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ニューヨーク(3)
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「もしかして」
弦が顔を上げた時、いきなり見知らぬ老人から声をかけられた。しかし、よく見ると、見覚えのある顔だった。
「あっ、あの時の……」
消防士の孫を亡くしたあの老人だった。東日本大震災のことをとても心配してくれたあの老人だった。
「毎月来られているのですか?」
すると老人は寂しそうに頷いた。
「私にしてやれることはそれくらいしかないからね」
無念の表情が浮かんで顔が歪み、「代わってやれたらどんなに良かったか……」と孫よりも長く生きていることにやるせなさを感じているような口調になった。10年という月日が過ぎても老人が受けた心の傷が癒えることはないのだろう。こういう時にかける最適な言葉を探したが、弦のボキャブラリーにそんな気の利いた言葉は存在しなかった。
「大学生?」
沈んだ空気を振り払うかのように、老人の方が話題を変えた。
「いえ、語学学校に通っています」
何故ニューヨークに来たのかをかいつまんで説明すると、「そう。わざわざアメリカで受験するためにね~」と両親と離れて異国で一人暮らしをする若者に心を寄せるような表情になった。
「私も若い頃にここへ来たんだよ」
イタリアからの移民で、名前は『ルチオ・ボッティ』だと言った。
「弾弦です。Play the stringsという意味です」
「お~、なんて素晴らしい名前なんだ」
大げさに両手を広げた。顔には笑みが浮かんでいた。
「ヴァイオリンを弾くの?」
弦は頭を振って、ギターだと答えた。
「そうか、ギターか。いいね。実は孫も音楽をやっていてね」
殉職した孫に弟がいて、ジュリアード音楽院に通っているのだという。
「ジュリアード……」
それは弦の憧れの学校だった。バークリーと並ぶ世界最高峰の音楽大学で、数多くの有名ミュージシャンを輩出していた。
「ヴァイオリンですか?」
「いや、サックスだよ。本当はトランペットをやりたかったらしいんだけどね」
弦は首を傾げた。管楽器という点では同じだが、サックスとトランペットでは吹き方がまったく違うからだ。
するとどう受け取ったのか、「よかったら孫に会ってみないかい?」と弦の腕を取り、さあ行こう、というふうに引っ張った。
「でも……」
素性の知れない人の家に行くのを躊躇った弦は足を動かさなかったが、それでも、「孫とは話が合うと思うよ。それに私の店も見てもらいたいからね」と心配を解き放つような柔らかな笑みを投げてきた。
「これも何かの縁だと思わないかい。同じ場所で二度も会うなんてめったにないことだからね」
弦の腕から手を離して、おどけた顔で右の掌を進行方向に向けた。すると、警戒心が一気に緩んだ。その仕草が余りにもユーモラスだったからだ。
「じゃあ、ちょっとだけ」
ルチオは嬉しそうに頷いて、ハドソン川沿いを北に向かって歩き出した。
「そこだよ」
彼が指差す先にあったのは、大きな建物だった。
「えっ? ルチオさんのお店って……」
美術館を指差すと、「違う、違う。その横だよ」と弦の体を少し右に向けた。美術館の隣に三色に塗り分けられた軒先テントが見えた。
パン屋だった。しかし、テントには奇妙な文字が並んでいた。BAKERY『BREAD』
ん? パンのパン屋?
