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『童話のような物①』
『さくらさく』
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何とかしてあげたい。
そうは思っても死は逆らえないものだと。私はしみじみとそれを感じた。
祖父母が大事に育てていた一本の染井吉野。幼い頃は良く桜の下で駆けまわっていた。何でも、祖父母もこの桜を見て育ったのだとか。
春になると大輪を咲かせて、風に吹かれて。花びらを散らしていく様子はとても美しい。
しかし、来年はこれが見られないかもしれない。
樹の根元が腐りかかってきている。病気なのか、寿命なのかは解らない。何とかしようと専門家を呼んだのだが、木の髄まで浸食が進んでるそうだ。
「ごめんな」
ぽつりと呟いて、木に手を置いてやる。何にも語らないのは知っている。風で木の葉がざあざあと音を立てる。冬の寒さに耐えきれないかもしれない。いや、冬が来る前に死んでしまうのかもしれない。
毎年、楽しみにしていた。幼い頃からここに居たものがいなくなるのは悲しい。
家が公園に近いためか、良く近所の人々が桜見たさにやってきてくれたりもした。きっと、皆残念がるのだろう。
「頑張れよ、頑張れよ」
これしか言葉をかけてあげられない自分が憎かった。もっと、自分に上手い言葉があれば。いや、もっと早くに気が付いてあげられたのなら。
そんな事を一人で悶々と考えながら、通販で買った土壌を良くするバクテリアとやらを撒きはじめた時だった。
「もしもし、もしもし」
女性の声だった。慌てて振り返れば、白髪の老婆が微笑んでいた。桜模様の黒い着物に身を包み、よろよろと歩く老婆は今にでも倒れてしまいそうだった。
「初めまして」
「え、はい。はじめまして」
初めて見る顔で、気が付けば挨拶をしていた。垂れ目がちな優しい目、そして、長い年月刻まれたであろうしわ。彼女はにこりと笑って、上を仰いだ。
その先には満開な桜が。とても綺麗で、淡い桜色を帯びた花々。
「綺麗でしょう」
「ええ、ええ。そうですね」
女性はにこにこと笑って答えた。僕は嬉しく思った。
「桜見たさで、こちらに来てくれる方が多いんです。良かったら、お茶はどうですか? 桜茶なんてのも出せますよ」
「桜茶、ですか。美味しそうですね」
「今、持ってきますね。よかったら、そちらの椅子に腰かけて待っていてください」
桜の木のすぐ傍に作られた椅子。このあたりは高齢者が多く、立ってみるのも一苦労。そのためか、近所のおじさんが持ってきたものだ。老婆は短くお礼を言うと、椅子に座って再び桜を眺めはじめた。
僕はその姿に感嘆しつつ家の中に戻る。着物と桜は良く合うな、なんて思いつつ。簡易的な桜茶を作って部屋を出た。
戻ると老婆は先ほどと同じく、桜を見上げていた。
「熱いので気をつけてくださいね」
「ええ、ええ。ありがとう」
老婆はお茶を受けとり、優しい笑みを浮かべている。僕は彼女から許可を取り、隣に腰を下ろした。僕も自分のお茶を掌で遊びながら、僕も桜を見上げる。
「立派に育ったのね」
「はい。ですけれど、今年で最後かもしれません」
老婆は僕の話に耳を傾けながらお茶に口をつける。
「根元が腐ってしまって、どんどん腐食が進んでるんです。可哀そうだけれど、来年は越せないでしょう」
「やっぱりね」
「はい?」
女性がぽつりと呟いたのを聞き、僕は聞き返す。桜の花びらが風で散って行く。
「いえ、何でもありません。素敵な桜に育って、なんと、美しい。桜の周りには雑草一つない。お手入れされているのでしょう」
「あ、いえ。いえ、そんな」
僕は急に恥ずかしくなり、彼女の視線から逃れようと下を見た。握りしめていたコップの中で桜が揺れている。
「でも、ダメでした。頑張っても、ダメでした」
「決めるのは、あなたじゃないわ。決めるのはこの桜でしょう?」
老婆に視線を移せば、彼女はころころと笑っている。綺麗な笑顔だ、と僕は内心思った。さあさあと風が桜と遊ぶ。そのたびに、散ってしまう桜の花びら。その一枚が、彼女の桜茶の中に落ちる。波紋を一瞬だけ水面に浮かべて、僕と彼女はその様子をただ見つめていた。
「そうですね……桜が決める。そうですよね」
気が付けば、自然と嬉しくなった。顔をあげれば、優しい眼差しと目が合う。
「私はそろそろいきますね。お茶をありがとうございます」
「いえ、またいらしてください」
「はい。あ……いえ、いえ。私はいつでも、見れますので」
彼女はにこりと笑って、去っていく。
しかし、途中でぴたりと足を止めて僕の方を振り返った。
「ありがとう、ありがとう」
頭を何度か垂れて、彼女は去って行く。僕は少しだけ、胸の内が軽くなった気がした。
それから、一度も彼女はここに立ち入る事は無かった。
桜の木は季節を二回りした後、静かに息を引き取った。
それは、肌寒い四月の事。腐ってたくさんの枝が地面についても、満開に咲かせながら、生命を謳歌した桜の最後。
最後は多くの人に見送られながら、桜はその巨体を支えきれず、倒れてしまった。業者に頼んで、切り取ってもらった。広い庭に朽ちた大木。
雷のような轟音を響かせながら、ゆっくりと体を傾けるその刹那。
