5 / 10
『童話のような物①』
『泥棒とカラス』
しおりを挟む
夕方の商店街通り、烏も山に帰る時間。樹街路が紅葉に染まり、ひらひらと北風に煽られて、赤いじゅうたんを作り上げる。
人気もまばらになってきたその地で、ヘタクソなギターの音がべんべんと繰り返される。
そこに馬鹿みたいな叫ぶ声も追加され、へたくそなハーモニーが奏でられていた。
町の百貨店売り場の前、ギターケースを汚い地べたに広げ、さあ、金を入れろと音が告げている。
へたくそなハーモニーを奏でる男は二十歳超えだろうか。
彼と同じ年ぐらいの男性たちはスーツに身を包み、バス通りで時計を気にしながら、バスを待っている。
ただ、がむしゃらに男はへたくそな音を街中に響かせる。
茶色のギターには大きな穴が開いており、おそらく、ギターらしい音はどこか違うのだろう。
頭まで茶色くさせ、耳には赤いピアス。
目立つ男の前で立ち止まる客は誰一人いない。
男が音を止めても、拍手一つない。男は深いため息を一つついて、ギターを仕舞い始める。
そんな時だった。
男の頭上に小さな黒い影が差した。男は何事かと、顔をあげる。
そこには珍しい一羽の白いカラスが物珍しそうに男を見ていた。
男も珍しそうにカラスを見ていると、カラスが怪しく嗤った。
「馬鹿みたいな声と音が聞こえて来たと思えば、馬鹿みたいな男が弾いているなぁ」
その一言で男は「え」と小さく言ってから、目を丸くさせた。
白いカラスは、くつくつと笑って、赤い瞳をギターケースに向ける。
そこには、入るべきお金すら入っていない。
カラスは、さも可笑しそうにげらげらと笑った。
怒りか、恥ずかしさか、男は顔を真っ赤にさせる。乱暴にギターをケースに入れて、カラスを再びキッと睨め付ける。
「カラスまで俺を馬鹿にするのか……今日は疲れているんだ。さて、帰るか」
男の言葉にカラスは白い口をにやりとさせる。
男は面白くなさそうに口を尖らせる。まるで、声を発しないカラスが男を馬鹿にしているように感じたからだ。
彼はケースを背負い、商店街を歩き出す。カラスは男の後姿を赤い瞳でじっと見つめている。
人の目がちらほらと男に向く。しかし、ほとんどが興味なさそうに過ぎていく。
たくさんの人が行き交い、男を過ぎたり、越したり、男が人を過ぎたり、越したり。その繰り返しだ。
と、男はふと足を止めて、人気ない店の前で立ち止まる。
そこは白い壁と赤い屋根の店だった。もう閉店時間なのか、中に人はいない。
その店は意外と広く、その中にはギターやヴァイオリン、ハープなどといった楽器が置かれている。
キラキラと夕焼けで反射し、オレンジ色に輝く楽器たちは、買い手を待つかのように自らの輝きを保っている。
男はそれら楽器に目もくれず、店の奥で一際輝くピアノを見つめていた。
ピアノは真っ白で、金剛のように輝く。それは見る者全てを虜にするほどの輝きを男に魅せている。
男が観賞をしていると、背後から、クククと笑う声が響く。何事かと振り返れば、そこには白いカラスまたがいた。
「気持ち悪いな……まだついて来るのか」
「まあ、そう言うな。お前のへたくそな音楽を聴いてやっているんだ」
白いカラスはそう言って、商店街のベンチにぴょんと飛び乗った。男は不機嫌そうにカラスを見てから、頭を手でたたき始めた。
「ついに俺も馬鹿になったか……」
「元からあの馬鹿みたいな音楽を弾いているんだ。元々、馬鹿なのだろう?」
そのカラスの一言に男はたたいていた手を止めた。
「んだと!?」
男がムカッとして、拳を作り上げる。カラスは羽を広げて、頭上の電線へと飛び乗った。
