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本編
大輝編37話~Live~
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「何が、俺に力を貸してくれないか、よ。カッコつける前に言うことあるんじゃないの?」
せっかく俺が前を向こうとしていたのに、朋美がその腰を折る。
まぁ……言いたいことはわかるし、言い分はもっともなのだが。
「……つまんない意地張ってごめんなさいでした」
「大輝、またぶっ飛ばされてみる?」
朋美の目がキラリと輝く。
もはやトラウマに近い、朋美の脅し。
「わ、悪かったからその目はやめてくれ。マジで俺に効く……」
「朋美、その辺で……」
和歌さんが止めてくれなかったら、割とマジでやばかったんじゃなかろうか。
「本当、仕方ないわね……不本意だけど、今回は特別だから。力、貸してあげるわよ」
朋美が鞄を取りにいって、中をごそごそやっている。
一体何をしているのだろうか。
「ほら、これ。睦月から渡す様に言われてるのよ。あのまんま意地張ってたら今頃ゴミ箱行きだったけどね」
恐ろしいことを言いながら取り出したのは、一枚のチケットだった。
デビューライブ、と書いてある。
「デビュー……ライブ?」
「睦月のデビューシングル発売を記念して、とかでやるみたいなんだけどね。他のアイドルも何組か来るみたい」
まぁ、一曲しか持ち歌のない睦月一人じゃライブもクソもない。
納得ではある。
「いい?このライブはそこまで大きなハコでやるわけじゃないから、ちゃんと最前列で……って言っても他のアイドルの時じゃないからね?」
「んなこと、わかってるよ……」
「かっわいくないわね……ちゃんと、睦月の出番の時に行って、言いたいこと伝えなさい。出来なかったらもう、チャンスはないと思うことね」
こんなとこで可愛いなんて言われて喜ぶのは、頭の中身が残念な子だけだと思う。
今回の一件で散々残念な顔をされてきた俺だったが、さすがにそこまで楽観できない。
「あれ?てか俺の分だけ?みんなのは?」
「はぁ?あんた、自分の気持ち伝えるのに私たちについてこいとか言うつもり?」
噛み付いて来そうな勢いで朋美が睨む。
その顔を見て震え上がった俺を、愛美さんが慰める。
「まぁまぁ……いいか?あたしらが力貸してやれるのは、とりあえずここまでなんだ。あとはお前自身の戦い。そうだろ?」
普段下品極まりない愛美さんらしからぬ、諭す様な大人の物言い。
「おい、何か言いたそうだな。言いたいことは口に出してはっきり言え」
「い、いえ……」
チケットを見ると、シングルの発売日、つまり三日後が予定になっていた。
クリスマスイブイブ。
祝日だったと思う。
「大輝、お前なら出来る。私はお前を信じているからな」
「そうだよ。ちゃんと伝えて、楽しくクリスマスを過ごそう?」
和歌さんと桜子が俺の背中を押してくれる。
俺は、この手に睦月を……大事な人を取り戻すことが出来るのだろうか。
正直不安しかない。
「まぁ、不安はもっともだよね。今まで自分で気づかない様にしてたんだし……練習でもしとく?」
ノルンさんが何か思いついた様で、紙とペンを用意する。
「これは?」
「飛び入りでいきなり何か言えって言ったって、大輝はきっと緊張して何もできないでしょ。なら、今のうちに予め言いたいこと考えておいたら楽なんじゃないかなって」
「ノルンさん甘すぎ。大輝はここで甘やかしたら……」
「朋美の言いたいことももっともだとは思う。けど、今は時間がないから……助けてあげよう?それに、ここで恩売っとけばいいことあるかもよ?」
何だか穏やかでない言葉が聞こえた気がする。
それはそれとして言いたいことか……なんだろう。
「お前は俺のものだ!今夜俺に抱かれろ!!とか」
愛美さんがふざけて言う。
そんなこと言ったら、ファンに袋叩きにされないだろうか。
「思ったことをそのまま伝える方がいいだろうとは思うのだけど」
明日香は無難に行くことを推奨した。
「そうだな……俺の心はここにある!今、お前の為に全てを捧げよう!とかちょっと芝居がかってもいいから……」
何かの演劇のセリフだろうか。
和歌さんの趣味なのかわからないが、俺がそんなことを言えたとして、あいつはきっと腹を抱えて笑うだろうな。
結局その日は大した案も出ず、やむなく解散となった。
残り二日。
学校も終業式が近く、授業も短縮になる。
学校では睦月の話題でもちきりだ。
「お前、椎名と付き合ってなかったっけ?」
「ま、まぁな」
クラスメートが痛いところを突いてくる。
もう数週間会えてません、とは言い出しにくい雰囲気だ。
「大輝くん、行くわよ」
明日香と桜子が教室に迎えに来て、俺は反論も許されぬまま強制連行された。
「ど、どこ行くんだよ」
「とりあえず、作戦会議ね。このままじゃどうにも上手く行くビジョンが見えないもの」
明日香は明日香なりに真剣に俺のことを考えてくれている様だ。
俺もそれには真剣に応えるべきだろう。
駅前の喫茶店に入って、三人で作戦を練ることにした。
「一つ聞きたいのだけど……大輝くんは睦月と、どうなりたいの?今まで通りでいいの?」
「まずはそこだよな。今まで通りでいいんだけど……何かそれも違う様な……」
「要領を得ないわね……」
「睦月ちゃんはどうなんだろうね?結局、最近会えてないから何ともわからないのは二人とも同じなわけで」
「あいつは……きっと俺に会いたがって……」
「さぁて、それはどうかしらねぇ?もう案外大輝くんのことなんか、忙しすぎて忘れちゃってるかもしれないわよ?」