首を傾げながらもルチオについて中に入ると、焼きたてのいい匂いが鼻をくすぐった。唾液腺がすぐさま反応し、味蕾は待ち切れないと叫んでいた。
おいしそう……、
すると、その呟きをルチオがすぐに拾った。
「どれでも好きなものをどうぞ」
それに反応して弦は手を伸ばしそうになったが、そんなわけにはいかないと躊躇った。だが、意外な味方が後押しをした。タイミングよくお腹が鳴ったのだ。
ほら、というように笑みを浮かべたルチオがトレイとトングを差し出したので、素直に受け取って、品定めを始めた。
色々なハンバーガーやホットドッグにサンドイッチ、そしてベーグル。それに、クロワッサンやフランスパン。それと、見たこともないようなパンがいくつもあった。
「それはグリッシーニだよ」
棒のような細長いパンの前に立ち止まった弦に、ルチオが助け舟を出した。
「こっちはフォカッチャで、これはチャバッタ」
すべてイタリアのパンなのだという。
「もともとはイタリアのパンだけを作って売っていたんだけど、息子の代になって世界各地のパンを作るようになったんだよ」
店名も、ルチオが店を始めた時は『BOTTI BAKERY』だったのが、息子の代になって今の名前になったのだそうだ。
「変な名前だろ。私は反対したんだけどね」
ルチオが口を歪めて首を振った。その時、奥からがっしりとした体格の男性が現れた。
「いらっしゃいませ」
顔一つ分ルチオより背が高かった。何やらイタリア語のような言葉でルチオが語りかけると、彼は盛んに頷いていた。
話が終わると弦に視線を戻し、「跡を継いだアントニオです。ようこそいらっしゃいました。遠慮なさらないでなんでもお好きなものを召し上がってください」とルチオと同じような口調でパンの方に掌を向けた。
「ありがとうございます。でも……」
どれを選んだらいいのかさっぱりわからなかった。余りにも種類が多すぎて目移りしていたのだ。しかし、それを遠慮と勘違いしたのか、アントニオが新しいトングに手を伸ばして、次々にパンを弦が持つトレイに乗せた。
「これがカプレーゼのパニーノで、これがクアトロフォルマッジ、そして、これがルッコラとプロシュートのピッツァ。さあどうぞ」
アントニオが窓側にあるテーブルを指差した。
イートインコーナーだった。言われるままにテーブルにトレイを置くと、ルチオがニコニコしながらカップを両手に持って、椅子に座った。そして、カプチーノだと言って、大きなカップを弦の前に置いた。右手に持つ小さなカップはエスプレッソのようだった。
「どれもおいしいよ」
早く食べなさいと促すように両手を前に出した。
頷いた弦は色合いの良さに惹かれてカプレーゼのパニーノに手を伸ばした。トマトの赤とモッツァレラチーズの白とバジルの緑が鮮やかだったからだ。
一口かじると、オリーブオイルとレモンの風味が加わって、口の中いっぱいに至福が広がった。
「ボーノ」
思わず口からイタリア語が出たが、それは日本語発音そのままだった。しかし、それでも十分に伝わったようで、ルチオは右手の親指を立てて笑みを浮かべた。
カプレーゼを食べ終わると、ルッコラとプロシュートのピッツァに手を伸ばした。トマトソースの上にルッコラが乗り、その上にプロシュートが覆いかぶさっている。
誘われるようにがぶっといくと、トマトソースの酸味と甘みにプロシュートの塩味が合わさって、なんとも言えないハーモニーが口の中いっぱいに広がった。
「ブォーノ」
今度はイタリア語らしい発音で言ってみた。ルチオはニコニコしていた。
最後に手にしたのは、ピッツァの生地の上にチーズが溶けているものだった。
「クア……?」
アントニオの言葉を思い出そうとしたが、最初の二文字しか浮かんでこなかった。
「クアトロフォルマッジ」
ゆっくり発音したあと、クアトロは数字の4で、フォルマッジはチーズだと説明してくれた。モッツァレラ、ゴルゴンゾーラ、ペコリーノ、パルミジャーノの4種類のチーズがトッピングされているのだという。
一口かじると、パンチの利いた濃厚な味がガツンと押し寄せてきた。余りの美味しさに口を開きかけると、「ブオノ」とルチオが先に声を出した。悪戯っぽく片目を瞑っていた。
真似をして、「ブオノ」と弦も言った。
素晴らしい、とでもいうように両手の親指を立てたルチオが、イタリアのパンが置かれている棚に視線をやって弦の方に戻した。
「pizza(ピッツァ)の意味を知っているかい?」
弦は首を横に振った。
「『平らに潰す』という意味のラテン語が語源なんだよ。イタリア語で『引っ張る』という意味もあるがね。それから、focaccia(フォカッチャ)は『火で焼いたもの』という意味だし、ciabatta(チャバッタ)は『スリッパ』という意味だよ。形が似ているから名づけられたんだ。それから」
「父さん」