白い羽が一枚抜けて、男の前にフワリと落ちる。
それはとても美しい羽だった。カラスは風の吹く方を見ながら、なだめるように優しい声で言う。
「まあまあ、落ち着いて聞け。俺はお前の音楽を聞いてやっているんだ。まあ、数少ないファンは大事にしろよ」
カラスはそう言って楽しそうに笑う。男は少し冷静になって拳を戻す。
奇妙な事が起きているものだ、と男は思った。
きっと、この現象は疲れから来ているのだろうが、話を聞いてやろう。と、男は考える。
「んで、カラスさんは何で俺に話しかけたのかな?」
「感想を言ってやったのだ」
「わざわざ、へたくそって言いにか」
性質の悪いカラスだ、と男は内心毒づく。
「まあ、そうだな。そのヘボいギターをどうにかしてほしい。大穴あいているんだ。修理でもしたらどうだ?」
「お金がないし、俺は元々ピアノ弾きだったんだ」
「ほう?」
男が冷静になった事を感じ取ったカラスは白い翼を広げて、男の前まで降下して来た。赤い瞳は店内のピアノへと移される。
「だから、毎日あのピアノを見に来たのか」
「見てたのか」
「この町は俺のテリトリーだからな」
カラスは偉そうに威張る。
男は軽く相槌を打ち、目前の白いピアノへ視線を移す。
値段は数字の零が六個に、頭には九。普通に考えても、男には払えない金額だった。
大きく落胆する男を見て、カラスは鼻で笑う。
「ピアノ弾きなのに、ピアノを持っていないのか」
「小さい頃に持ってたけれど、売ったんだ」
「ふーん」
素直な男にカラスは責めも得意な皮肉も言わずに、普通に頷いた。
そう、男はピアノ弾きだった。幼稚園からピアノに触れ、小学から中学にかけて、彼の人生はピアノだけだった。
しかし、父の会社が倒産。彼はピアノと共にした人生をやめ、親の借金と共にすることになる。
男は子供のような瞳で白いピアノを見つめていた。
カラスはそんな男の背中を見つめ、深いため息をつく。
「馬鹿だな」
何度目かの馬鹿。
男は怪訝そうにカラスを振り返った。
「ピアノが好きなのに、何でお前は何もしてない? 毎日毎日、朝から夕方まで誰も聞かない歌を奏でるじゃないか。お前は何をしたい?」
カラスは呆れたように大きなため息をついた。
男は何も言い返せなかった。
バイトをして、親の借金返済を手伝う訳でもない。
バイトをして、ギターを買いなおしたり、一番ほしいピアノを買うわけでもない。
誰かに頼んで、ピアノを触らせてもらうわけでもない。
一日中、誰も聞かない音楽を奏でているだけ。
騒音を奏でているだけ。
「行動ぐらい起こしたらどうだ?」
「……たとえば?」
男は枯れるような小さな声でカラスにたずねる。
カラスは少し考えてから、「今すぐにでも弾きたいのなら、ピアノを盗むなんてどうだ?」と言った。
「犯罪だろ……」
「そうだな。犯罪だ」
男とカラスはピアノへと視線を移す。きらきらと光る白いピアノ。オレンジ色の反射する光。まるで、おいでおいでと男を誘っているようだ。
「それに、あんなに大きい物はどうがんばったって盗めないよ」
男は話すだけ無駄と考えたのだろう。
カラスに背を向け、ゆっくりとした足取りで帰路へ付こうとする。
背後からカラスがクククと笑った。
「そうやって、何時壊れるかもわからないギターを弾くのか? 誰も聞かない音をずっと。ピアノから逃げるのか? 何もしないで、逃げて逃げて……お前は馬鹿だなぁ。否、臆病者だ」
男の足がぴたりと止まる。
しかし、再びゆっくりと帰り道を歩き出す。
カラスは見下げ果てるが、それ以上は何も言わなかった。
その夜の商店街。
一人の男が樹街路を走っていた。
そして、一軒の白い壁と赤い屋根の店で足を止める。