「ちょっと明日香ちゃん……意地悪がすぎるよ……」
「そ、そうだよな……もしかしたらあいつ、もう他のイケメン俳優とかに……」
「ちょ、ちょっと?そんなわけないでしょ!?そんな弱気でどうするのよ、もう!」
「今のは明日香ちゃんも悪いと思うけど……」
コーヒーや紅茶、ケーキと運ばれてきたので一旦会話を中断する。
そういえば、クリスマスのプレゼントとか用意していない。
というかあいつがほしいものとかあるんだろうか。
いや、あいつだけじゃなくてみんなの分も用意しないと……。
「大輝くん、今考えてることを当ててみせましょうか」
「え?」
「プレゼントのことよね?」
「な、何でわかるわけ?」
「顔に書いてあるもの。私たちの分はとりあえず当日にでも考えてくれたらいいから……まずは睦月に何あげるか、考えた方がいいんじゃない?」
「そうは言うけどな……」
「二兎を追うものは、って言うでしょ?今回みんなのことまで考えたら、二兎どころじゃなくなっちゃうのよ?」
それもそうだ。
二兎どころか九兎くらいになってしまう。
さすがに俺一人で手が回るとは思えない。
「とは言っても、睦月のほしいものなんて、一つしかないと思うのだけどね」
「一つって?」
「…………」
「…………」
二人が黙って俺を見る。
俺、また何かやらかしたんだろうか。
「ねぇ、本気でわからないの?」
「え?……わかんない」
「はぁ……大輝くんに決まってるじゃん。多分、今忙しいから我慢してると思うけど、絶対会いたがってるはずだよ」
「そ、そうなのかな」
「だから何であなたがそんなに自信なさげなのよ……あなたと彼女の絆はそんな程度のものだったの?」
絆……。
正直目に見えるものじゃないし、不確かだし……。
「確かなものなんて、この世にほとんどないでしょ。全く、乙女か」
「お、乙女!?俺がか!?」
「乙女みたいなこと言ってるって言ってるのよ。グダグダ考えるより、あなたは自分を追い込みなさいな。そうじゃないとどうせいい案も出ないのだから」
何気にひどいこと言われてる気がするけど。
でも、あんまり深く考えても仕方ない。
この日はそのまま解散にすることとなった。
残り一日。
「何か考え付いたの?」
朋美が目の前で肉を食いながら尋ねてくる。
やっぱりお昼は肉よね、とか言いながら朋美に連行されたのはステーキハウスだった。
こんなにがっつり食ってるけど、あんま肉ばっか食ってると将来体臭とかすごいことになるって聞いたぞ。
「ねぇ、今失礼なこと考えなかった?」
「い、いや?」
ま、まぁたとえひどい体臭になっても、俺はお前に対する態度を変えたりしないぜ……多分。
「それより、いい作戦があるんだけど」
「へ、へぇ……」
全然いい予感なんかしない。
こいつも最近割と頭の中がぶっとんできてる。
そんな朋美の作戦が、どんなものか気にはなるが実行したいとは思えない。
「もうね、ここまできたら正攻法よ」
「正攻法ね」
「だから……」
肉を口に放り込む。
もう少し丁寧に食べませんか、女の子なんだし。
「ステージの上で、押し倒しちゃえばいいのよ」
ホラな。
何がどうなったら、そんな押し倒すなんて発想が出てくるのか。
公衆の面前で何をさせようと言うんだ、本当。
「みんなに、こいつは俺のだー!って見せ付けるって意味ね。ほ、本当に押し倒したらダメでしょ、そりゃ……」
嘘だ。
絶対こいつ本気で言ってた。
途中で自分の愚かさに気づいたパターンだろ、これ。
「仮にそれをするとして、警備員やらに止められるだろ。けど……まぁ、俺のだ、って主張するのはいいかもな」
趣旨は固まるも、肝心の案が出てこない。
俺も運ばれてきた肉を食べながら考える。
ファンレターに俺の思いの丈を……いや、何か違う。
それじゃいちファンと変わらない。
第一どうやって俺と睦月の繋がりを、みんなに証明すればいいのか。
考えるほど、沼にはまっていく様な感覚だった。
「なぁ、何か大輝やつれてきてね?」
睦月のマンションに戻ると、開口一番愛美さんが俺を見て言う。
しっかり……かどうかはわからないがさっきだって肉を食ってきたし、痩せたりはしてないはずなんだけど……。
けど、普段考えないことを考え、頭を使うという行為は確かに神経も使うし疲れるものではあるかもしれない。
「深く考えすぎなんじゃね?つかもう明日だろ?グダグダ考えても仕方ねぇと思うんだけど」
「そうは言いますけどね……」
「そうやって重く受け止めようとするの、大輝の悪い癖だぞ?」
誰のせいだ、誰の……。
とは言うものの、みんながいなかったら俺はこの結論になんかたどり着けなくて取り返しのつかないことになっていたに違いないのだが。
「なる様にしかならねぇんだから、もう今日はちゃんと体休めとけ。じゃねぇと明日バテちまうぞ」
言われて俺は適当に夕食を用意して、さっさと食べて風呂に入る準備をする。
冷え込みがややきつくなってきていることもあって、風呂の湯温を少し熱めに設定した。
湯が溜まるのを待っていると、電話に着信がある。
「睦月……?」
珍しい。
暇でも出来たのだろうか。
明日のことについての話だったりするのか。
まさか……別れ話……とか……。
緊張に手が震える。
『もしもし?チケット、受け取ったんだって?』
いつもの睦月の声だ。
テレビとはちょっと違う、あの睦月の声。
俺が求めて止まなかった、睦月の声だ。
「体が夜泣きするほど熱望していた、睦月の声だ、ってか?おいおいホントに乙女だなお前」
愛美さんがモノローグに割り込んでゲラゲラ笑っている。
本当に下品だな、こんな時まで……!