老婆の「ありがとう、ありがとう」という言葉が最後まで耳から離れなかった。
終
そうは思っても死は逆らえないものだと。私はしみじみとそれを感じた。
祖父母が大事に育てていた一本の染井吉野。幼い頃は良く桜の下で駆けまわっていた。何でも、祖父母もこの桜を見て育ったのだとか。
春になると大輪を咲かせて、風に吹かれて。花びらを散らしていく様子はとても美しい。
しかし、来年はこれが見られないかもしれない。
樹の根元が腐りかかってきている。病気なのか、寿命なのかは解らない。何とかしようと専門家を呼んだのだが、木の髄まで浸食が進んでるそうだ。
「ごめんな」
ぽつりと呟いて、木に手を置いてやる。何にも語らないのは知っている。風で木の葉がざあざあと音を立てる。冬の寒さに耐えきれないかもしれない。いや、冬が来る前に死んでしまうのかもしれない。
毎年、楽しみにしていた。幼い頃からここに居たものがいなくなるのは悲しい。
家が公園に近いためか、良く近所の人々が桜見たさにやってきてくれたりもした。きっと、皆残念がるのだろう。
「頑張れよ、頑張れよ」
これしか言葉をかけてあげられない自分が憎かった。もっと、自分に上手い言葉があれば。いや、もっと早くに気が付いてあげられたのなら。
そんな事を一人で悶々と考えながら、通販で買った土壌を良くするバクテリアとやらを撒きはじめた時だった。
「もしもし、もしもし」
女性の声だった。慌てて振り返れば、白髪の老婆が微笑んでいた。桜模様の黒い着物に身を包み、よろよろと歩く老婆は今にでも倒れてしまいそうだった。
「初めまして」
「え、はい。はじめまして」
初めて見る顔で、気が付けば挨拶をしていた。垂れ目がちな優しい目、そして、長い年月刻まれたであろうしわ。彼女はにこりと笑って、上を仰いだ。
その先には満開な桜が。とても綺麗で、淡い桜色を帯びた花々。
「綺麗でしょう」
「ええ、ええ。そうですね」
女性はにこにこと笑って答えた。僕は嬉しく思った。
「桜見たさで、こちらに来てくれる方が多いんです。良かったら、お茶はどうですか? 桜茶なんてのも出せますよ」
「桜茶、ですか。美味しそうですね」
「今、持ってきますね。よかったら、そちらの椅子に腰かけて待っていてください」
桜の木のすぐ傍に作られた椅子。このあたりは高齢者が多く、立ってみるのも一苦労。そのためか、近所のおじさんが持ってきたものだ。老婆は短くお礼を言うと、椅子に座って再び桜を眺めはじめた。
僕はその姿に感嘆しつつ家の中に戻る。着物と桜は良く合うな、なんて思いつつ。簡易的な桜茶を作って部屋を出た。
戻ると老婆は先ほどと同じく、桜を見上げていた。
「熱いので気をつけてくださいね」
「ええ、ええ。ありがとう」
老婆はお茶を受けとり、優しい笑みを浮かべている。僕は彼女から許可を取り、隣に腰を下ろした。僕も自分のお茶を掌で遊びながら、僕も桜を見上げる。
「立派に育ったのね」
「はい。ですけれど、今年で最後かもしれません」
老婆は僕の話に耳を傾けながらお茶に口をつける。
「根元が腐ってしまって、どんどん腐食が進んでるんです。可哀そうだけれど、来年は越せないでしょう」
「やっぱりね」
「はい?」
女性がぽつりと呟いたのを聞き、僕は聞き返す。桜の花びらが風で散って行く。
「いえ、何でもありません。素敵な桜に育って、なんと、美しい。桜の周りには雑草一つない。お手入れされているのでしょう」
「あ、いえ。いえ、そんな」
僕は急に恥ずかしくなり、彼女の視線から逃れようと下を見た。握りしめていたコップの中で桜が揺れている。
「でも、ダメでした。頑張っても、ダメでした」
「決めるのは、あなたじゃないわ。決めるのはこの桜でしょう?」
老婆に視線を移せば、彼女はころころと笑っている。綺麗な笑顔だ、と僕は内心思った。さあさあと風が桜と遊ぶ。そのたびに、散ってしまう桜の花びら。その一枚が、彼女の桜茶の中に落ちる。波紋を一瞬だけ水面に浮かべて、僕と彼女はその様子をただ見つめていた。
「そうですね……桜が決める。そうですよね」
気が付けば、自然と嬉しくなった。顔をあげれば、優しい眼差しと目が合う。
「私はそろそろいきますね。お茶をありがとうございます」
「いえ、またいらしてください」
「はい。あ……いえ、いえ。私はいつでも、見れますので」
彼女はにこりと笑って、去っていく。
しかし、途中でぴたりと足を止めて僕の方を振り返った。
「ありがとう、ありがとう」
頭を何度か垂れて、彼女は去って行く。僕は少しだけ、胸の内が軽くなった気がした。
それから、一度も彼女はここに立ち入る事は無かった。
桜の木は季節を二回りした後、静かに息を引き取った。
それは、肌寒い四月の事。腐ってたくさんの枝が地面についても、満開に咲かせながら、生命を謳歌した桜の最後。
最後は多くの人に見送られながら、桜はその巨体を支えきれず、倒れてしまった。業者に頼んで、切り取ってもらった。広い庭に朽ちた大木。
雷のような轟音を響かせながら、ゆっくりと体を傾けるその刹那。
老婆の「ありがとう、ありがとう」という言葉が最後まで耳から離れなかった。
終
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