手にはひとつの道具。男は扉に近寄ると、手を起用に使う。
男はシリンダー錠をいとも簡単に開け、道具をポケットにしまった。
男は昼間の男だ。茶髪を汗でぬらし、背筋も冷や汗だらけ。
そっと、あけた扉を閉め、男は店内をゆっくりと歩き出す。
真っ暗ではなかった。蛍光灯の光が楽器などを薄暗く照らしている。
男はゆっくりとした足取りでピアノまで向かう。
近くで見れば見るほど、すばらしいピアノだった。
恐る恐るとピアノの蓋を開き、変なところがないか、チェックしていく。
白いピアノはどこまでもきれいだった。
今度は盤を確認する。
白と黒の旋律がどこまでも広がっているようだった。
男はそっと椅子に腰をおろし、しばらくその原盤を見つめていた。
ようやく、なしくずしにピアノのドに触れる。
懐かしい聞きなれた音が響く。男の瞳からぽろりと光が落ちた。
男はそこから、ゆっくりと手を動かしていく。
最初はド、次はミ――音は途切れることを知らない。
あふれるメロディが男の指を動かし続ける。
ペダルを踏んで、指で奏でて、心は満たされていく。
ぼろぼろのギターを弾くのとは大違い。
ショパンの華麗なる大円舞曲、シューベルトのセレナード、モーツァルトのロンド。
音はまだまだ奏でられる。瞳から零れ落ちていく涙はとどまることを知らない。
男がピアノを引き続けて何時間か経った時だ。
カタンと音が響き、警備員のような男が現れる。
それはあっという間の逮捕劇だった。
逃げようとした男は一瞬にして捕まった。
楽器たちが哀れむように光り、男は警備員に連行されていく。
男は連行される間、ピアノをじっと眺めていた。
やがて、男の視界からピアノが消えたとき、男と警備員は夜の闇に消えていった。
何度目かの秋。
男はいつもと同じ日常を送っていた。
穴の開いたギターを弾きなおし、相変わらず馬鹿な歌を奏でている。
しかし、男の目は子供のようにきらきらと輝いていた。
相変わらずの商店街と樹街路。男の頭上に黒い影が通る。男は頭上を見上げた。
そこには一羽の白いカラスがいた。
「また馬鹿な歌を弾いているのか」
「お前、また来たのか」
「ふん、お前のファンだと言っただろう? 少しはマシな歌を弾けるようになったのだな」
「ありがた迷惑だ、こんちくしょう」
「フフ」
カラスが小さく笑った。男も釣られて小さく笑う。
「俺さ、仕事始めたよ」
「ほーう?」
「新品ネコ脚グランドの白いピアノを買うんだ」
男は商店街の遠くを見つめる。
カラスもその視線の先を追うが、すぐに理解した。
カラスはくつりと笑ってから、何か気が付いたように首をひねった。
「そういえば、お前の名は?」
「俺? 俺は――」
男は名前を静かに語りだす。
紡がれた言葉にカラスは満足そうに笑うのだ。
そして、ギターケースの前に降り立つと、カラスはどこかで取ってきたのであろう桑の実一つ、ギターケースへ放り投げた。
やがて、白いカラスは、夕焼け空の向こうへ消えていった。
男は数年もその場所でカラスを待つが、カラスが男の前へやってくる事はなかった。
十年後、男はぱたりとその商店街から消える。
それと同時期、街外れにある一角から、決まった時間にピアノ音が奏でられる。
その緑色の屋根の上で、白いカラスはピアノの音を聞いている。
赤い瞳は子供のように輝いて、口元は満足したようにほくそ笑んでいた。
終
人気もまばらになってきたその地で、ヘタクソなギターの音がべんべんと繰り返される。
そこに馬鹿みたいな叫ぶ声も追加され、へたくそなハーモニーが奏でられていた。