『今何か聞こえたけど、愛美さん?』
「あ、ああ……」
あんなにも話がしたかったはずなのに、いざとなると何を話したら良いかわからなくなる。
『大輝、明日遅れちゃ嫌だからね?』
「あ、ああ」
『何?さっきからそればっかり。もしかして、久しぶりだから緊張してる?』
まさしくそれだ。
何をこんなに緊張してるのか。
何年も連れ添ってきて、お互い知りすぎているほどに見知った仲なのに。
『ねぇ大輝、私、頑張ったよ』
「ああ、知ってる……本当にすごいなお前……」
心にもない賛辞。
そんなのいいから、もう戻ってきてくれよ。
多分これが俺の本音。
しかしここで睦月の頑張りに水を差す様なことはできない。
それをしないまま、明日俺の思いを伝えるのだ。
「テレビ、見たよ……本当に今もう芸能人なんだな、お前……」
『そりゃそうだよ。変なこと言うんだね』
「ふぁ、ファンとか……いるのか?」
『うん、まだ具体的な数はわからないけど……ファンの人の掲示板の書き込みとか見たら、結構な人数いてびっくりしちゃった』
複雑な心境だ。
嬉しい思いもある。
誇らしくもある。
なのに何だろうか、この感情。
「そ、そうか……良かったな」
『本当にそう思ってる?』
「え?」
『大輝、明日遅れないでね?』
睦月はそう言って電話を切った。
愛美さんはやれやれ、と言った顔で俺を見ている。
「そうか、お前……いや、これは余計か」
「な、何です?」
「何でもねぇっての。早く風呂入って寝ろ」
何だか釈然としない。
先ほどの感情が何なのか、という答えも出ない。
だが、何だか一気に疲れが出てきた気がして、俺は風呂に入って、手早く洗ってそのまま出た。
水を一気に飲んで流し込んで、ベッドに入る。
「…………」
もう、明日なのか。
何もできる気がしない。
こんなにも気分が沈むのはいつぶりだろう。
しかし、疲れからかいつのまにか眠気に襲われ、俺はそのまま眠りに落ちた。
「ねぇ、大輝くん大丈夫?」
桜子が俺の顔を見て言う。
少しフラフラする。
風邪でも引いたのだろうか。
昨日洗ってから、そのまま出たのがまずったのか?
「おい……熱あるじゃないか」
和歌さんが俺の額に手を当てて仰天する。
自分で触ってみても、割と熱い。
こんな日に、俺は何をしてるんだ。
「熱くらい、何でもないですよ。それより支度しないと……」
「ダメよ、何考えてるの?とりあえず熱計りなさいよ」
明日香が体温計を持ってやってきた。
渋々熱を計ると、三十八度半ば程度の熱があった。
喉が異常に痛い。
関節も痛い気がする。
「風邪……かなぁ?」
「インフルエンザとかじゃなければいいんだが……」
「大丈夫だから、軽く飯食って薬飲んだら行くわ」
「ダメだって、大人しくしてなきゃ……」
「バカ言うな、俺の人生かかってんだよ……」
言葉と裏腹に、体はどんどん重だるくなってくる。
関節に続いて背中も痛くなってきた。
ここまでの風邪は近年引いた記憶がない。
睦月を蔑ろにしてきた報いだろうか。
「バカ言ってるのは大輝でしょ。そんな状態で行って何が出来るの?」
「行かなきゃ始まらないだろ……」
ぼーっとする頭でとりあえず着替えを用意する。
「こうなったら聞かないからなぁ、大輝……」
朋美は早くも俺の説得を諦めてくれた様だった。
「ほら、ボタン掛け違えてる……そんなんで行ったら、死ぬかもしれないわよ?」
「本望だよ……てかまだ死ねない」
「どっちよ……」
朋美に手伝ってもらって、着替えを済ませて冷蔵庫にあったゼリーをかきこんだ。
気管に入って盛大にむせて、和歌さんが水を飲ませてくれた。
「ほら、薬……。本当にいくのか?睦月だって、事情を話せばきっと……」
「行きますよ。俺が行かないと……」
薬を流し込んで、立ち上がる。
またもふらついたところを、桜子と和歌さんが支えてくれた。
「よ、夜には……帰れると思うから……」
「死体で無言の帰宅、とかやめてよね……」
朋美が縁起でもないことを言い出す。
死んでたまるか。
まだ俺は睦月に何も言えていない。
ゲホゲホと咳き込みながら、俺はマンションを出た。
風邪菌を撒き散らしながら歩くのも迷惑だし、電車にも乗るので近くの薬局へ行って、マスクと栄養ドリンクを買った。
冷えた栄養ドリンクは俺の体の中を更にかーっと熱くしてくれる。
少し、これで頑張れそうな気がしてくる。
なんて思ったのにも関わらず、地下鉄の駅について俺は膝から崩れ落ちた。
だらしないぞ、俺……。
周りにいた人間が駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?立てますか?」
「大丈夫です……すみません、手だけ貸してもらっていいですか」
普段なら絶対言わない様なことを言って、俺は手を借り、立ち上がる。
ドラッグストアに杖とか売ってれば買ってたのにな。
周りがハラハラした表情で俺を見ている。
電車が来ると、その人たちが空いている席に俺を連れて行ってくれた。
世界は案外優しいものなんだな。
ゼェゼェとした呼吸が、電車の車内に響く。
情けないことに全部俺の呼吸だ。
少し離れた場所に、そのライブ会場はある。
その為電車で過ごす時間はやや長い。
「あの、これ良かったら」
目の前の女性が、冷えピタを差し出してきた。
そういえば、何で買わなかったんだ俺……。
「あ、すみません……おいくらですか?」
「ああ、お金とかいいですから……私次で降りるので、お大事に」
何て優しい人なんだ。
心の中で土下座して感謝しながら、ひえピタをおでこに貼る。
ひんやりとした感触が、火照ったおでこに心地よい。
あと二十分くらいあるのか……寝たら乗り過ごしそうだな。
誰か連れてくるべきだったか。
話し相手でもいれば、眠ったりせずに済みそうなんだが……。
