24 / 34
フィレンツェ(3)
しおりを挟むフローラから指定された店に早めに到着した弦は、「お待ちしておりました」と迎えてくれた店の人を見て驚いた。日本人だったからだ。5年前からこの地で営業しているという。しかし、笑みを浮かべていたのはそこまでだった。
「大震災の影響はどうですか?」
心配が声だけでなく顔にも出ていた。
「家を失った人がたくさんいて、まだまだ大変です」
「そうですよね。こちらでも津波の映像が何度も流されていました。それを見る度に心が痛くなって。それに福島が」
言いかけて急に口を閉じた。そして、「ごめんなさいね。こんな話をするつもりではなかったのですが、日本人の顔を見るとつい」と目を伏せた。
「いえ、ありがとうございます。ご心配頂いていることに感謝します」
頭を少し下げた時、ドアが開く音が聞こえた。
顔を向けると、フローラとウェスタが笑みを浮かべて中に入ってきた。その瞬間、沈鬱な空気に支配されていた店内が一気に華やかになったような気がした。それに、お揃いのワンピースが似合って目が離せなくなった。膝からまっすぐに伸びた生足が眩しかった。
「お待ちしておりました」
オーナーが日本語で迎えると、フローラも日本語で返した。
「今日はゲストをご招待していますので、とびきりの料理をお願いします」
その声と発音に魅入られて見つめてしまったが、それを引きはがすかのようにウェスタがドリンクメニューを弦に向けた。
「乾杯をしましょ。私たちはフランチャコルタにするけど、ユズル君はどうする?」
まさかアルコールは飲まないわよね、という口調だったので少しムッとして見つめ返すと、「未成年だしね」とフローラも追随したのでムキになってしまった。
「19歳だからイタリアではお酒を飲めるんですよね」
「でも、日本では20歳未満は飲めないでしょう」
すぐにフローラに釘を刺された。
「そうですけど」
頬を膨らませかけたが、ハッと気づいてすぐに引っ込めた。膨れていたらもっと幼く見えてしまうからだ。
「そうですね。ノンアルコールビールにします」
無理矢理爽やかな声を出して向き合うと、フローラはただ頷いただけだったが、ウェスタは笑いを堪え切れないというように肩を揺らした。
🥂 🥂 🥂
「乾杯!」
ウェスタの発声でグラスを合わせた。
「貴重な経験をさせていただいてありがとうございました」
改めてお礼を述べると、どういたしまして、というように笑みを浮かべたウェスタだったが、「ところで、明日の朝、店に寄ってくれる? 渡したいものがあるから」と意外なことを口にしたので、そのことを訊こうとした時、前菜が運ばれてきて話題が変わってしまった。
「トリッパのサラダをお楽しみください」
牛の胃袋を玉ねぎなどと和えてヴィネガーで味付けしたものだとシェフが説明すると、もう待てないという感じで二人がフォークを手に取った。
「あっさりとした酸味でとても美味しいわ」
「本当。サラダで食べるトリッパも最高」
フローラが幸せいっぱいという表情になってグラスを口に運ぶと、その中に無数の泡が消えていった。
その泡が羨ましかった。泡になりたいと真剣に思った。しかし、それは長続きせず、次の皿が運ばれてきて終止符を打った。
「牛の骨髄のオーブン焼きをお楽しみください」
オーナーの声で弦の視線がフローラの口元から離れたのと同時にウェスタが皿に添えられたブリオッシュ(ふんわりとした触感の甘い発酵パン)を手に取り、それに骨髄を乗せて口に運んだ。
「う~ん、最高」
これ以上はないというような笑みを浮かべた。
「もう言うことないわ」
フローラも幸せいっぱいというように頬を緩めて、「甘めのブリオッシュとの組み合わせが最高ね」とウェスタに笑みを投げた。
自分のことはもう眼中にないかのようだった。
仕方なく二人の真似をして口に入れたが、その瞬間、未経験の口福に襲われた。
「なんだこれは」
思わず声が出ていた。今まで食べたことのない美味しさだった。
その後も次々に美味しい料理が運ばれてきて舌鼓を打った。
アーティチョークを卵で包んで焼いたもの。タリアータと呼ばれるグリルした牛ロース肉を薄切りにしてルッコラと合わせたもの。シュリンプのカレーリゾット。そして、生クリームをモッツァレラチーズで包んだパスタ。
「一つ一つの量が少ないから色々な料理が楽しめるのよね」
「そう、女性に対する気配りが半端なくて最高なの」
デザートのジェラート風トマトゼリーをスプーンですくいながら、たまらないというような表情で二人が見つめ合った。
食事が終わると、ウェスタがバッグからカードを差し出した。
受け取って見てみると、Forno de` Mediciの住所と電話番号とメールアドレスが記載されていた。
「いつでも連絡してね」
そして、もしアドバイスできることがあればどんなことでも協力するからと支援を口にしてくれた。
「本当にありがとうございました。厨房に入らせていただいた上にこんなにも美味しい料理をご馳走になって」
そこでグッと来た。お礼を最後まで言えなかった。次いつ会えるかわからない状態で別れるのは辛すぎることだった。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかないので、「本当にありがとうございました」と同じ言葉を繰り返して、深く頭を下げた。
🍞 🍞 🍞
翌日の昼前、弦はクレモナ行きの電車に乗っていた。
膝の上には大きな紙袋があり、中にはウェスタが作ったパンが入っていた。
チャバッタ、フォカッチャ、グリッシーニ、そして、パニーノ。
パニーノは何種類もあった。アーティチョークとアンチョビを挟んだもの。薄切りの豚肉ソーセージを挟んだもの、トリッパとミニトマトと玉ねぎとイタリアンパセリを挟んだもの、それに、トリュフクリームとフォアグラを挟んだものやキャビアを挟んだものまであった。
朝早くから作ってくれた特別なプレゼントだと思うと泣きそうになり、勿体なくて食べられなくなった。紙袋に向かって何度も頭を下げた。
それからしばらくの間紙袋を見つめていたが、溢れる想いを抑えられなくなって名前を呟いた。何度も呟いた。しかしそれは、パンを作ってくれた人のものではなかった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる