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ニューヨーク(2)
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次の定休日に呼ばれて行くと、いきなりルチオの特訓が始まった。台の上にはパンを作るための材料が置かれていた。
「これが強力粉で、これがフランスパン専用粉、そしてこれが全粒粉、それから、ライ麦粉にコーンフラワー」
指差しながらルチオの説明が続いた。
「これはパン酵母だよ。こっちが生イーストで、そっちがドライイースト」
その後は専門書のような本を開いて、製法の説明が始まった。
「すべての材料を一度に混ぜてこねる伝統の製パン法が『ストレート法』で、じっくり発酵させるから歯応えのある食感のパンができるんだよ。しかし、発酵時間が3時間近くかかるから、それを短縮するために考え出されたのが『ノータイム法』で、ミキサーを使って早くこねるから発酵時間が30分もかからなくなったんだ。それに、ふっくらとしたパンを焼けるようになった。でも、ストレート法に比べて香りや風味が落ちるのが玉に瑕だけどね。それから、アメリカで開発された製パン法に『中種法』というのがあるんだ。中種と呼ばれる発酵種を作って4時間ほど発酵させるという手間がかかる方法なんだけど、機械を使った大規模な製造に適しているから、多くのパン工場で採用されているんだよ。でも、うちで採用しているのはそれではなく、『冷蔵生地法』という作り方なんだ。冷蔵庫で一晩発酵させる製造法なんだけど、これだと朝の時間を節約できるし、ゆっくり発酵させるから香りや風味がマイルドになって美味しいパンが焼けるんだよ」
ルチオは懇切丁寧に教えてくれたが、頭にまったく入ってこなかった。左の耳から右の耳に抜けていくだけで、どんなに集中しても専門的な解説についていけなかった。
「次は」と言いかけたルチオの口が開いたまま止まった。アントニオが「ちょっと休憩したらどう?」と救いの手を差し伸べてくれたからだ。弦はホッとしたが、それで解放されたわけではなかった。
「試作品が出来上がったから意見を聞かせてくれるかな」
アントニオが指差した先には焼き上がったばかりのパンがパントローリーに乗っていた。それをトングでバスケットに移し替えて、弦の前にある台まで運んできた。
「これは、」
大きく目を見開いた弦に向かってアントニオが笑顔で頷いた。
「そう、あんパンを作ってみたんだ。うまくできているといいんだけどね」
弦は1個手に取って、それを半分に割った。
つぶあんだった。それらしくできているようだったが、口に入れると、ん? という感じになった。余り甘くなかったし、粘りが足りないようだった。
「砂糖が少なかったかな~」
アントニオも気づいたようだった。
「この前食べたあんパンよりはあっさりしすぎているね」
ルチオがダメ出しをした。
「う~ん」
顔を歪めたアントニオがスマホを手に取った。何かを確認しているようだった。
「これに出ているレシピを参考にしたんだけどね」
弦が画面を覗き込むと、『How to make Anpan』という文字が目に入った。ユーチューブだった。ベーカリーエプロンを着けたアメリカ人らしき男性があんパンのつくり方をレクチャーしていた。それらしい雰囲気はあったが顎髭がなんか怪しそうで、本物のパン職人のようには見えなかったし、つぶあんを熟知しているとは到底思えなかった。
弦は「ちょっと調べてみますね」と断ってスマホに〈つぶあんのつくり方〉と日本語で入力し、検索結果の中からよさそうなものをタップした。
東京にある和菓子店のホームページだった。そのレシピをアントニオに伝えると、「フィー」というような口笛音を出して両手を広げた。大豆と砂糖と塩の配分がかなり違っていたようだった。
「手伝ってもらえるかな?」
アントニオが真剣な表情になったので、もちろん、と大きく頷いてから、ホームページに書かれていることを読み上げた。
アントニオはそれを聞きながら時々画面を確認して、作業を進めた。
「豆をこうやって洗って……」
「それから、こういうふうに煮て……」
「そして、火を止めて10分ほど蒸らす」
「それから、こうやって渋切りをして……」
「次はたっぷりの水でヒタヒタと煮る」
「沸騰したらコトコト煮て、水が減ったら注ぎ足してヒタヒタ煮る……」
「いい感じになってきたら、指の腹で豆を潰して状態を確認する」
「アチッ!」
アントニオの悲鳴が聞こえたと思ったら、すぐに水道水で指を冷やし始めた。
「ごめんなさい。これを先に言えばよかった」
謝ってから続きを読み上げた。
「その時に火傷をしないように気をつける。指を水につけてからマメを潰すとよい」
もう~、というような表情でアントニオに睨まれたが、それは一瞬のことで、すぐに自嘲気味に笑った。
「俺としたことが……」
バツが悪そうだった。なにしろルチオが傍にいるのだ。初歩的なミスが恥ずかしかったに違いない。
弦も決まりが悪かったが、頭を下げて仕切り直しをしてから先を続けた。
「いい感じに煮えたら火を止めて蓋をする」
「30分ほど蒸らすと均一にふっくらとしてくる」
「これで良しと判断出来たら煮汁を捨てる」
「次はあんこを練る工程」
アントニオが新しい鍋を用意したのを見て、弦が続けた。
「水を入れてから砂糖を溶かす」
「半分ほど溶けたら豆を入れて火にかけて練る」
「10分くらい練ると丁度良いくらいに出来上がる」
「それを別の容器に移して粗熱を取る」
「保存する場合はラップをする」
すべての工程が終わってあんが出来上がると、アントニオがスプーンですくって口に入れた。その途端、満足そうな表情になり、別のスプーンですくったあんをルチオに渡すと、彼の表情も一気に緩んだ。OKが出たようだ。たまらなくなって弦もスプーンですくって口に入れたが、思いの外おいしかったので、アントニオに向かって大きく頷いて太鼓判を押した。
あとは成型して焼き上げるだけになった。これはベテランのパン職人であるアントニオが完璧にやり遂げ、焼きたてのものを試食した3人に笑みが浮かんだ。それは日本のものと変わらないあんパンが出来上がった瞬間だった。しかし、それで終わりではなかった。
「これからも手伝ってくれないかな」
「えっ、何をですか?」
あんパン作りに長時間付き合った弦はへとへとになっていて、これ以上何かをするのは無理だった。しかし、彼の依頼は今日のことではなく、これからのことだった。
「日本のパンをレパートリーに加えたいから、ユズルに手伝って欲しいんだ」
今日のように日本語で書かれたレシピを教えて欲しいのだという。
「でも……」
パンの作り方を教えてくださいとは言ったものの、バイト探しを優先しなければならない弦は簡単にイエスとは言えなかった。
「ダメかな?」
アントニオが覗き込むように弦に顔を近づけた。
「そうですね~」
考えるような振りをしてアントニオから視線を外すと、ルチオと目が合った。
「手伝ってもらえると私も嬉しんだけどね」
ルチオの包み込むような笑みが弦を覆った。
「そうですね~」
ルチオから視線を外すと、アントニオと目が合った。
「バイト料を弾むから」
「バイト?」
思わず素っ頓狂な声が出た。単なる手伝いではないことに気づいて驚いたからだ。しかし、それを悟られてはならずとすぐに表情を引き締めた。そして、「少し考えさせてください」と心内を隠すように努めて冷静な声を出したが、「いい返事を待ってるよ」とアントニオとルチオが期待のこもった声を同時に返してきた。
自分の部屋に戻った弦は時差を計算してから、夜まで待って母親に電話をかけた。
「パンの本?」
母親が怪訝そうな声を出した。
「そう。あんパンとかクリームパンとかカレーパンとか、そういうもののレシピや作り方が書いている本を送って欲しいんだ」
「急にどうしたの?」
弦はベーカリーでアルバイトをすることを伝えた。
「どうしてベーカリーで?」
母親は合点がいかないようだったが、「そういうことになったの」とスパッとその話を終わらせた。
「とにかく、日本発祥のパンのつくり方が書かれた本をすぐに送って欲しいんだ。船便じゃなくて航空便で送って」
母親が何か言う前に弦は電話を切った。
10日後、航空便が弦の元に届いた。
箱の中には色々な本が入っていた。『あんパンの作り方』というピンポイントのもの、『日本全国パン巡り』という各地の有名店を紹介するもの、『世界のパン事情』というワールドワイドなもの、それに、『パンの歴史』というアカデミックなものまで入っていた。
弦は早速それらを読み始めた。ブレッドのCDをかけながら読み続けた。付箋紙を貼りながら読み続けた。そして何度も読み返した。それでも飽きることはなかった。それはパンの幅広さと奥深さに魅せられた証だった。
面白い!
3日間読み続けて独り言ちると、躊躇わずにスマホを取った。
すぐに奥さんが出たのでアントニオに代わってもらって用件を告げると、喜ぶ声が返ってきた。
「よろしくお願いします」
スマホを持ったまま頭を下げた。
🍞 🍞 🍞
アルバイト初日から鍛えられた。
日本のパンを作るために手伝って欲しいと言われたから仕事はそれだけだと思っていたが、そうではなかった。パンを作るためのあらゆる工程に携わることを求められたのだ。
それは完全に修行といえるようなもので、まるで本格的なパン職人を育成するかのようにルチオとアントニオに鍛えられた。
仕込み、発酵、形成、焼成という基本工程のみならず、原材料や添加物に関すること、ミキサーやホイロやオーブンなどの調理器具に関すること、更に、色々な栄養素の働きや食品衛生的なものまで教え込まれた。
こんなのが続いたら体が持たない……、
へとへとになって部屋に戻った弦は不満を天井に吐き出してブツブツと文句を言い続けたが、いつものようにひとしきり文句を言ったあとは、日本から送ってもらったパンに関する本を必ず手に取って何度も読み返した。すると、その度にルチオやアントニオの言葉が蘇ってきて、彼らが言うことに対する理解が深まっていった。
一口にパンと言っても奥が深いんだよな~、
弦が独り言ちた時、スマホの呼び出し音が鳴った。
アンドレアだった。
出てこないかという誘いだった。
「これが強力粉で、これがフランスパン専用粉、そしてこれが全粒粉、それから、ライ麦粉にコーンフラワー」
指差しながらルチオの説明が続いた。
「これはパン酵母だよ。こっちが生イーストで、そっちがドライイースト」
その後は専門書のような本を開いて、製法の説明が始まった。
「すべての材料を一度に混ぜてこねる伝統の製パン法が『ストレート法』で、じっくり発酵させるから歯応えのある食感のパンができるんだよ。しかし、発酵時間が3時間近くかかるから、それを短縮するために考え出されたのが『ノータイム法』で、ミキサーを使って早くこねるから発酵時間が30分もかからなくなったんだ。それに、ふっくらとしたパンを焼けるようになった。でも、ストレート法に比べて香りや風味が落ちるのが玉に瑕だけどね。それから、アメリカで開発された製パン法に『中種法』というのがあるんだ。中種と呼ばれる発酵種を作って4時間ほど発酵させるという手間がかかる方法なんだけど、機械を使った大規模な製造に適しているから、多くのパン工場で採用されているんだよ。でも、うちで採用しているのはそれではなく、『冷蔵生地法』という作り方なんだ。冷蔵庫で一晩発酵させる製造法なんだけど、これだと朝の時間を節約できるし、ゆっくり発酵させるから香りや風味がマイルドになって美味しいパンが焼けるんだよ」
ルチオは懇切丁寧に教えてくれたが、頭にまったく入ってこなかった。左の耳から右の耳に抜けていくだけで、どんなに集中しても専門的な解説についていけなかった。
「次は」と言いかけたルチオの口が開いたまま止まった。アントニオが「ちょっと休憩したらどう?」と救いの手を差し伸べてくれたからだ。弦はホッとしたが、それで解放されたわけではなかった。
「試作品が出来上がったから意見を聞かせてくれるかな」
アントニオが指差した先には焼き上がったばかりのパンがパントローリーに乗っていた。それをトングでバスケットに移し替えて、弦の前にある台まで運んできた。
「これは、」
大きく目を見開いた弦に向かってアントニオが笑顔で頷いた。
「そう、あんパンを作ってみたんだ。うまくできているといいんだけどね」
弦は1個手に取って、それを半分に割った。
つぶあんだった。それらしくできているようだったが、口に入れると、ん? という感じになった。余り甘くなかったし、粘りが足りないようだった。
「砂糖が少なかったかな~」
アントニオも気づいたようだった。
「この前食べたあんパンよりはあっさりしすぎているね」
ルチオがダメ出しをした。
「う~ん」
顔を歪めたアントニオがスマホを手に取った。何かを確認しているようだった。
「これに出ているレシピを参考にしたんだけどね」
弦が画面を覗き込むと、『How to make Anpan』という文字が目に入った。ユーチューブだった。ベーカリーエプロンを着けたアメリカ人らしき男性があんパンのつくり方をレクチャーしていた。それらしい雰囲気はあったが顎髭がなんか怪しそうで、本物のパン職人のようには見えなかったし、つぶあんを熟知しているとは到底思えなかった。
弦は「ちょっと調べてみますね」と断ってスマホに〈つぶあんのつくり方〉と日本語で入力し、検索結果の中からよさそうなものをタップした。
東京にある和菓子店のホームページだった。そのレシピをアントニオに伝えると、「フィー」というような口笛音を出して両手を広げた。大豆と砂糖と塩の配分がかなり違っていたようだった。
「手伝ってもらえるかな?」
アントニオが真剣な表情になったので、もちろん、と大きく頷いてから、ホームページに書かれていることを読み上げた。
アントニオはそれを聞きながら時々画面を確認して、作業を進めた。
「豆をこうやって洗って……」
「それから、こういうふうに煮て……」
「そして、火を止めて10分ほど蒸らす」
「それから、こうやって渋切りをして……」
「次はたっぷりの水でヒタヒタと煮る」
「沸騰したらコトコト煮て、水が減ったら注ぎ足してヒタヒタ煮る……」
「いい感じになってきたら、指の腹で豆を潰して状態を確認する」
「アチッ!」
アントニオの悲鳴が聞こえたと思ったら、すぐに水道水で指を冷やし始めた。
「ごめんなさい。これを先に言えばよかった」
謝ってから続きを読み上げた。
「その時に火傷をしないように気をつける。指を水につけてからマメを潰すとよい」
もう~、というような表情でアントニオに睨まれたが、それは一瞬のことで、すぐに自嘲気味に笑った。
「俺としたことが……」
バツが悪そうだった。なにしろルチオが傍にいるのだ。初歩的なミスが恥ずかしかったに違いない。
弦も決まりが悪かったが、頭を下げて仕切り直しをしてから先を続けた。
「いい感じに煮えたら火を止めて蓋をする」
「30分ほど蒸らすと均一にふっくらとしてくる」
「これで良しと判断出来たら煮汁を捨てる」
「次はあんこを練る工程」
アントニオが新しい鍋を用意したのを見て、弦が続けた。
「水を入れてから砂糖を溶かす」
「半分ほど溶けたら豆を入れて火にかけて練る」
「10分くらい練ると丁度良いくらいに出来上がる」
「それを別の容器に移して粗熱を取る」
「保存する場合はラップをする」
すべての工程が終わってあんが出来上がると、アントニオがスプーンですくって口に入れた。その途端、満足そうな表情になり、別のスプーンですくったあんをルチオに渡すと、彼の表情も一気に緩んだ。OKが出たようだ。たまらなくなって弦もスプーンですくって口に入れたが、思いの外おいしかったので、アントニオに向かって大きく頷いて太鼓判を押した。
あとは成型して焼き上げるだけになった。これはベテランのパン職人であるアントニオが完璧にやり遂げ、焼きたてのものを試食した3人に笑みが浮かんだ。それは日本のものと変わらないあんパンが出来上がった瞬間だった。しかし、それで終わりではなかった。
「これからも手伝ってくれないかな」
「えっ、何をですか?」
あんパン作りに長時間付き合った弦はへとへとになっていて、これ以上何かをするのは無理だった。しかし、彼の依頼は今日のことではなく、これからのことだった。
「日本のパンをレパートリーに加えたいから、ユズルに手伝って欲しいんだ」