なおも説明しようとするルチオをアントニオが窘めた。
「ごめんね。イタリアのパンのことをしゃべり始めたら父は止まらなくなってしまうから」
しかし、嫌ではなかったので大きく首を横に振って、退屈ではないことを伝えた。
「ほ~ら」
ルチオが顎を上げてアントニオを見上げると、「はい、はい」と退散するように奥に引っ込んだ。
「ところで、ジュリアードに行っているお孫さんはいらっしゃいますか」
すると、そうだった、というふうにルチオは立ち上がり、奥からアントニオを引き戻してきた。
「学校に行ってていないんだよ。一日中レッスン室に籠って練習しているからね」
ジュリアードの厳しさは有名で、それは弦も聞いたことがあった。
「いつも帰ってくるのは夜遅くになってからなんだよ」
父親でもなかなか会えないと嘆いた。
「そうですか……」
これ以上長居をするのはどうかと思った弦は立ち上がってトレイとカップを持ったが、ルチオは両手を下に向けて座るように促した。
「ひょこっと帰ってくることもあるから、もう少し待ってみたら」
口調は優しかったが、〈もうしばらくここに居るように〉という強い気持ちを感じたので、頷きを返して再び腰をかけた。するとアントニオがエスプレッソを三つ運んできて、「客が一段落したのでちょっとひと休み」と口角を上げた。
弦がカップに口を付けた時、店内に流れる音楽が変わり、幻想的なイントロに導かれて優しい歌声が聞こえてきた。
初めて聴く曲だったので耳を澄ませていると、「The Guitar Manだよ」とアントニオが教えてくれた。
「いい曲だろ」
何故か自慢気な口調だった。
「ブレッドは最高だよ」
ブレッド?
思わず呟いて首を傾げると、バンドの名前だとアントニオが笑ってから、言葉を継いだ。少年時代に夢中になって聴いた大のお気に入りグループで、レコードが発売されるたびにルチオにせがんで買ってもらったらしい。
「私の宝物だね」
目を細めた瞬間、歌が終わって、間奏が始まった。ワウワウを効かせたギターソロが素晴らしかった。
「ロック史に残るギターソロだと思うよ」
なんとも言えないというような顔をして頷いたあと、ラリー・ネクテルの演奏だと付け加えた。
「もしかして」
その先を言おうとして遮られた。その通りだというように頷いたアントニオは、「父の跡を継ぐのが決まった時、店名がこのままでいいのか悩んだんだ。というのも、ボッティ・ベーカリーではイタリア色が強すぎると思っていたからなんだ。イタリア人や移民の子孫やイタリアのパンに関心がある人にはなんの問題もないかもしれないけど、普通のアメリカ人にはハードルがあるような気がしてね。だから、もっとポピュラーなものに変えた方がいいのではないかと考えたんだ」
そして、〈ねっ〉というように顔を向けると、ルチオは首をすくめて両手を広げた。
「父には反対されたけど、このベーカリーが末代に渡って繁栄するためには、今名前を変えなきゃいけないと迫ったんだよ」
「それにしても、ブレッドはないだろうと思ったよ」
間髪容れず口を挟んだルチオは、当時を思い出したのか、ゆらゆらと首を横に振った。
「でも、バンドの名前と掛けていることを説明したら渋々認めてくれたけどね」
但し、軒先テントの色は変えさせてもらえなかったと苦笑いをした。
すると、「緑と白と赤はイタリア国旗の色だからね。これは私のアイデンティティなんだよ。イタリアを愛する私の心の拠り所でもあるんだ。だから、これだけは譲ることはできない」とルチオが断固とした表情になった。
「私としてはアメリカ国旗をあしらったものにしたかったのだけどね」
イタリア系移民としてではなくアメリカ国民としての存在感を打ち出したかったのだと言ったアントニオの顔がちょっと悔しそうに歪んだが、「でもね、先祖から代々受け継いだイタリアの血を否定してはいけないと思い直して、結局は父の言い分に納得したんだけどね」と表情を戻した。
ルチオはイタリア北部の『チンジャ・デ・ボッティ』というコムーネ(基礎自治体)の出身だった。そこは1,300人ほどの小さな村で、今もルチオの親族が暮らしているという。
「父がパンの製造技術をマスターしたのもその村だし、この店があるのは父の故郷のお陰だと気づいたんだよ」
アントニオがルチオの肩に手を置くと、ルチオが嬉しそうに笑った。
「本音を言うと、店名については完全に納得したわけではないんだが、息子が世界中のパンを研究してこれだけの種類を揃えることができたから、まあ、良しとしなければね」
アントニオは休暇旅行を兼ねて年に2回、世界各地のベーカリーを訪ね歩いているのだという。
「北米やヨーロッパはもちろん、南米やアジアにも行ったよ」
各地で食べて、作り方を教えてもらって、帰国後何度も試作を繰り返して、ここまでパンの種類を増やしたのだという。
