【完結】花魁流れ星

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第三章:吉原からの使者

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春の陽気が下町を包み込んだ弘化二年の夕暮れ時、星の湯の前に一台の駕籠が止まった。

「おや、どなたかのお客様かしら」

夕飯の支度をしていた麗子は、表の騒がしさに首を傾げた。普段この時間に駕籠でやって来る客などいなかった。

「女将さん!」

お菊が慌てた様子で台所に駆け込んできた。その表情には、明らかな動揺が浮かんでいる。

「どうしたの、お菊?」

「大変です! 吉原から...」

お菊の言葉に、麗子は包丁を持つ手を止めた。彼女の表情が一瞬で引き締まる。

「千星は?」

「二階で読書中です」

麗子はほっと息をついた。

「分かったわ。客間に通して」

---

長屋の住人たちは、星の湯の前に停まった高級駕籠と、そこから降りた華やかな装いの女性に釘付けになっていた。

「あれは花魁じゃないのか?」

「なんで星の湯なんかに...」

「女将と知り合いなのかい?」

噂話が飛び交う中、麗子は落ち着いた足取りで客間に向かった。襖を開けると、そこには二十六歳の花魁・仙田屋お雪が座っていた。豪華な打掛に身を包み、複雑な髪型に何本もの簪を差した姿は、まさに現役の吉原の華だった。

「お久しぶりでございます、れ...」

麗子は素早く指を唇に当て、お雪の言葉を遮った。

「ここでは佐伯と呼んでください、お雪さん」

お雪は一瞬驚いたが、すぐに状況を理解したようだった。

「失礼いたしました、佐伯様。突然のご訪問をお許しください」

麗子は微笑んで頷くと、お菊に茶を入れるよう目配せした。

「何年ぶりかしら。お変わりないようで何よりです」

表面上は穏やかな会話だったが、お雪の訪問には必ず重大な理由があるはず。麗子の心は既に警戒モードに入っていた。

---

「実は大変なことが起きておりまして...」

お雪は周囲を確認すると、声をひそめて話し始めた。

「最近、吉原で上級遊女たちが次々と行方不明になっているのです」

麗子の眉が寄った。

「行方不明?」

「はい。皆、『良縁』と称して吉原を去るのですが、その後消息が途絶えてしまうのです」

「『良縁』...身請けされたということ?」

「表向きはそうなのですが...」

お雪は言いよどみ、さらに声を落とした。

「私の親しい友人の小雪も、先月『良縁』で吉原を出ました。彼女は手紙を約束していたのに、一切連絡がないのです。そして彼女だけではありません。この半年だけで、五人もの上級遊女が同じように消えました」

麗子は黙って聞いていたが、その目は鋭く光っていた。

「お雪さん、その『良縁』を持ちかけてくる人たちに、何か共通点はありますか?」

「そこが不思議なところなのです。皆、異なる商人や武士で、一見関連性がないのです。ただ...」

「ただ?」

「皆、若く美しい遊女を指名し、短期間のうちに莫大な金額を支払って身請けするのです。そして身請け後の住まいも、はっきりとは教えてくれないと...」

麗子の表情が曇った。彼女は花魁として長い間、吉原の表と裏を知り尽くしていた。そこで起きることの多くは、暗黙の了解や偽りの美名で覆われた悲劇だった。

「私のような引退した者に、なぜ相談を?」

「皆、流星太夫様のことを忘れてはおりません」

お雪は真剣な表情で言った。

「あなた様は吉原でも一番賢く、そして客の本性を見抜く目を持っていらした。今、吉原にはそのような知恵者がおりません。若い娘たちが次々と姿を消しているのに、誰も手を打てないのです」