今日のように日本語で書かれたレシピを教えて欲しいのだという。
「でも……」
パンの作り方を教えてくださいとは言ったものの、バイト探しを優先しなければならない弦は簡単にイエスとは言えなかった。
「ダメかな?」
アントニオが覗き込むように弦に顔を近づけた。
「そうですね~」
考えるような振りをしてアントニオから視線を外すと、ルチオと目が合った。
「手伝ってもらえると私も嬉しんだけどね」
ルチオの包み込むような笑みが弦を覆った。
「そうですね~」
ルチオから視線を外すと、アントニオと目が合った。
「バイト料を弾むから」
「バイト?」
思わず素っ頓狂な声が出た。単なる手伝いではないことに気づいて驚いたからだ。しかし、それを悟られてはならずとすぐに表情を引き締めた。そして、「少し考えさせてください」と心内を隠すように努めて冷静な声を出したが、「いい返事を待ってるよ」とアントニオとルチオが期待のこもった声を同時に返してきた。
自分の部屋に戻った弦は時差を計算してから、夜まで待って母親に電話をかけた。
「パンの本?」
母親が怪訝そうな声を出した。
「そう。あんパンとかクリームパンとかカレーパンとか、そういうもののレシピや作り方が書いている本を送って欲しいんだ」
「急にどうしたの?」
弦はベーカリーでアルバイトをすることを伝えた。
「どうしてベーカリーで?」
母親は合点がいかないようだったが、「そういうことになったの」とスパッとその話を終わらせた。
「とにかく、日本発祥のパンのつくり方が書かれた本をすぐに送って欲しいんだ。船便じゃなくて航空便で送って」
母親が何か言う前に弦は電話を切った。
10日後、航空便が弦の元に届いた。
箱の中には色々な本が入っていた。『あんパンの作り方』というピンポイントのもの、『日本全国パン巡り』という各地の有名店を紹介するもの、『世界のパン事情』というワールドワイドなもの、それに、『パンの歴史』というアカデミックなものまで入っていた。
弦は早速それらを読み始めた。ブレッドのCDをかけながら読み続けた。付箋紙を貼りながら読み続けた。そして何度も読み返した。それでも飽きることはなかった。それはパンの幅広さと奥深さに魅せられた証だった。
面白い!
3日間読み続けて独り言ちると、躊躇わずにスマホを取った。
すぐに奥さんが出たのでアントニオに代わってもらって用件を告げると、喜ぶ声が返ってきた。
「よろしくお願いします」
スマホを持ったまま頭を下げた。
🍞 🍞 🍞
アルバイト初日から鍛えられた。
日本のパンを作るために手伝って欲しいと言われたから仕事はそれだけだと思っていたが、そうではなかった。パンを作るためのあらゆる工程に携わることを求められたのだ。
それは完全に修行といえるようなもので、まるで本格的なパン職人を育成するかのようにルチオとアントニオに鍛えられた。
仕込み、発酵、形成、焼成という基本工程のみならず、原材料や添加物に関すること、ミキサーやホイロやオーブンなどの調理器具に関すること、更に、色々な栄養素の働きや食品衛生的なものまで教え込まれた。
こんなのが続いたら体が持たない……、
へとへとになって部屋に戻った弦は不満を天井に吐き出してブツブツと文句を言い続けたが、いつものようにひとしきり文句を言ったあとは、日本から送ってもらったパンに関する本を必ず手に取って何度も読み返した。すると、その度にルチオやアントニオの言葉が蘇ってきて、彼らが言うことに対する理解が深まっていった。
一口にパンと言っても奥が深いんだよな~、
弦が独り言ちた時、スマホの呼び出し音が鳴った。
アンドレアだった。
出てこないかという誘いだった。
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