「まだ日本には行ったことがないから行きたいと思っていたんだけど、今は大変なことになっているからね。それに」
言葉を継ごうとした瞬間、ルチオが右手で制した。
「その話は止めよう。弦の気持ちが暗くなる」
すると、アッというように口に手を当てたアントニオはすぐに話題をパンに戻した。
「日本にはどんなパンがあるんだい?」
弦は、あんパンやジャムパンやカレーパン、メロンパンや総菜パンなどを紹介した。
「ふ~ん、面白そうなパンだね。一度食べてみたいな」
それがとても真剣な感じだったので、弦はイーストヴィレッジにあるベーカリーのことを教えた。
「日本人のパン職人がオーナーなので、日本のパンを色々楽しめますよ」
今度行ってみる、とアントニオが言った時、若いカップルが店に入ってきた。すると、すぐさま彼は店の主人に変身した。
「そろそろ僕も」
ジュリアードから戻りそうもないのでお暇すると告げると、「孫が家に居る時に連絡したいから、電話番号を教えて欲しい」と言ってメモとボールペンを持ってきた。
名前とスマホの番号を書いて渡すと、「自分の家だと思って、いつでも遊びにおいで」と店のカードを差し出した。
それが孫にでも言うような優しい口調だったので、素直に頷いてから、ご馳走になった礼を言った。そして、接客中のアントニオに目礼をして、棚に並ぶパンに微笑みかけてから店をあとにした。
外は薄暗くなって風が冷たくなっていた。しかし、それでも心は春のように温かかった。ルチオの顔を思い浮かべると自然に笑みが零れて、足取りが軽くなった。すると、別の顔が浮かんできた。
おじいちゃん……、
真冬のニューヨークの空に天国で見守ってくれている祖父の顔が浮かんでいた。
弦が顔を上げた時、いきなり見知らぬ老人から声をかけられた。しかし、よく見ると、見覚えのある顔だった。
「あっ、あの時の……」
消防士の孫を亡くしたあの老人だった。東日本大震災のことをとても心配してくれたあの老人だった。
「毎月来られているのですか?」
すると老人は寂しそうに頷いた。
「私にしてやれることはそれくらいしかないからね」
無念の表情が浮かんで顔が歪み、「代わってやれたらどんなに良かったか……」と孫よりも長く生きていることにやるせなさを感じているような口調になった。10年という月日が過ぎても老人が受けた心の傷が癒えることはないのだろう。こういう時にかける最適な言葉を探したが、弦のボキャブラリーにそんな気の利いた言葉は存在しなかった。
「大学生?」
沈んだ空気を振り払うかのように、老人の方が話題を変えた。
「いえ、語学学校に通っています」
何故ニューヨークに来たのかをかいつまんで説明すると、「そう。わざわざアメリカで受験するためにね~」と両親と離れて異国で一人暮らしをする若者に心を寄せるような表情になった。
「私も若い頃にここへ来たんだよ」
イタリアからの移民で、名前は『ルチオ・ボッティ』だと言った。
「弾弦です。Play the stringsという意味です」
「お~、なんて素晴らしい名前なんだ」
大げさに両手を広げた。顔には笑みが浮かんでいた。
「ヴァイオリンを弾くの?」
弦は頭を振って、ギターだと答えた。
「そうか、ギターか。いいね。実は孫も音楽をやっていてね」
殉職した孫に弟がいて、ジュリアード音楽院に通っているのだという。
「ジュリアード……」
それは弦の憧れの学校だった。バークリーと並ぶ世界最高峰の音楽大学で、数多くの有名ミュージシャンを輩出していた。
「ヴァイオリンですか?」
「いや、サックスだよ。本当はトランペットをやりたかったらしいんだけどね」
弦は首を傾げた。管楽器という点では同じだが、サックスとトランペットでは吹き方がまったく違うからだ。
するとどう受け取ったのか、「よかったら孫に会ってみないかい?」と弦の腕を取り、さあ行こう、というふうに引っ張った。
「でも……」
素性の知れない人の家に行くのを躊躇った弦は足を動かさなかったが、それでも、「孫とは話が合うと思うよ。それに私の店も見てもらいたいからね」と心配を解き放つような柔らかな笑みを投げてきた。
「これも何かの縁だと思わないかい。同じ場所で二度も会うなんてめったにないことだからね」
弦の腕から手を離して、おどけた顔で右の掌を進行方向に向けた。すると、警戒心が一気に緩んだ。その仕草が余りにもユーモラスだったからだ。
「じゃあ、ちょっとだけ」
ルチオは嬉しそうに頷いて、ハドソン川沿いを北に向かって歩き出した。
「そこだよ」
彼が指差す先にあったのは、大きな建物だった。
「えっ? ルチオさんのお店って……」
美術館を指差すと、「違う、違う。その横だよ」と弦の体を少し右に向けた。美術館の隣に三色に塗り分けられた軒先テントが見えた。
パン屋だった。しかし、テントには奇妙な文字が並んでいた。BAKERY『BREAD』
ん? パンのパン屋?