「お兄ちゃん、風邪引いてるの?」
隣に座っている小さな女の子が、俺に話しかけてきた。
手を出せば即事案発生と通報されそうな小さな女の子。
俺は何を考えているのか。
「う、うん……あんまり近くにいるとうつっちゃうぞ?」
「大丈夫だよ、私よぼうせっしゅ?ていうの受けたから」
「そ、そうかぁ。お注射痛くなかった?」
何故か俺はこの子と、お医者さんごっこをしている様子を連想する。
もうこの妄想だけで犯罪臭しかしない。
「お注射痛かったけど、ママが我慢したらお菓子買ってくれるって言ったから」
「おーえらいなぁ。お兄ちゃん注射苦手でなぁ」
などと話しているうちに、目的地に到着する。
何て都合の良い展開なのか。
母親はその隣で眠っていたらしく、俺が降りるときに目を覚まして会釈してきた。
俺も会釈を返して、またもふらつきながら電車を降りる。
しかしあの子、何処かで見た様な……あの目、何処で……。
とにかく急ごう。
更にフラフラしながら駅の階段を登る。
駅を出ると、冬の空気が広がっている。
俺はこの匂いが俺は割と好きだ。
だが、その匂いも何だか鼻がおかしいのかいつもと違う感じがする。
会場までは歩いて十分程度。
ヘタレそうになる膝を押さえながら歩く。
歩いて十分というのは正常な時の話なのだろう。
今の俺で大体倍はかかると見ていいかもしれない。
「間に合うか……?」
チケットを取り出して、再度確認する。
ギリギリかもしれない。
場合によってはやばい。
遅れるわけには行かない。
「大丈夫か?」
不意に声をかけられる。
聞き覚えのある声……これは。
「春喜さん……」
「見覚えのある姿と思ったら……久しぶりだね」
「大輝くん、風邪?すごい顔色だわ」
春喜さんと秀美さんだった。
「私たちも、あの子のライブに招待されたのよ。大輝君もチケット、もってたものね」
「しかし、そんな体で行って大丈夫なのか?」
「行かないと……あいつと、約束してるんです」
ふむ、と二人は顔を見合わせる。
「大輝くん、掴まりなさい」
春喜さんが肩を貸してくれる。
秀美さんは反対側で手を支えてくれた。
「すみません、こんなとこで迷惑を……」
「何言ってる。未来の息子にこれくらい、させてくれよ」
「未来、って……もう既に私たちは家族みたいなものよ」
本当に、今日この世界は俺に優しい。
どうしたというのか。
俺は二人に感謝をしながら会場を目指した。
途中から二人にほぼ持ち上げられた形になって、何だか申し訳ない。
だがおかげで会場には時間通りつくことができた様だった。
「ふぅ……久しぶりに力仕事をしたよ。大きくなったなぁ、大輝くんは」
「そりゃ、いつまでも子どもじゃないわよね、大輝くん」
二人は額に汗を浮かべている。
そんなになるまで……俺のことなど放っておけばそこまでのことにはならなかったかもしれないのに。
「さぁ、もうひと頑張りだよ。ここからは一人でいけるね?」
「大丈夫です」
二人に礼を言って、会場に入る。
既に人がわんさかと溢れ返っていて、入場口には列ができている。
チケットを取り出し、俺も列に並ぶ。
この速度で進むのであれば、今の俺でも何とかなりそうだ。
「あれ、そのチケット……」
またも知らない人から声がかかる。
入場整理のお姉さんだった。
「そのチケットだと、入場はそこじゃないですよ。こちらです」
列から連れ出され、裏口の様なところへ連れて行かれる。
VIP……だと……?
「調子が悪そうですが、大丈夫ですか?」
時折お姉さんが振り返りながら歩いていく。
首肯で答え、お姉さんの後をついて歩く。
小さめの会場ではある様だが、こんな主賓席みたいなものが用意されてるあたり、やはり大きめの会社が絡んだ企画なのだろうと推測される。
「こちらですよ、チケットお預かりしますね」
半券を受け取って、俺は更に進んだ。
主賓席と言ってもアリーナの更に前に陣取られた席で、俺とあと二人だけのものだった。
偉そうなおじさんが、俺の脇を固めている。
しかし、すごい熱気だ。
スポットライトのせいもあるのだろうが、人の多さも起因しているのだろう。
少し暑く感じてきて、俺はマフラーを外してコートを脱いだ。
コートを脱ぐ時に、右隣のおじさんに腕がぶつかってしまう。
「あ、すみません……」
「いや、こちらこそ……ああ、もしかして君が……」
「え?」
「椎名さんがチケットを渡したい人がいるから、どうしても確保してほしいって言ってたんだよ。ああ失礼、私はこういう者でね」
そう言っておじさんが取り出した名刺には、睦月の所属する事務所の社長の肩書きがあった。
社長がこんな小さなライブに来るものなのか……。
「そちらにいるのは、もう一つ参加してくれるグループの所属事務所の社長さんだよ」
紹介されて、左側のおじさんが頭を下げる。
俺も頭を下げ、俺の渡されたチケットが意外とすごいものなのだということを知った。
「何やら体調が悪そうだね」
「いえ、ただの風邪なので……」
「そうか?酷くなる前に、私に言ってくれ」
会場の明かりが落ち、会場にライブイベントの開始を知らせるアナウンスが流れる。
「おお、始まる様だ。楽しんでくれたまえよ」
社長さんはステージに目を向けた。
テレビで見る様なアイドルグループが、次々と歌や踊りを披露する。
俺には何が良いとかよくわからないし、学生の合唱を聞いている様な気分にしかならなかったが、会場が一体となっている様な一体感はすごいと思えた。
そして、いくつかのグループの出番が終わり、再度会場の明かりが落ちた。
「それでは、これより皆様お待ちかね、椎名睦月の出番になります!!」
先ほどのアナウンスとは打って変わって、テンション高めのアナウンスが流れる。
というか、割と有名なアイドルグループが睦月の前座みたいな扱いで、いいのか?
