🍞 ブレッド 🍞 ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~

光り輝く未来

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ニューヨーク(2)

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「もう決めたか?」
 年明けを待つようにしてニューヨークにやってきた父親の第一声だった。
 ジョン・F・ケネディー国際空港1階到着ロビーで出迎えた弦は呆気にとられた。「あけましておめでとう」とか「元気か」とか「英語の勉強はどうだ」とか、そんな第一声ならわかるが、いきなりアルバイトの件を持ち出す父親の真意がわからなかった。
「まだ決めてないのか」
 追及するような口調だった。
 弦は頭を振った。
「何をしたらいいかよくわからない……」
 頭の中にあるのは音楽のことだけだった。しかし、それをアルバイトに結び付けることはできなかった。CDショップの店員というアイディアが浮かんだこともあるが、クラシックとジャズのごく一部しか知らない自分には無理だと諦めた。アメリカでは多種多様な音楽が幅広く聴かれているのだ。限られた知識で客の質問に対応することは不可能だった。
「ぐずぐずしている暇はないぞ」
 2月から仕送りを減らすといきなり言われた。
「そんな~」
 動揺した弦に父親の厳しい視線が突き刺さった。
「小遣いは自分で稼ぎなさい」
 そして、自立への第一歩を強く促すように言葉を継いだ。
「いつまでも親に甘えていてはダメだ」
「……そんなこと、言われたって……」
 弦は父親から視線を外した。仕送りを受けているのは事実だったが、ニューヨークに来たのは自らの意志ではないという言い訳が常に頭の中にあった。上智大学に行っていれば、どんなアルバイトだってできたはずなのだ。ブルーノート東京やコットンクラブ、ビルボード東京などのジャズクラブで趣味と実益を兼ねたバイトができたはずなのだ。
「日本だったらとっくに見つけているよ」
 視線を戻さずに不満を吐き捨てると、「情けない」と父親はゆらゆらと首を振った。言い返そうとしたが、その前に遮断された。
「とにかく仕送りは2月から減らす」
 そう言うなりタクシー乗り場に向かった。
 慌てて後姿を追いかけた。

 乗り場には長い列ができていた。
 乗るまでにしばらく時間がかかりそうで、それが苦痛だった。父親は憮然としているし、視線を合わせようとしなかった。〈居たたまれない〉という言葉がピッタリだと弦は思った。
 しばらくして、やっと順番が来て、父親がタクシーに乗り込んだ。しかし、弦は乗せてもらえなかった。相乗りさせてもらえるとばかり思っていたので信じられなかったが、視線の先には、じゃあ、というように手を上げた父親の横顔があった。

 父親を乗せたタクシーが発車すると、すぐに次のタクシーがやってきた。しかし、遠ざかるタクシーをボーっと見ていた弦は反応することができなかった。すると、横付けしたタクシーの運転手と弦のすぐ後ろに並ぶ人から同時に何か言われた。
 それで我に返った。乗車を急かされていた。でも、市内まで60ドル以上かかるタクシーに乗れるわけがなかった。バスと地下鉄を乗り継いで帰るしかないのだ。
 気まずい思いでその場を離れた弦は無料で乗れるエアトレイン乗り場に急いだが、それに乗ってターミナル5のバス停へ着いた時には既に出たあとだった。
 なんで……、
 小さくなっていくバスの後姿を呟きが追いかけたが、それは追いつくこともなく、排気ガスに巻かれてどこかに消えた。

 11日の昼過ぎに父親はニューヨークを発った。
 滞在中、弦と一度も食事をすることなく、帰る前の日に電話が一度あっただけだった。それも「見送りに来なくていい」というそっけないものだった。その上、「バイトを早く探せ」と言ってガチャンという感じで切られた。その瞬間、〈取り付く島もない〉という言葉が頭に浮かんだ。〈けんもほろろ〉という言葉も浮かんだ。〈にべもない〉という言葉も湧き出てきた。言われた通り、見送りにはいかなかった。

 父親が日本に向けて飛び立った時刻に家を出たが、語学学校には足が向かなかった。といってアルバイトを探す気にもならず、なんかどうでもよくなっていた。というか、父親の意思に左右される自分が虚しくなっていた。勝手にニューヨーク行きを決められ、語学学校に入学させられ、アルバイトを強要され、2月からは仕送りを減らされる、それってなんなんだ、という疑問が沸々と湧き出ていた。確かにこの歳でニューヨークを体験できるのは貴重なことだし、刺激を味わっていることも確かだったが、それは自分が選んだ道ではなく、父親が敷いたレールの上を歩いているだけなのだ。
 それに、これから先の道も決まっている。帝王学を学ばされて、跡継ぎとして鍛えられ、ゆくゆくは二代目社長となって会社を経営することになるのだ。
 あ~、なんて素晴らしい人生なんだろう、
 弦は自嘲気味に呟いた。
 世間からは羨ましい限りだと言われるに違いない。文句を言ったら罰が当たると言われるに違いない。その通りだった。それは十分すぎるほどわかっていた。わかってはいたが、納得するわけにはいかなかった。そこに自らの意志が入っていないからだ。操られているだけだからだ。父親の思い通りに動く人形でしかないからだ。
 やってられない、
 弦の呟きがブロードウェイの喧噪けんそうに吸い込まれて、消えていった。

 いつの間にかビジネス街に足を踏み入れていた。誰もが知る金融の中心地『ウォール・ストリート』だった。
 目の前で巨大な雄牛像が弦を睨みつけていた。『チャージング・ブル』だ。高さが3.4メートル、長さが4.9メートルもある。
 ブルは金融用語で上昇相場を意味する縁起のいい言葉で、多くの人が撫でたせいか、像全体が艶々としている。
 弦も金運が上昇するようにと頭と角を撫で、「割のいいバイトが見つかりますように」と願いを込めた。

 ブルと別れてから当てもなく歩き続けたが、のんびりと歩いているのは自分の他に誰もおらず、皆急ぎ足でどこかへ向かっていた。
 暇な人は一人もいないようだ。忙しいのが当たり前なのだろう。それを見ていると、〈タイム・イズ・マネー〉という言葉が頭に浮かんできた。彼らは〈生き馬の目を抜く〉毎日を送っており、それを勝ち抜いた者だけが〈高嶺の花〉という特別なポジションを勝ち取ることができる世界にいるのだ。
 そういう目で見てみると、彼らが身に着けているコートもビジネスバッグも靴もみな高そうに見えてきた。
 それに、停まっている車はよだれが出そうな高級車ばかりだ。中には写真でしか見たことのないスポーツカーもある。しかし、それに関心を示す人は誰もいない。数千万円の車なんてどうってことないのだろう。
「せいぜい頑張ってください」と呟きながら、その場をあとにした。

 ウォール・ストリートに背を向けた弦の足は、何故かグラウンド・ゼロに向かっていた。何かに背中を押されるように勝手に足が動いているようだった。

 しばらく歩くと、慰霊碑が見えた。前回来た時よりもはるかに多くの人が訪れていたし、誰もが真剣に祈りを捧げていたので、アメリカ人にとって特別な日なのかもしれないと思い至った。日本でいう月命日なのだ。
 慌てて手を合わせて頭を垂れたが、本当は911メモリアルミュージアムに入って、中で手を合わせたかった、しかし、入場料の持ち合わせがなかった。例えあったとしても26ドルを払うことはできない。来月から仕送りを減らされるのだ。出費は必要最低限にしなければならない。仕方なく入口に向かって再度手を合わせて、頭を下げた。

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