首を傾げながらもルチオについて中に入ると、焼きたてのいい匂いが鼻をくすぐった。唾液腺がすぐさま反応し、味蕾は待ち切れないと叫んでいた。
おいしそう……、
すると、その呟きをルチオがすぐに拾った。
「どれでも好きなものをどうぞ」
それに反応して弦は手を伸ばしそうになったが、そんなわけにはいかないと躊躇った。だが、意外な味方が後押しをした。タイミングよくお腹が鳴ったのだ。
ほら、というように笑みを浮かべたルチオがトレイとトングを差し出したので、素直に受け取って、品定めを始めた。
色々なハンバーガーやホットドッグにサンドイッチ、そしてベーグル。それに、クロワッサンやフランスパン。それと、見たこともないようなパンがいくつもあった。
「それはグリッシーニだよ」
棒のような細長いパンの前に立ち止まった弦に、ルチオが助け舟を出した。
「こっちはフォカッチャで、これはチャバッタ」
すべてイタリアのパンなのだという。
「もともとはイタリアのパンだけを作って売っていたんだけど、息子の代になって世界各地のパンを作るようになったんだよ」
店名も、ルチオが店を始めた時は『BOTTI BAKERY』だったのが、息子の代になって今の名前になったのだそうだ。
「変な名前だろ。私は反対したんだけどね」
ルチオが口を歪めて首を振った。その時、奥からがっしりとした体格の男性が現れた。
「いらっしゃいませ」
顔一つ分ルチオより背が高かった。何やらイタリア語のような言葉でルチオが語りかけると、彼は盛んに頷いていた。
話が終わると弦に視線を戻し、「跡を継いだアントニオです。ようこそいらっしゃいました。遠慮なさらないでなんでもお好きなものを召し上がってください」とルチオと同じような口調でパンの方に掌を向けた。
「ありがとうございます。でも……」
どれを選んだらいいのかさっぱりわからなかった。余りにも種類が多すぎて目移りしていたのだ。しかし、それを遠慮と勘違いしたのか、アントニオが新しいトングに手を伸ばして、次々にパンを弦が持つトレイに乗せた。
「これがカプレーゼのパニーノで、これがクアトロフォルマッジ、そして、これがルッコラとプロシュートのピッツァ。さあどうぞ」
アントニオが窓側にあるテーブルを指差した。
イートインコーナーだった。言われるままにテーブルにトレイを置くと、ルチオがニコニコしながらカップを両手に持って、椅子に座った。そして、カプチーノだと言って、大きなカップを弦の前に置いた。右手に持つ小さなカップはエスプレッソのようだった。
「どれもおいしいよ」
早く食べなさいと促すように両手を前に出した。
頷いた弦は色合いの良さに惹かれてカプレーゼのパニーノに手を伸ばした。トマトの赤とモッツァレラチーズの白とバジルの緑が鮮やかだったからだ。
一口かじると、オリーブオイルとレモンの風味が加わって、口の中いっぱいに至福が広がった。
「ボーノ」
思わず口からイタリア語が出たが、それは日本語発音そのままだった。しかし、それでも十分に伝わったようで、ルチオは右手の親指を立てて笑みを浮かべた。
カプレーゼを食べ終わると、ルッコラとプロシュートのピッツァに手を伸ばした。トマトソースの上にルッコラが乗り、その上にプロシュートが覆いかぶさっている。