しかし、とうとうその時が来た。
俺の心臓が、風邪のせいなのかそれとも久々に見る生睦月のせいなのか、ドクドクと早まるのを感じた。
次回に続きます。
せっかく俺が前を向こうとしていたのに、朋美がその腰を折る。
まぁ……言いたいことはわかるし、言い分はもっともなのだが。
「……つまんない意地張ってごめんなさいでした」
「大輝、またぶっ飛ばされてみる?」
朋美の目がキラリと輝く。
もはやトラウマに近い、朋美の脅し。
「わ、悪かったからその目はやめてくれ。マジで俺に効く……」
「朋美、その辺で……」
和歌さんが止めてくれなかったら、割とマジでやばかったんじゃなかろうか。
「本当、仕方ないわね……不本意だけど、今回は特別だから。力、貸してあげるわよ」
朋美が鞄を取りにいって、中をごそごそやっている。
一体何をしているのだろうか。
「ほら、これ。睦月から渡す様に言われてるのよ。あのまんま意地張ってたら今頃ゴミ箱行きだったけどね」
恐ろしいことを言いながら取り出したのは、一枚のチケットだった。
デビューライブ、と書いてある。
「デビュー……ライブ?」
「睦月のデビューシングル発売を記念して、とかでやるみたいなんだけどね。他のアイドルも何組か来るみたい」
まぁ、一曲しか持ち歌のない睦月一人じゃライブもクソもない。
納得ではある。
「いい?このライブはそこまで大きなハコでやるわけじゃないから、ちゃんと最前列で……って言っても他のアイドルの時じゃないからね?」
「んなこと、わかってるよ……」
「かっわいくないわね……ちゃんと、睦月の出番の時に行って、言いたいこと伝えなさい。出来なかったらもう、チャンスはないと思うことね」
こんなとこで可愛いなんて言われて喜ぶのは、頭の中身が残念な子だけだと思う。
今回の一件で散々残念な顔をされてきた俺だったが、さすがにそこまで楽観できない。
「あれ?てか俺の分だけ?みんなのは?」
「はぁ?あんた、自分の気持ち伝えるのに私たちについてこいとか言うつもり?」
噛み付いて来そうな勢いで朋美が睨む。
その顔を見て震え上がった俺を、愛美さんが慰める。
「まぁまぁ……いいか?あたしらが力貸してやれるのは、とりあえずここまでなんだ。あとはお前自身の戦い。そうだろ?」
普段下品極まりない愛美さんらしからぬ、諭す様な大人の物言い。
「おい、何か言いたそうだな。言いたいことは口に出してはっきり言え」
「い、いえ……」
チケットを見ると、シングルの発売日、つまり三日後が予定になっていた。
クリスマスイブイブ。
祝日だったと思う。
「大輝、お前なら出来る。私はお前を信じているからな」
「そうだよ。ちゃんと伝えて、楽しくクリスマスを過ごそう?」
和歌さんと桜子が俺の背中を押してくれる。
俺は、この手に睦月を……大事な人を取り戻すことが出来るのだろうか。
正直不安しかない。
「まぁ、不安はもっともだよね。今まで自分で気づかない様にしてたんだし……練習でもしとく?」
ノルンさんが何か思いついた様で、紙とペンを用意する。
「これは?」
「飛び入りでいきなり何か言えって言ったって、大輝はきっと緊張して何もできないでしょ。なら、今のうちに予め言いたいこと考えておいたら楽なんじゃないかなって」
「ノルンさん甘すぎ。大輝はここで甘やかしたら……」
「朋美の言いたいことももっともだとは思う。けど、今は時間がないから……助けてあげよう?それに、ここで恩売っとけばいいことあるかもよ?」
何だか穏やかでない言葉が聞こえた気がする。
それはそれとして言いたいことか……なんだろう。
「お前は俺のものだ!今夜俺に抱かれろ!!とか」
愛美さんがふざけて言う。
そんなこと言ったら、ファンに袋叩きにされないだろうか。
「思ったことをそのまま伝える方がいいだろうとは思うのだけど」
明日香は無難に行くことを推奨した。
「そうだな……俺の心はここにある!今、お前の為に全てを捧げよう!とかちょっと芝居がかってもいいから……」
何かの演劇のセリフだろうか。
和歌さんの趣味なのかわからないが、俺がそんなことを言えたとして、あいつはきっと腹を抱えて笑うだろうな。
結局その日は大した案も出ず、やむなく解散となった。
残り二日。
学校も終業式が近く、授業も短縮になる。
学校では睦月の話題でもちきりだ。
「お前、椎名と付き合ってなかったっけ?」
「ま、まぁな」
クラスメートが痛いところを突いてくる。
もう数週間会えてません、とは言い出しにくい雰囲気だ。
「大輝くん、行くわよ」
明日香と桜子が教室に迎えに来て、俺は反論も許されぬまま強制連行された。
「ど、どこ行くんだよ」
「とりあえず、作戦会議ね。このままじゃどうにも上手く行くビジョンが見えないもの」
明日香は明日香なりに真剣に俺のことを考えてくれている様だ。
俺もそれには真剣に応えるべきだろう。
駅前の喫茶店に入って、三人で作戦を練ることにした。
「一つ聞きたいのだけど……大輝くんは睦月と、どうなりたいの?今まで通りでいいの?」
「まずはそこだよな。今まで通りでいいんだけど……何かそれも違う様な……」
「要領を得ないわね……」
「睦月ちゃんはどうなんだろうね?結局、最近会えてないから何ともわからないのは二人とも同じなわけで」
「あいつは……きっと俺に会いたがって……」
「さぁて、それはどうかしらねぇ?もう案外大輝くんのことなんか、忙しすぎて忘れちゃってるかもしれないわよ?」
「ちょっと明日香ちゃん……意地悪がすぎるよ……」