町の百貨店売り場の前、ギターケースを汚い地べたに広げ、さあ、金を入れろと音が告げている。
へたくそなハーモニーを奏でる男は二十歳超えだろうか。
彼と同じ年ぐらいの男性たちはスーツに身を包み、バス通りで時計を気にしながら、バスを待っている。
ただ、がむしゃらに男はへたくそな音を街中に響かせる。
茶色のギターには大きな穴が開いており、おそらく、ギターらしい音はどこか違うのだろう。
頭まで茶色くさせ、耳には赤いピアス。
目立つ男の前で立ち止まる客は誰一人いない。
男が音を止めても、拍手一つない。男は深いため息を一つついて、ギターを仕舞い始める。
そんな時だった。
男の頭上に小さな黒い影が差した。男は何事かと、顔をあげる。
そこには珍しい一羽の白いカラスが物珍しそうに男を見ていた。
男も珍しそうにカラスを見ていると、カラスが怪しく嗤った。
「馬鹿みたいな声と音が聞こえて来たと思えば、馬鹿みたいな男が弾いているなぁ」
その一言で男は「え」と小さく言ってから、目を丸くさせた。
白いカラスは、くつくつと笑って、赤い瞳をギターケースに向ける。
そこには、入るべきお金すら入っていない。
カラスは、さも可笑しそうにげらげらと笑った。
怒りか、恥ずかしさか、男は顔を真っ赤にさせる。乱暴にギターをケースに入れて、カラスを再びキッと睨め付ける。
「カラスまで俺を馬鹿にするのか……今日は疲れているんだ。さて、帰るか」
男の言葉にカラスは白い口をにやりとさせる。
男は面白くなさそうに口を尖らせる。まるで、声を発しないカラスが男を馬鹿にしているように感じたからだ。
彼はケースを背負い、商店街を歩き出す。カラスは男の後姿を赤い瞳でじっと見つめている。
人の目がちらほらと男に向く。しかし、ほとんどが興味なさそうに過ぎていく。
たくさんの人が行き交い、男を過ぎたり、越したり、男が人を過ぎたり、越したり。その繰り返しだ。
と、男はふと足を止めて、人気ない店の前で立ち止まる。
そこは白い壁と赤い屋根の店だった。もう閉店時間なのか、中に人はいない。
その店は意外と広く、その中にはギターやヴァイオリン、ハープなどといった楽器が置かれている。
キラキラと夕焼けで反射し、オレンジ色に輝く楽器たちは、買い手を待つかのように自らの輝きを保っている。
男はそれら楽器に目もくれず、店の奥で一際輝くピアノを見つめていた。
ピアノは真っ白で、金剛のように輝く。それは見る者全てを虜にするほどの輝きを男に魅せている。
男が観賞をしていると、背後から、クククと笑う声が響く。何事かと振り返れば、そこには白いカラスまたがいた。
「気持ち悪いな……まだついて来るのか」
「まあ、そう言うな。お前のへたくそな音楽を聴いてやっているんだ」
白いカラスはそう言って、商店街のベンチにぴょんと飛び乗った。男は不機嫌そうにカラスを見てから、頭を手でたたき始めた。
「ついに俺も馬鹿になったか……」
「元からあの馬鹿みたいな音楽を弾いているんだ。元々、馬鹿なのだろう?」
そのカラスの一言に男はたたいていた手を止めた。
「んだと!?」
男がムカッとして、拳を作り上げる。カラスは羽を広げて、頭上の電線へと飛び乗った。
白い羽が一枚抜けて、男の前にフワリと落ちる。
それはとても美しい羽だった。カラスは風の吹く方を見ながら、なだめるように優しい声で言う。
「まあまあ、落ち着いて聞け。俺はお前の音楽を聞いてやっているんだ。まあ、数少ないファンは大事にしろよ」
カラスはそう言って楽しそうに笑う。男は少し冷静になって拳を戻す。
奇妙な事が起きているものだ、と男は思った。
きっと、この現象は疲れから来ているのだろうが、話を聞いてやろう。と、男は考える。