誘われるようにがぶっといくと、トマトソースの酸味と甘みにプロシュートの塩味が合わさって、なんとも言えないハーモニーが口の中いっぱいに広がった。
「ブォーノ」
今度はイタリア語らしい発音で言ってみた。ルチオはニコニコしていた。
最後に手にしたのは、ピッツァの生地の上にチーズが溶けているものだった。
「クア……?」
アントニオの言葉を思い出そうとしたが、最初の二文字しか浮かんでこなかった。
「クアトロフォルマッジ」
ゆっくり発音したあと、クアトロは数字の4で、フォルマッジはチーズだと説明してくれた。モッツァレラ、ゴルゴンゾーラ、ペコリーノ、パルミジャーノの4種類のチーズがトッピングされているのだという。
一口かじると、パンチの利いた濃厚な味がガツンと押し寄せてきた。余りの美味しさに口を開きかけると、「ブオノ」とルチオが先に声を出した。悪戯っぽく片目を瞑っていた。
真似をして、「ブオノ」と弦も言った。
素晴らしい、とでもいうように両手の親指を立てたルチオが、イタリアのパンが置かれている棚に視線をやって弦の方に戻した。
「pizza(ピッツァ)の意味を知っているかい?」
弦は首を横に振った。
「『平らに潰す』という意味のラテン語が語源なんだよ。イタリア語で『引っ張る』という意味もあるがね。それから、focaccia(フォカッチャ)は『火で焼いたもの』という意味だし、ciabatta(チャバッタ)は『スリッパ』という意味だよ。形が似ているから名づけられたんだ。それから」
「父さん」
なおも説明しようとするルチオをアントニオが窘めた。
「ごめんね。イタリアのパンのことをしゃべり始めたら父は止まらなくなってしまうから」
しかし、嫌ではなかったので大きく首を横に振って、退屈ではないことを伝えた。
「ほ~ら」
ルチオが顎を上げてアントニオを見上げると、「はい、はい」と退散するように奥に引っ込んだ。
「ところで、ジュリアードに行っているお孫さんはいらっしゃいますか」
すると、そうだった、というふうにルチオは立ち上がり、奥からアントニオを引き戻してきた。
「学校に行ってていないんだよ。一日中レッスン室に籠って練習しているからね」
ジュリアードの厳しさは有名で、それは弦も聞いたことがあった。
「いつも帰ってくるのは夜遅くになってからなんだよ」
父親でもなかなか会えないと嘆いた。
「そうですか……」
これ以上長居をするのはどうかと思った弦は立ち上がってトレイとカップを持ったが、ルチオは両手を下に向けて座るように促した。
「ひょこっと帰ってくることもあるから、もう少し待ってみたら」
口調は優しかったが、〈もうしばらくここに居るように〉という強い気持ちを感じたので、頷きを返して再び腰をかけた。するとアントニオがエスプレッソを三つ運んできて、「客が一段落したのでちょっとひと休み」と口角を上げた。
弦がカップに口を付けた時、店内に流れる音楽が変わり、幻想的なイントロに導かれて優しい歌声が聞こえてきた。
初めて聴く曲だったので耳を澄ませていると、「The Guitar Manだよ」とアントニオが教えてくれた。
「いい曲だろ」
何故か自慢気な口調だった。
「ブレッドは最高だよ」
ブレッド?