「そ、そうだよな……もしかしたらあいつ、もう他のイケメン俳優とかに……」
「ちょ、ちょっと?そんなわけないでしょ!?そんな弱気でどうするのよ、もう!」
「今のは明日香ちゃんも悪いと思うけど……」
コーヒーや紅茶、ケーキと運ばれてきたので一旦会話を中断する。
そういえば、クリスマスのプレゼントとか用意していない。
というかあいつがほしいものとかあるんだろうか。
いや、あいつだけじゃなくてみんなの分も用意しないと……。
「大輝くん、今考えてることを当ててみせましょうか」
「え?」
「プレゼントのことよね?」
「な、何でわかるわけ?」
「顔に書いてあるもの。私たちの分はとりあえず当日にでも考えてくれたらいいから……まずは睦月に何あげるか、考えた方がいいんじゃない?」
「そうは言うけどな……」
「二兎を追うものは、って言うでしょ?今回みんなのことまで考えたら、二兎どころじゃなくなっちゃうのよ?」
それもそうだ。
二兎どころか九兎くらいになってしまう。
さすがに俺一人で手が回るとは思えない。
「とは言っても、睦月のほしいものなんて、一つしかないと思うのだけどね」
「一つって?」
「…………」
「…………」
二人が黙って俺を見る。
俺、また何かやらかしたんだろうか。
「ねぇ、本気でわからないの?」
「え?……わかんない」
「はぁ……大輝くんに決まってるじゃん。多分、今忙しいから我慢してると思うけど、絶対会いたがってるはずだよ」
「そ、そうなのかな」
「だから何であなたがそんなに自信なさげなのよ……あなたと彼女の絆はそんな程度のものだったの?」
絆……。
正直目に見えるものじゃないし、不確かだし……。
「確かなものなんて、この世にほとんどないでしょ。全く、乙女か」
「お、乙女!?俺がか!?」
「乙女みたいなこと言ってるって言ってるのよ。グダグダ考えるより、あなたは自分を追い込みなさいな。そうじゃないとどうせいい案も出ないのだから」
何気にひどいこと言われてる気がするけど。
でも、あんまり深く考えても仕方ない。
この日はそのまま解散にすることとなった。
残り一日。
「何か考え付いたの?」
朋美が目の前で肉を食いながら尋ねてくる。
やっぱりお昼は肉よね、とか言いながら朋美に連行されたのはステーキハウスだった。
こんなにがっつり食ってるけど、あんま肉ばっか食ってると将来体臭とかすごいことになるって聞いたぞ。
「ねぇ、今失礼なこと考えなかった?」
「い、いや?」
ま、まぁたとえひどい体臭になっても、俺はお前に対する態度を変えたりしないぜ……多分。
「それより、いい作戦があるんだけど」
「へ、へぇ……」
全然いい予感なんかしない。
こいつも最近割と頭の中がぶっとんできてる。
そんな朋美の作戦が、どんなものか気にはなるが実行したいとは思えない。
「もうね、ここまできたら正攻法よ」
「正攻法ね」
「だから……」
肉を口に放り込む。
もう少し丁寧に食べませんか、女の子なんだし。
「ステージの上で、押し倒しちゃえばいいのよ」
ホラな。
何がどうなったら、そんな押し倒すなんて発想が出てくるのか。
公衆の面前で何をさせようと言うんだ、本当。
「みんなに、こいつは俺のだー!って見せ付けるって意味ね。ほ、本当に押し倒したらダメでしょ、そりゃ……」
嘘だ。
絶対こいつ本気で言ってた。
途中で自分の愚かさに気づいたパターンだろ、これ。
「仮にそれをするとして、警備員やらに止められるだろ。けど……まぁ、俺のだ、って主張するのはいいかもな」
趣旨は固まるも、肝心の案が出てこない。
俺も運ばれてきた肉を食べながら考える。
ファンレターに俺の思いの丈を……いや、何か違う。
それじゃいちファンと変わらない。
第一どうやって俺と睦月の繋がりを、みんなに証明すればいいのか。
考えるほど、沼にはまっていく様な感覚だった。
「なぁ、何か大輝やつれてきてね?」
睦月のマンションに戻ると、開口一番愛美さんが俺を見て言う。
しっかり……かどうかはわからないがさっきだって肉を食ってきたし、痩せたりはしてないはずなんだけど……。
けど、普段考えないことを考え、頭を使うという行為は確かに神経も使うし疲れるものではあるかもしれない。
「深く考えすぎなんじゃね?つかもう明日だろ?グダグダ考えても仕方ねぇと思うんだけど」
「そうは言いますけどね……」
「そうやって重く受け止めようとするの、大輝の悪い癖だぞ?」
誰のせいだ、誰の……。
とは言うものの、みんながいなかったら俺はこの結論になんかたどり着けなくて取り返しのつかないことになっていたに違いないのだが。
「なる様にしかならねぇんだから、もう今日はちゃんと体休めとけ。じゃねぇと明日バテちまうぞ」
言われて俺は適当に夕食を用意して、さっさと食べて風呂に入る準備をする。
冷え込みがややきつくなってきていることもあって、風呂の湯温を少し熱めに設定した。
湯が溜まるのを待っていると、電話に着信がある。
「睦月……?」
珍しい。
暇でも出来たのだろうか。
明日のことについての話だったりするのか。
まさか……別れ話……とか……。
緊張に手が震える。
『もしもし?チケット、受け取ったんだって?』
いつもの睦月の声だ。
テレビとはちょっと違う、あの睦月の声。
俺が求めて止まなかった、睦月の声だ。
「体が夜泣きするほど熱望していた、睦月の声だ、ってか?おいおいホントに乙女だなお前」
愛美さんがモノローグに割り込んでゲラゲラ笑っている。
本当に下品だな、こんな時まで……!