「んで、カラスさんは何で俺に話しかけたのかな?」
「感想を言ってやったのだ」
「わざわざ、へたくそって言いにか」
性質の悪いカラスだ、と男は内心毒づく。
「まあ、そうだな。そのヘボいギターをどうにかしてほしい。大穴あいているんだ。修理でもしたらどうだ?」
「お金がないし、俺は元々ピアノ弾きだったんだ」
「ほう?」
男が冷静になった事を感じ取ったカラスは白い翼を広げて、男の前まで降下して来た。赤い瞳は店内のピアノへと移される。
「だから、毎日あのピアノを見に来たのか」
「見てたのか」
「この町は俺のテリトリーだからな」
カラスは偉そうに威張る。
男は軽く相槌を打ち、目前の白いピアノへ視線を移す。
値段は数字の零が六個に、頭には九。普通に考えても、男には払えない金額だった。
大きく落胆する男を見て、カラスは鼻で笑う。
「ピアノ弾きなのに、ピアノを持っていないのか」
「小さい頃に持ってたけれど、売ったんだ」
「ふーん」
素直な男にカラスは責めも得意な皮肉も言わずに、普通に頷いた。
そう、男はピアノ弾きだった。幼稚園からピアノに触れ、小学から中学にかけて、彼の人生はピアノだけだった。
しかし、父の会社が倒産。彼はピアノと共にした人生をやめ、親の借金と共にすることになる。
男は子供のような瞳で白いピアノを見つめていた。
カラスはそんな男の背中を見つめ、深いため息をつく。
「馬鹿だな」
何度目かの馬鹿。
男は怪訝そうにカラスを振り返った。
「ピアノが好きなのに、何でお前は何もしてない? 毎日毎日、朝から夕方まで誰も聞かない歌を奏でるじゃないか。お前は何をしたい?」
カラスは呆れたように大きなため息をついた。
男は何も言い返せなかった。
バイトをして、親の借金返済を手伝う訳でもない。
バイトをして、ギターを買いなおしたり、一番ほしいピアノを買うわけでもない。
誰かに頼んで、ピアノを触らせてもらうわけでもない。
一日中、誰も聞かない音楽を奏でているだけ。
騒音を奏でているだけ。
「行動ぐらい起こしたらどうだ?」
「……たとえば?」
男は枯れるような小さな声でカラスにたずねる。
カラスは少し考えてから、「今すぐにでも弾きたいのなら、ピアノを盗むなんてどうだ?」と言った。
「犯罪だろ……」
「そうだな。犯罪だ」
男とカラスはピアノへと視線を移す。きらきらと光る白いピアノ。オレンジ色の反射する光。まるで、おいでおいでと男を誘っているようだ。
「それに、あんなに大きい物はどうがんばったって盗めないよ」
男は話すだけ無駄と考えたのだろう。
カラスに背を向け、ゆっくりとした足取りで帰路へ付こうとする。
背後からカラスがクククと笑った。
「そうやって、何時壊れるかもわからないギターを弾くのか? 誰も聞かない音をずっと。ピアノから逃げるのか? 何もしないで、逃げて逃げて……お前は馬鹿だなぁ。否、臆病者だ」
男の足がぴたりと止まる。
しかし、再びゆっくりと帰り道を歩き出す。
カラスは見下げ果てるが、それ以上は何も言わなかった。
その夜の商店街。
一人の男が樹街路を走っていた。
そして、一軒の白い壁と赤い屋根の店で足を止める。
手にはひとつの道具。男は扉に近寄ると、手を起用に使う。
男はシリンダー錠をいとも簡単に開け、道具をポケットにしまった。
男は昼間の男だ。茶髪を汗でぬらし、背筋も冷や汗だらけ。
そっと、あけた扉を閉め、男は店内をゆっくりと歩き出す。
真っ暗ではなかった。蛍光灯の光が楽器などを薄暗く照らしている。
男はゆっくりとした足取りでピアノまで向かう。