思わず呟いて首を傾げると、バンドの名前だとアントニオが笑ってから、言葉を継いだ。少年時代に夢中になって聴いた大のお気に入りグループで、レコードが発売されるたびにルチオにせがんで買ってもらったらしい。
「私の宝物だね」
目を細めた瞬間、歌が終わって、間奏が始まった。ワウワウを効かせたギターソロが素晴らしかった。
「ロック史に残るギターソロだと思うよ」
なんとも言えないというような顔をして頷いたあと、ラリー・ネクテルの演奏だと付け加えた。
「もしかして」
その先を言おうとして遮られた。その通りだというように頷いたアントニオは、「父の跡を継ぐのが決まった時、店名がこのままでいいのか悩んだんだ。というのも、ボッティ・ベーカリーではイタリア色が強すぎると思っていたからなんだ。イタリア人や移民の子孫やイタリアのパンに関心がある人にはなんの問題もないかもしれないけど、普通のアメリカ人にはハードルがあるような気がしてね。だから、もっとポピュラーなものに変えた方がいいのではないかと考えたんだ」
そして、〈ねっ〉というように顔を向けると、ルチオは首をすくめて両手を広げた。
「父には反対されたけど、このベーカリーが末代に渡って繁栄するためには、今名前を変えなきゃいけないと迫ったんだよ」
「それにしても、ブレッドはないだろうと思ったよ」
間髪容れず口を挟んだルチオは、当時を思い出したのか、ゆらゆらと首を横に振った。
「でも、バンドの名前と掛けていることを説明したら渋々認めてくれたけどね」
但し、軒先テントの色は変えさせてもらえなかったと苦笑いをした。
すると、「緑と白と赤はイタリア国旗の色だからね。これは私のアイデンティティなんだよ。イタリアを愛する私の心の拠り所でもあるんだ。だから、これだけは譲ることはできない」とルチオが断固とした表情になった。
「私としてはアメリカ国旗をあしらったものにしたかったのだけどね」
イタリア系移民としてではなくアメリカ国民としての存在感を打ち出したかったのだと言ったアントニオの顔がちょっと悔しそうに歪んだが、「でもね、先祖から代々受け継いだイタリアの血を否定してはいけないと思い直して、結局は父の言い分に納得したんだけどね」と表情を戻した。
ルチオはイタリア北部の『チンジャ・デ・ボッティ』というコムーネ(基礎自治体)の出身だった。そこは1,300人ほどの小さな村で、今もルチオの親族が暮らしているという。
「父がパンの製造技術をマスターしたのもその村だし、この店があるのは父の故郷のお陰だと気づいたんだよ」
アントニオがルチオの肩に手を置くと、ルチオが嬉しそうに笑った。
「本音を言うと、店名については完全に納得したわけではないんだが、息子が世界中のパンを研究してこれだけの種類を揃えることができたから、まあ、良しとしなければね」
アントニオは休暇旅行を兼ねて年に2回、世界各地のベーカリーを訪ね歩いているのだという。
「北米やヨーロッパはもちろん、南米やアジアにも行ったよ」
各地で食べて、作り方を教えてもらって、帰国後何度も試作を繰り返して、ここまでパンの種類を増やしたのだという。
「まだ日本には行ったことがないから行きたいと思っていたんだけど、今は大変なことになっているからね。それに」
言葉を継ごうとした瞬間、ルチオが右手で制した。
「その話は止めよう。弦の気持ちが暗くなる」
すると、アッというように口に手を当てたアントニオはすぐに話題をパンに戻した。
「日本にはどんなパンがあるんだい?」
弦は、あんパンやジャムパンやカレーパン、メロンパンや総菜パンなどを紹介した。
「ふ~ん、面白そうなパンだね。一度食べてみたいな」
それがとても真剣な感じだったので、弦はイーストヴィレッジにあるベーカリーのことを教えた。
「日本人のパン職人がオーナーなので、日本のパンを色々楽しめますよ」
今度行ってみる、とアントニオが言った時、若いカップルが店に入ってきた。すると、すぐさま彼は店の主人に変身した。
「そろそろ僕も」
ジュリアードから戻りそうもないのでお暇すると告げると、「孫が家に居る時に連絡したいから、電話番号を教えて欲しい」と言ってメモとボールペンを持ってきた。
名前とスマホの番号を書いて渡すと、「自分の家だと思って、いつでも遊びにおいで」と店のカードを差し出した。
それが孫にでも言うような優しい口調だったので、素直に頷いてから、ご馳走になった礼を言った。そして、接客中のアントニオに目礼をして、棚に並ぶパンに微笑みかけてから店をあとにした。
外は薄暗くなって風が冷たくなっていた。しかし、それでも心は春のように温かかった。ルチオの顔を思い浮かべると自然に笑みが零れて、足取りが軽くなった。すると、別の顔が浮かんできた。
おじいちゃん……、
真冬のニューヨークの空に天国で見守ってくれている祖父の顔が浮かんでいた。
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