『今何か聞こえたけど、愛美さん?』
「あ、ああ……」
あんなにも話がしたかったはずなのに、いざとなると何を話したら良いかわからなくなる。
『大輝、明日遅れちゃ嫌だからね?』
「あ、ああ」
『何?さっきからそればっかり。もしかして、久しぶりだから緊張してる?』
まさしくそれだ。
何をこんなに緊張してるのか。
何年も連れ添ってきて、お互い知りすぎているほどに見知った仲なのに。
『ねぇ大輝、私、頑張ったよ』
「ああ、知ってる……本当にすごいなお前……」
心にもない賛辞。
そんなのいいから、もう戻ってきてくれよ。
多分これが俺の本音。
しかしここで睦月の頑張りに水を差す様なことはできない。
それをしないまま、明日俺の思いを伝えるのだ。
「テレビ、見たよ……本当に今もう芸能人なんだな、お前……」
『そりゃそうだよ。変なこと言うんだね』
「ふぁ、ファンとか……いるのか?」
『うん、まだ具体的な数はわからないけど……ファンの人の掲示板の書き込みとか見たら、結構な人数いてびっくりしちゃった』
複雑な心境だ。
嬉しい思いもある。
誇らしくもある。
なのに何だろうか、この感情。
「そ、そうか……良かったな」
『本当にそう思ってる?』
「え?」
『大輝、明日遅れないでね?』
睦月はそう言って電話を切った。
愛美さんはやれやれ、と言った顔で俺を見ている。
「そうか、お前……いや、これは余計か」
「な、何です?」
「何でもねぇっての。早く風呂入って寝ろ」
何だか釈然としない。
先ほどの感情が何なのか、という答えも出ない。
だが、何だか一気に疲れが出てきた気がして、俺は風呂に入って、手早く洗ってそのまま出た。
水を一気に飲んで流し込んで、ベッドに入る。
「…………」
もう、明日なのか。
何もできる気がしない。
こんなにも気分が沈むのはいつぶりだろう。
しかし、疲れからかいつのまにか眠気に襲われ、俺はそのまま眠りに落ちた。
「ねぇ、大輝くん大丈夫?」
桜子が俺の顔を見て言う。
少しフラフラする。
風邪でも引いたのだろうか。
昨日洗ってから、そのまま出たのがまずったのか?
「おい……熱あるじゃないか」
和歌さんが俺の額に手を当てて仰天する。
自分で触ってみても、割と熱い。
こんな日に、俺は何をしてるんだ。
「熱くらい、何でもないですよ。それより支度しないと……」
「ダメよ、何考えてるの?とりあえず熱計りなさいよ」
明日香が体温計を持ってやってきた。
渋々熱を計ると、三十八度半ば程度の熱があった。
喉が異常に痛い。
関節も痛い気がする。
「風邪……かなぁ?」
「インフルエンザとかじゃなければいいんだが……」
「大丈夫だから、軽く飯食って薬飲んだら行くわ」
「ダメだって、大人しくしてなきゃ……」
「バカ言うな、俺の人生かかってんだよ……」
言葉と裏腹に、体はどんどん重だるくなってくる。
関節に続いて背中も痛くなってきた。
ここまでの風邪は近年引いた記憶がない。
睦月を蔑ろにしてきた報いだろうか。
「バカ言ってるのは大輝でしょ。そんな状態で行って何が出来るの?」
「行かなきゃ始まらないだろ……」
ぼーっとする頭でとりあえず着替えを用意する。
「こうなったら聞かないからなぁ、大輝……」
朋美は早くも俺の説得を諦めてくれた様だった。
「ほら、ボタン掛け違えてる……そんなんで行ったら、死ぬかもしれないわよ?」
「本望だよ……てかまだ死ねない」
「どっちよ……」
朋美に手伝ってもらって、着替えを済ませて冷蔵庫にあったゼリーをかきこんだ。
気管に入って盛大にむせて、和歌さんが水を飲ませてくれた。
「ほら、薬……。本当にいくのか?睦月だって、事情を話せばきっと……」
「行きますよ。俺が行かないと……」
薬を流し込んで、立ち上がる。
またもふらついたところを、桜子と和歌さんが支えてくれた。
「よ、夜には……帰れると思うから……」
「死体で無言の帰宅、とかやめてよね……」
朋美が縁起でもないことを言い出す。
死んでたまるか。
まだ俺は睦月に何も言えていない。
ゲホゲホと咳き込みながら、俺はマンションを出た。
風邪菌を撒き散らしながら歩くのも迷惑だし、電車にも乗るので近くの薬局へ行って、マスクと栄養ドリンクを買った。
冷えた栄養ドリンクは俺の体の中を更にかーっと熱くしてくれる。
少し、これで頑張れそうな気がしてくる。
なんて思ったのにも関わらず、地下鉄の駅について俺は膝から崩れ落ちた。
だらしないぞ、俺……。
周りにいた人間が駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?立てますか?」
「大丈夫です……すみません、手だけ貸してもらっていいですか」
普段なら絶対言わない様なことを言って、俺は手を借り、立ち上がる。
ドラッグストアに杖とか売ってれば買ってたのにな。
周りがハラハラした表情で俺を見ている。
電車が来ると、その人たちが空いている席に俺を連れて行ってくれた。
世界は案外優しいものなんだな。
ゼェゼェとした呼吸が、電車の車内に響く。
情けないことに全部俺の呼吸だ。
少し離れた場所に、そのライブ会場はある。
その為電車で過ごす時間はやや長い。
「あの、これ良かったら」
目の前の女性が、冷えピタを差し出してきた。
そういえば、何で買わなかったんだ俺……。
「あ、すみません……おいくらですか?」
「ああ、お金とかいいですから……私次で降りるので、お大事に」
何て優しい人なんだ。
心の中で土下座して感謝しながら、ひえピタをおでこに貼る。
ひんやりとした感触が、火照ったおでこに心地よい。
あと二十分くらいあるのか……寝たら乗り過ごしそうだな。
誰か連れてくるべきだったか。
話し相手でもいれば、眠ったりせずに済みそうなんだが……。
「お兄ちゃん、風邪引いてるの?」
隣に座っている小さな女の子が、俺に話しかけてきた。
手を出せば即事案発生と通報されそうな小さな女の子。
俺は何を考えているのか。
「う、うん……あんまり近くにいるとうつっちゃうぞ?」
「大丈夫だよ、私よぼうせっしゅ?ていうの受けたから」
「そ、そうかぁ。お注射痛くなかった?」
何故か俺はこの子と、お医者さんごっこをしている様子を連想する。
もうこの妄想だけで犯罪臭しかしない。
「お注射痛かったけど、ママが我慢したらお菓子買ってくれるって言ったから」
「おーえらいなぁ。お兄ちゃん注射苦手でなぁ」
などと話しているうちに、目的地に到着する。
何て都合の良い展開なのか。
母親はその隣で眠っていたらしく、俺が降りるときに目を覚まして会釈してきた。
俺も会釈を返して、またもふらつきながら電車を降りる。
しかしあの子、何処かで見た様な……あの目、何処で……。
とにかく急ごう。
更にフラフラしながら駅の階段を登る。
駅を出ると、冬の空気が広がっている。
俺はこの匂いが俺は割と好きだ。
だが、その匂いも何だか鼻がおかしいのかいつもと違う感じがする。
会場までは歩いて十分程度。
ヘタレそうになる膝を押さえながら歩く。
歩いて十分というのは正常な時の話なのだろう。
今の俺で大体倍はかかると見ていいかもしれない。
「間に合うか……?」
チケットを取り出して、再度確認する。
ギリギリかもしれない。
場合によってはやばい。
遅れるわけには行かない。
「大丈夫か?」
不意に声をかけられる。
聞き覚えのある声……これは。
「春喜さん……」
「見覚えのある姿と思ったら……久しぶりだね」
「大輝くん、風邪?すごい顔色だわ」
春喜さんと秀美さんだった。
「私たちも、あの子のライブに招待されたのよ。大輝君もチケット、もってたものね」
「しかし、そんな体で行って大丈夫なのか?」
「行かないと……あいつと、約束してるんです」
ふむ、と二人は顔を見合わせる。
「大輝くん、掴まりなさい」
春喜さんが肩を貸してくれる。
秀美さんは反対側で手を支えてくれた。
「すみません、こんなとこで迷惑を……」
「何言ってる。未来の息子にこれくらい、させてくれよ」
「未来、って……もう既に私たちは家族みたいなものよ」
本当に、今日この世界は俺に優しい。
どうしたというのか。
俺は二人に感謝をしながら会場を目指した。
途中から二人にほぼ持ち上げられた形になって、何だか申し訳ない。
だがおかげで会場には時間通りつくことができた様だった。
「ふぅ……久しぶりに力仕事をしたよ。大きくなったなぁ、大輝くんは」
「そりゃ、いつまでも子どもじゃないわよね、大輝くん」
二人は額に汗を浮かべている。
そんなになるまで……俺のことなど放っておけばそこまでのことにはならなかったかもしれないのに。
「さぁ、もうひと頑張りだよ。ここからは一人でいけるね?」
「大丈夫です」
二人に礼を言って、会場に入る。
既に人がわんさかと溢れ返っていて、入場口には列ができている。
チケットを取り出し、俺も列に並ぶ。
この速度で進むのであれば、今の俺でも何とかなりそうだ。
「あれ、そのチケット……」
またも知らない人から声がかかる。
入場整理のお姉さんだった。
「そのチケットだと、入場はそこじゃないですよ。こちらです」
列から連れ出され、裏口の様なところへ連れて行かれる。
VIP……だと……?
「調子が悪そうですが、大丈夫ですか?」
時折お姉さんが振り返りながら歩いていく。
首肯で答え、お姉さんの後をついて歩く。
小さめの会場ではある様だが、こんな主賓席みたいなものが用意されてるあたり、やはり大きめの会社が絡んだ企画なのだろうと推測される。
「こちらですよ、チケットお預かりしますね」
半券を受け取って、俺は更に進んだ。
主賓席と言ってもアリーナの更に前に陣取られた席で、俺とあと二人だけのものだった。
偉そうなおじさんが、俺の脇を固めている。
しかし、すごい熱気だ。
スポットライトのせいもあるのだろうが、人の多さも起因しているのだろう。
少し暑く感じてきて、俺はマフラーを外してコートを脱いだ。
コートを脱ぐ時に、右隣のおじさんに腕がぶつかってしまう。
「あ、すみません……」
「いや、こちらこそ……ああ、もしかして君が……」
「え?」
「椎名さんがチケットを渡したい人がいるから、どうしても確保してほしいって言ってたんだよ。ああ失礼、私はこういう者でね」
そう言っておじさんが取り出した名刺には、睦月の所属する事務所の社長の肩書きがあった。
社長がこんな小さなライブに来るものなのか……。
「そちらにいるのは、もう一つ参加してくれるグループの所属事務所の社長さんだよ」
紹介されて、左側のおじさんが頭を下げる。
俺も頭を下げ、俺の渡されたチケットが意外とすごいものなのだということを知った。
「何やら体調が悪そうだね」
「いえ、ただの風邪なので……」
「そうか?酷くなる前に、私に言ってくれ」
会場の明かりが落ち、会場にライブイベントの開始を知らせるアナウンスが流れる。
「おお、始まる様だ。楽しんでくれたまえよ」
社長さんはステージに目を向けた。
テレビで見る様なアイドルグループが、次々と歌や踊りを披露する。
俺には何が良いとかよくわからないし、学生の合唱を聞いている様な気分にしかならなかったが、会場が一体となっている様な一体感はすごいと思えた。
そして、いくつかのグループの出番が終わり、再度会場の明かりが落ちた。
「それでは、これより皆様お待ちかね、椎名睦月の出番になります!!」
先ほどのアナウンスとは打って変わって、テンション高めのアナウンスが流れる。
というか、割と有名なアイドルグループが睦月の前座みたいな扱いで、いいのか?
しかし、とうとうその時が来た。
俺の心臓が、風邪のせいなのかそれとも久々に見る生睦月のせいなのか、ドクドクと早まるのを感じた。
次回に続きます。
応援ありがとうございます!
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