麗子は長い間黙っていた。彼女は十二年前に吉原を去り、その世界との縁を切ったはずだった。花魁としての自分を封印し、一介の銭湯の女将として生きることを選んだのだ。

それなのに今、過去が彼女を呼び寄せようとしている。

---

「お母さん、あの人は誰?」

階段の途中で、千星の声がした。麗子は驚いて振り返った。

「千星! いつから...」

「今来たところ。すごく綺麗な人だね」

千星の目は好奇心に満ちていた。麗子は焦りを隠し、できるだけ自然に振る舞おうとした。

「お客様よ。ちょっと用事があってね」

「あんな立派な着物を着た人が、銭湯に?」

鋭い千星の疑問に、お雪が機転を利かせた。

「あら、この方がお嬢様? まあ、なんてお美しい!」

お雪は千星に向かって優雅に微笑んだ。

「私は歌舞伎役者の衣装を作る仕事をしているの。あなたのお母様に、特別な生地の相談に来たのよ」

千星は半信半疑だったが、お雪の華やかさに圧倒されて黙ってしまった。

「千星、お菊さんに手伝ってもらって晩御飯の支度を続けてくれる? 私はすぐに終わるから」

千星は渋々頷き、お菊に連れられて台所へ戻った。麗子は安堵のため息をついた。

「すみません、娘には知られたくなくて...」

「ご心配なく。お嬢様、とても美しい。まるであなた様の若い頃のよう」

お雪の言葉に、麗子は複雑な表情を浮かべた。

「あの子には、私の過去を知られたくないの。普通の母親として...普通の家庭で育ってほしいから」

---

その夜、千星が寝静まった後、麗子は再びお雪と向き合った。

「力になれることがあるなら」

麗子は言葉を選びながら静かに言った。

「ただし、直接吉原に足を踏み入れることはできません。ここでの私の生活、そして何より千星を守らなければならない」

お雪は深く頷いた。

「ご無理は申しません。ただ、あなた様の知恵と人脈をお借りできれば...」

「分かりました。まずは情報収集から始めましょう」

麗子はお菊に目配せし、小さな白木の箱を持ってくるよう指示した。箱の中には、吉原時代の麗子が大切にしていた名簿が収められていた。

「これは...」

「かつての客の名簿です。中には今や幕府の要職についている方々も多い。彼らなら、何か情報を持っているかもしれません」

お雪の目が輝いた。

「流石は流星太夫様!」

「もう、その名で呼ばないで」

麗子は苦笑した。その名前は彼女にとって、誇りでもあり、封印すべき過去でもあった。

「今夜はここにお泊まりなさい。明日、詳しい話を聞かせてもらいます」

---

翌朝、星の湯が開く前、麗子とお雪は早くから話し合いを続けていた。

「この三名の遊女はどこで姿を消したのか、もう一度詳しく教えてください」

麗子はメモを取りながら尋ねた。彼女の表情は真剣そのものだった。

「皆、身請け後、江戸を出て他国へ行くと言われていたそうです。しかし実家に帰ったという者もいないし、縁談があったという町にも姿を見せていません」

お雪の証言から、麗子はある疑惑を抱き始めていた。

「『影の船』...」

彼女は小さくつぶやいた。

「何ですか、それは?」

「以前、吉原にいた頃に噂で聞いたことがあります。選りすぐりの美女を集め、高値で海外に売り飛ばす密輸組織だと...」

お雪は息を呑んだ。

「まさか...」

「まだ確証はありません。でも、この状況はあまりにも似ています」

麗子は立ち上がり、窓の外を見つめた。朝日が昇り始め、町に活気が戻りつつあった。

「これから数日間、かつての馴染み客に接触してみます。特に、幕府内部の情報に詳しい人物たちに」

「私も吉原に戻り、できる限りの情報を集めましょう」

二人の間に、固い決意が共有された。麗子は自分が再び吉原の世界に足を踏み入れることになるとは思ってもみなかった。しかし若い女性たちが危険にさらされているのなら、彼女には行動する責任があった。

かつての流星太夫としての眼力と知恵を、もう一度使う時が来たのだ。

---

その日の昼下がり、星の湯には珍しい客が訪れた。老いた武士風の男性だった。

「いらっしゃいませ」

麗子が声をかけると、男は静かに頭を下げた。

「久しぶりだな...流星」

低い声で言われた言葉に、麗子は一瞬固まった。しかし周囲に客がいないことを確認すると、彼女はその男性を奥の部屋へと案内した。

「安井様...まさかお会いできるとは」

男は幕府の隠密を務める安井半四郎。かつて麗子の客でもあり、吉原を去る際に力を貸してくれた恩人でもあった。

「お雪から話は聞いた。吉原で起きていることだな」

半四郎はそう言って、煙管に火をつけた。

「何かご存じですか?」

「噂レベルならな...『影の船』は実在する。外国との密貿易を行う組織だ」

麗子の顔色が変わった。

「そして...その黒幕は幕府内部の人間だという話もある」

「幕府の...」

「ああ。それも相当な高官だ」

半四郎は煙管から煙を吐き出しながら言った。

「今、朝廷からの圧力と外国船の来航で、幕府内は複雑な権力闘争が起きている。そんな中、密かに外国との繋がりを持ち、利益を得ようとする者たちがいるのさ」

麗子は考え込んだ。状況は彼女の想像以上に深刻だった。

「どうすればいいでしょう...」

「今は証拠がない。だが、もう一つ教えておこう」

半四郎は声をさらに低くした。

「最近、目付役に戻ってきた者がいる。お前も知っているはずだ...長谷川宗馬」

麗子の心臓が激しく鼓動した。宗馬の名を聞くのは十二年ぶりだった。

「彼も、この件を調査しているらしい」

半四郎は立ち上がり、麗子に小さな紙を手渡した。

「この場所で、今週金曜の夜に密会がある。『影の船』の関係者たちがな。もし証拠を掴みたいなら...」

麗子は紙を受け取り、しっかりと握りしめた。

「安井様、感謝します」

「気をつけろよ、流星。...いや、麗子」

半四郎は出ていく前に振り返った。

「お前には娘がいるんだろう? 危険な橋は渡るな」

その言葉に、麗子は複雑な表情を浮かべた。確かに彼女には守るべき娘がいる。しかし同時に、危険にさらされている若い女性たちも救いたかった。

半四郎が去った後、麗子は星型の簪を取り出し、手の中で転がした。それは彼女がかつて花魁として輝いていた証だった。

「流星太夫...」

麗子は鏡に向かって呟いた。十二年の歳月が彼女の美しさを変えることはなかった。ただ、その瞳に宿る強さと悲しみが、彼女をより一層魅力的にしていた。

「もう一度...あの世界に戻るべきなのでしょうか」

そう問いかける彼女の背後で、千星が密かに様子を窺っていたことに、麗子はまだ気づいていなかった。
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