近くで見れば見るほど、すばらしいピアノだった。
恐る恐るとピアノの蓋を開き、変なところがないか、チェックしていく。
白いピアノはどこまでもきれいだった。
今度は盤を確認する。
白と黒の旋律がどこまでも広がっているようだった。
男はそっと椅子に腰をおろし、しばらくその原盤を見つめていた。
ようやく、なしくずしにピアノのドに触れる。
懐かしい聞きなれた音が響く。男の瞳からぽろりと光が落ちた。
男はそこから、ゆっくりと手を動かしていく。
最初はド、次はミ――音は途切れることを知らない。
あふれるメロディが男の指を動かし続ける。
ペダルを踏んで、指で奏でて、心は満たされていく。
ぼろぼろのギターを弾くのとは大違い。
ショパンの華麗なる大円舞曲、シューベルトのセレナード、モーツァルトのロンド。
音はまだまだ奏でられる。瞳から零れ落ちていく涙はとどまることを知らない。
男がピアノを引き続けて何時間か経った時だ。
カタンと音が響き、警備員のような男が現れる。
それはあっという間の逮捕劇だった。
逃げようとした男は一瞬にして捕まった。
楽器たちが哀れむように光り、男は警備員に連行されていく。
男は連行される間、ピアノをじっと眺めていた。
やがて、男の視界からピアノが消えたとき、男と警備員は夜の闇に消えていった。
何度目かの秋。
男はいつもと同じ日常を送っていた。
穴の開いたギターを弾きなおし、相変わらず馬鹿な歌を奏でている。
しかし、男の目は子供のようにきらきらと輝いていた。
相変わらずの商店街と樹街路。男の頭上に黒い影が通る。男は頭上を見上げた。
そこには一羽の白いカラスがいた。
「また馬鹿な歌を弾いているのか」
「お前、また来たのか」
「ふん、お前のファンだと言っただろう? 少しはマシな歌を弾けるようになったのだな」
「ありがた迷惑だ、こんちくしょう」
「フフ」
カラスが小さく笑った。男も釣られて小さく笑う。
「俺さ、仕事始めたよ」
「ほーう?」
「新品ネコ脚グランドの白いピアノを買うんだ」
男は商店街の遠くを見つめる。
カラスもその視線の先を追うが、すぐに理解した。
カラスはくつりと笑ってから、何か気が付いたように首をひねった。
「そういえば、お前の名は?」
「俺? 俺は――」
男は名前を静かに語りだす。
紡がれた言葉にカラスは満足そうに笑うのだ。
そして、ギターケースの前に降り立つと、カラスはどこかで取ってきたのであろう桑の実一つ、ギターケースへ放り投げた。
やがて、白いカラスは、夕焼け空の向こうへ消えていった。
男は数年もその場所でカラスを待つが、カラスが男の前へやってくる事はなかった。
十年後、男はぱたりとその商店街から消える。
それと同時期、街外れにある一角から、決まった時間にピアノ音が奏でられる。
その緑色の屋根の上で、白いカラスはピアノの音を聞いている。
赤い瞳は子供のように輝いて、口元は満足したようにほくそ笑んでいた。
終
0
あなたにおすすめの小説
転生妃は後宮学園でのんびりしたい~冷徹皇帝の胃袋掴んだら、なぜか溺愛ルート始まりました!?~
☆ほしい
児童書・童話
平凡な女子高生だった私・茉莉(まり)は、交通事故に遭い、目覚めると中華風異世界・彩雲国の後宮に住む“嫌われ者の妃”・麗霞(れいか)に転生していた!
麗霞は毒婦だと噂され、冷徹非情で有名な若き皇帝・暁からは見向きもされない最悪の状況。面倒な権力争いを避け、前世の知識を活かして、後宮の学園で美味しいお菓子でも作りのんびり過ごしたい…そう思っていたのに、気まぐれに献上した「プリン」が、甘いものに興味がないはずの皇帝の胃袋を掴んでしまった!
