじっと月を見上げていた。その、黒い目の中に、月に向かって消えていく淡い光が、キラキラと映っていた。
「もったいない」
「酒はこう飲むものだ」
山男は赤い歯茎まで剥き出しにして、アハアハと笑った。モジャモジャとした胸毛の奥の肌の底から、血の色が上る。
「お前のお雛はどこじゃ」
「トワコは寝かせている」
「嘘をつけ。そこにいるではないか」
トワコは、襖の向こうにひっそりとして、山男がグビグビと酒を飲むのを、面白そうに見ていた。
「お雛、お雛」
山男は青緑の目をグリグリ光らせながら、トワコを呼んだ。
山男は唐草模様の風呂敷を広げた。大きな果物が三つも、ゴロゴロとある。そのうちの一つがトワコの膝の前まで転がってきたのを、トワコは掌を皿のようにして受け取った。皮の色は黄色味がかった桃色で、表面に細かい産毛が生えている。トワコは果物の形を確かめるように撫で、鼻を近づけた。鼻の先に、チクチクと産毛が当たる。スゥッと息を吸うと、酸いような、甘いような匂いが、胸の奥に染みた。
「おい、いつまでそうしておる」
山男は呆れたように言った。
「こう食うのじゃ」
そう言って山男は、自分も果物を掴んだ。トワコが両手で大事に持つ果物を、片手で鷲掴みにしたのである。そして、それを口元まで持っていくと、大きく口を開けて、果物の皮を剥くこともせず、ガブリと噛んだ。果汁がドッと溢れ、山男の手首まで濡らした。山男はモッチャモッチャと口を動かすと、実だけを飲み込んで、種と皮は地面に吐き出した。蛾がヒラヒラと飛んでくるが、躊躇うように、山男が吐き出した果物の種と皮の周りを飛んでいる。
「トワコ、後で切ってやるから」
ツノゴはそう言ったが、トワコは山男の真似をして、果物に歯を立てた。しかし、トワコの小さな歯では、果物の案外丈夫な皮を食い破ることができなかった。
「トワコ、やめなさい」
ガジガジと果物に歯を立てようとするトワコの手から、果物を取り上げながらツノゴは言った。果物が手から離れてもトワコは、カチリ、カチリ、と二回歯を鳴らした。
「口の中が、何だかイガイガする」
「ガジガジしていたから、産毛が口の中に入ったのじゃないか」
「そうじゃの。儂はどうでもないが、気になるなら、うがいせぇ。ここに酒がある」
「トワコ、水があるからこれで口をゆすぎなさい」
トワコはツノゴから受け取った水でうがいをした。
「お雛、その浴衣の柄は何じゃ」
「ススキです」
「幽霊のようじゃの」
「古着屋で買ったの」
トワコはニコニコとしている。ツノゴは膝の上で、トワコから取り上げた果物を転がしている。
浴衣の値段を、山男は訊いた。
「その値段は安すぎる。それなら、曰く付きかもしれんなぁ」
「あなたは山で暮らしているから、近頃の物価を知らないのだろう」
ツノゴが、無愛想に言った。
「それなら、高いのか」
「まぁ……良いものですよ」
ツノゴは、曖昧な言い方をして、ニヤリと笑った。
「古着屋で買っても高いのなら、儂の女房に用意させよう……うん。その方がええ。女房の織った生地が、たくさんある」
「おじさん、奥さんがいるの」
「三人おる」
山男は、胸を張って言った。
「一人は梅の木じゃ。月に向かって枝を伸ばし、青い炎のような花を咲かせるのじゃ」
「青い梅の花なんて、聞いたことがない」
ツノゴが言った。少し、笑っているらしかった。
「おぬしらがこっちに来たときは、花は散ってしまったからのぅ……梅の木の妻は一晩しか咲くことができぬ」
山男は、美しい妻のもっとも美しい姿を見ることが出来なかったツノゴとトワコを樽のような腹の底から気の毒がるように言った。
「花が咲かなくとも美しい妻じゃが、花が咲いていなくてはみっともないと言って、儂以外には会おうとせん……もう一人の妻は、湖の底におる。これも美しい妻じゃ。目がよく見えんが物語が好きで、儂が時々本を読んでやる」
「おじさん、本が読めるの」
「読める。読める。あまり人を馬鹿にするな」
山男は、本当に驚いたように目を丸めているトワコに向かって、赤い歯茎を見せつけた。
「会いたいというなら、会わせてやろう」
「もう一人……最後の奥さんは?」
「機織りじゃ」
山男は、自慢げに笑いながら言った。トンテンカラリ、と口先で言いながら、機織りの手つきをしてみせる。
「器量は十人並みじゃが、こうやって、美しい機を織るのじゃ。夢のように美しい機じゃ。糸が足りなくなると、儂に糸を紡いできてくれと言う。儂は高い山に登って、一番近くにある雲から、よいせ、よいせ、と糸を紡ぎ、それを機織りの妻が染めて織るのじゃ。妻の機織りの技量は有名で、火の神様の娘の婚礼衣装を頼まれたこともあるのじゃぞ」
実は山男は、今日二人の元を訪ねてから、ずっとこの話がしたくてたまらなかったのである。この話をした山男は、そのときの、機織りの妻の喜びに輝きながら機織りをする横顔を思い出し、ガラガラと雷のような声で笑った。青白い蛾がその音に驚いたように、一斉に月に向かって飛び去った。キラキラと、月の粉のような淡い光だった。
「じゃあ、いつかトワコの婚礼衣装もその人に頼もうか」
ツノゴが、不思議な深みのある声で言った。
「うむ、引き受けた」
引き受けた、引き受けた、と山男は繰り返して、嬉しそうに頷いたら。
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