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序章(Ⅲ):中世フィレンツェ(ダンテとベアトリーチェ)
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アルノ川を渡る風が艶めかしい香りを運んできた。それは愛しい人の香りだった。丈の長いチュニックの上に赤い袖なしの上着を羽織った男は、聖トリニータ橋に佇み、夕涼みをしている振りをしてヴェッキオ橋に顔を向けていた。しかし、意識はそこになかった。すべての感覚は一歩一歩近づいてくる女性に向けられていた。
男がその女性に初めて会ったのは9歳の時だった。それから9年という月日が流れていた。それは男にとって短い月日ではなかった。その間、あの時の少女が日を追うごとに美しくなっているという噂を聞く度に心を震わせた。上品で愛らしく、それでいて高潔な女性に成長していると聞く度に思いが募った。しかし、その女性は滅多に館から出ることはなく、会えるチャンスは無きに等しかった。ところが今日、久々に彼女が友達と外出するという情報がもたらされ、居ても立ってもいられなくなった。男の心臓はいつ破れてもおかしくないほどに打ち震えていた。
赤い服と青い服の女二人に囲まれて、黄金色の服を着た美しい人が男のいる方へ向かってきた。きらきらと光る金髪をなびかせて近づいてきた。ヴェッキオ橋を見る振りをしていた男は、意を決して体の向きを変え、愛らしい唇、純白に輝く歯、真っすぐな鼻筋、麗しき目元、知性溢れる額、その比類なき美しい顔に視線を這わせた。
すると、それに気がついたのか、美しい人が男の方に顔を向けて目が合った。その瞬間、微笑みを期待した。しかし、その視線はすぐに隣の赤い服の女に移り、何やら笑いながら、何事もなかったように男の前を通り過ぎた。
それでも後姿を追ったが、その美しい人は一度も振り返ることなく遠ざかっていった。
ベアトリーチェ……、
ダンテの呻きがアルノ川に落ちた。
それを流れが拾って、川底へと運んだ。
別の女に思いを寄せているという間違った噂が流れていた。それは根も葉もないことだったが、ベアトリーチェの耳に届いているのは間違いないはずだった。噂はすぐに広まるからだ。
ダンテはそれを打ち消したかった。心の中にはベアトリーチェしかいないと伝えたかった。しかし、それを伝える術がなかった。会うことさえ難しい中で、言葉を交わすチャンスは無きに等しかった。
それに、両家の違いは余りにも大きかった。名を轟かせている銀行家の娘であるベアトリーチェに対してダンテは貧しい両替商の息子でしかなく、その経済力の差は王様と乞食ほどの違いがあった。
ベアトリーチェ……、
道に落ちた未練が風に拾われて空高く舞い上げられた。そして、美しい人に届くこともなく異国の地へと飛んでいった。
2
死んでしまった……、
ピサへの従軍から帰ったダンテに訃報が届いた。あの美しい人が24歳の若さで亡くなったという知らせだった。9歳の頃から愛し続けたあの美しい人がこの世から姿を消してしまったのだ。ダンテは狂わんばかりに泣き叫んだ。
ベアトリーチェ!
あの美しい面影に向かって叫び続けた。
しかし、その叫びが彼女の魂に届くことはなかった。一度も会話を交わすことなく終わった片思いの残骸だけが頭の上を舞っていた。
失意のダンテは来る日も来る日も聖トリニータ橋に立って、ベアトリーチェの面影を探した。しかし、それは更なる痛みを連れてきた。比類なき美しい顔を思い出す度に後悔が募って気分は闇に落ちた。
もはや何をする気も起らなくなり、生きる意味を失って屍となるしかなかった。すべてがなくなったのだ。息をすることさえ苦痛だった。それでも橋へ向かう足を止めることはできなかった。あの日、彼女とすれ違った橋に向かわないわけにはいかなかった。
3
その日も聖トリニータ橋に立って川面を見つめていた。しかし、目に映るものは無だけであり、魚がはねても、その姿は目に入ってこなかった。
もう何度目だろうか、数えきれないくらいのため息をついた時、突然、風が頬を撫でた。それに誘われるように顔を上げると、また頬を撫で、すぐにそれが強い風に変わった。
風に背中を押されるようにふらふらと歩き出すと、いつの間にかヴェッキオ橋に辿り着いていた。それを渡って緩い坂を上っていくと、大きな建物が見えた。見たこともない建物で、宮殿のような威容を誇っていた。
隣接する庭園に足を踏み入れると、広大な敷地の至る所に彫刻が飾られ、奥に向かって真っすぐな道が長く続いていた。それが余りにも見事なために暫し立ち止まって見とれてしまったが、この先に何があるのか興味を惹かれ、再び歩き始めた。すると、池が見えて、噴水が上がっていた。ネプチューンだろうか、三叉槍を持つ海の神が魚を捕らえようとするかのように水面を睨んでいた。
それを過ぎると、小高い所に像が立っているのが見えた。
階段を上って近づくと、圧倒されるほどの大きさの女神像が松明を掲げるかのように左手を大きく上げていた。持っているのは小麦の束だろうか? 右手には角のようなものを持っていた。その姿に見惚れていると、突然声が聞こえた。
「私は豊穣の女神です。戦争や飢饉で苦しんでいる人々を救うために天から遣わされました。この場所から小麦の豊作とこの地の繫栄と平和を祈りながら日々過ごしています」
突然のことに驚いたダンテは喉が詰まったようになったが、しかし、それは序章に過ぎなかった。更なる驚きの言葉が女神から発せられたのだ。
「ダンテよ、あなたは間もなくこの地から追放されます。そして二度と戻って来られないでしょう。それでも、案ずることはありません。あなたは後世に残る偉大なものを書き上げる運命を授かっているからです。ダンテよ、失意に閉ざされてはいけません。例え地獄に落ちても、煉獄の炎に焼かれても、あなたは必ずや天国に辿り着くことができます。そして、そこでベアトリーチェと再会を果たすことができるのです。ダンテよ、前を向くのです。真っすぐ前を向いて歩くのです。さあ、行きなさい。運命の命ずるままに進みなさい」
声が消えると、厚く覆われていた雲が開いて、一筋の光が射してきた。
更に雲間が開くと、七色のシャワーが女神像に降り注いだが、それも束の間、一瞬にして姿が消えた。
戦いたダンテが来た道を振り返ると、ネプチューンの像も大きな宮殿も消えていた。何がなんだかわからなくなって口をポカンと開けていると、突然、風が頬を撫で、続いて「目を瞑りなさい」という囁きが届いた。
言われるままに目を瞑ってじっとしていると、しばらくして、もう一度風が頬を撫でた。
目を開けると、景色が変わっていた。何故か聖トリニータ橋に戻っていた。
訳がわからなくなったダンテは立っていられなくなって、欄干に右手を置いた。すると、ベアトリーチェの顔が水面に浮かんだように見えたが、それは瞬く間に消えて、どこかに行ってしまった。
ベアトリーチェ、
呟きの先に面影を探したが、川は静かに流れるだけで何も与えてはくれなかった。
ベアトリーチェ……、
それでも呟きを止めることはできなかった。
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