「…面白い。明日もこれを作れ」
それをきっかけに、なぜか暁がわからの好感度が急上昇! 嫉妬する他の妃たちからの嫌がらせも、持ち前の雑草魂と現代知識で次々解決! 平穏なスローライフを目指す、転生妃の爽快成り上がり後宮ファンタジー!
ぼくのだいじなヒーラー
もちっぱち
絵本
台所でお母さんと喧嘩した。
遊んでほしくて駄々をこねただけなのに
怖い顔で怒っていたお母さん。
そんな時、不思議な空間に包まれてふわりと気持ちが軽くなった。
癒される謎の生き物に会えたゆうくんは楽しくなった。
お子様向けの作品です
ひらがな表記です。
ぜひ読んでみてください。
イラスト:ChatGPT(OpenAI)生成
瑠璃の姫君と鉄黒の騎士
石河 翠
児童書・童話
可愛いフェリシアはひとりぼっち。部屋の中に閉じ込められ、放置されています。彼女の楽しみは、窓の隙間から空を眺めながら歌うことだけ。
そんなある日フェリシアは、貧しい身なりの男の子にさらわれてしまいました。彼は本来自分が受け取るべきだった幸せを、フェリシアが台無しにしたのだと責め立てます。
突然のことに困惑しつつも、男の子のためにできることはないかと悩んだあげく、彼女は一本の羽を渡すことに決めました。
大好きな友達に似た男の子に笑ってほしい、ただその一心で。けれどそれは、彼女の命を削る行為で……。
記憶を失くしたヒロインと、幸せになりたいヒーローの物語。ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:249286)をお借りしています。
星降る夜に落ちた子
千東風子
児童書・童話
あたしは、いらなかった?
ねえ、お父さん、お母さん。
ずっと心で泣いている女の子がいました。
名前は世羅。
いつもいつも弟ばかり。
何か買うのも出かけるのも、弟の言うことを聞いて。
ハイキングなんて、来たくなかった!
世羅が怒りながら歩いていると、急に体が浮きました。足を滑らせたのです。その先は、とても急な坂。
世羅は滑るように落ち、気を失いました。
そして、目が覚めたらそこは。
住んでいた所とはまるで違う、見知らぬ世界だったのです。
気が強いけれど寂しがり屋の女の子と、ワケ有りでいつも諦めることに慣れてしまった綺麗な男の子。
二人がお互いの心に寄り添い、成長するお話です。
全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。
苦手な方は回れ右をお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。
石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!
こちらは他サイトにも掲載しています。
生まれたばかりですが、早速赤ちゃんセラピー?始めます!
mabu
児童書・童話
超ラッキーな環境での転生と思っていたのにママさんの体調が危ないんじゃぁないの?
ママさんが大好きそうなパパさんを闇落ちさせない様に赤ちゃんセラピーで頑張ります。
力を使って魔力を増やして大きくなったらチートになる!
ちょっと赤ちゃん系に挑戦してみたくてチャレンジしてみました。
読みにくいかもしれませんが宜しくお願いします。
誤字や意味がわからない時は皆様の感性で受け捉えてもらえると助かります。
流れでどうなるかは未定なので一応R15にしております。
現在投稿中の作品と共に地道にマイペースで進めていきますので宜しくお願いします🙇
此方でも感想やご指摘等への返答は致しませんので宜しくお願いします。
かつて聖女は悪女と呼ばれていた
朔雲みう (さくもみう)
児童書・童話
「別に計算していたわけではないのよ」
この聖女、悪女よりもタチが悪い!?
悪魔の力で聖女に成り代わった悪女は、思い知ることになる。聖女がいかに優秀であったのかを――!!
聖女が華麗にざまぁします♪
※ エブリスタさんの妄コン『変身』にて、大賞をいただきました……!!✨
※ 悪女視点と聖女視点があります。
※ 表紙絵は親友の朝美智晴さまに描いていただきました♪
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる