🍞 ブレッド 🍞 ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~

光り輝く未来

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フィレンツェ(3)

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 フローラから指定された店に早めに到着した弦は、「お待ちしておりました」と迎えてくれた店の人を見て驚いた。日本人だったからだ。5年前からこの地で営業しているという。しかし、笑みを浮かべていたのはそこまでだった。
「大震災の影響はどうですか?」
 心配が声だけでなく顔にも出ていた。
「家を失った人がたくさんいて、まだまだ大変です」
「そうですよね。こちらでも津波の映像が何度も流されていました。それを見る度に心が痛くなって。それに福島が」
 言いかけて急に口を閉じた。そして、「ごめんなさいね。こんな話をするつもりではなかったのですが、日本人の顔を見るとつい」と目を伏せた。
「いえ、ありがとうございます。ご心配頂いていることに感謝します」
 頭を少し下げた時、ドアが開く音が聞こえた。
 顔を向けると、フローラとウェスタが笑みを浮かべて中に入ってきた。その瞬間、沈鬱な空気に支配されていた店内が一気に華やかになったような気がした。それに、お揃いのワンピースが似合って目が離せなくなった。膝からまっすぐに伸びた生足が眩しかった。
「お待ちしておりました」
 オーナーが日本語で迎えると、フローラも日本語で返した。
「今日はゲストをご招待していますので、とびきりの料理をお願いします」
 その声と発音に魅入られて見つめてしまったが、それを引きはがすかのようにウェスタがドリンクメニューを弦に向けた。
「乾杯をしましょ。私たちはフランチャコルタにするけど、ユズル君はどうする?」
 まさかアルコールは飲まないわよね、という口調だったので少しムッとして見つめ返すと、「未成年だしね」とフローラも追随したのでムキになってしまった。
「19歳だからイタリアではお酒を飲めるんですよね」
「でも、日本では20歳未満は飲めないでしょう」
 すぐにフローラに釘を刺された。
「そうですけど」
 頬を膨らませかけたが、ハッと気づいてすぐに引っ込めた。膨れていたらもっと幼く見えてしまうからだ。
「そうですね。ノンアルコールビールにします」
 無理矢理爽やかな声を出して向き合うと、フローラはただ頷いただけだったが、ウェスタは笑いを堪え切れないというように肩を揺らした。

 🥂  🥂  🥂

「乾杯!」
 ウェスタの発声でグラスを合わせた。
「貴重な経験をさせていただいてありがとうございました」
 改めてお礼を述べると、どういたしまして、というように笑みを浮かべたウェスタだったが、「ところで、明日の朝、店に寄ってくれる? 渡したいものがあるから」と意外なことを口にしたので、そのことを訊こうとした時、前菜が運ばれてきて話題が変わってしまった。
「トリッパのサラダをお楽しみください」
 牛の胃袋を玉ねぎなどと和えてヴィネガーで味付けしたものだとシェフが説明すると、もう待てないという感じで二人がフォークを手に取った。
「あっさりとした酸味でとても美味しいわ」
「本当。サラダで食べるトリッパも最高」
 フローラが幸せいっぱいという表情になってグラスを口に運ぶと、その中に無数の泡が消えていった。
 その泡が羨ましかった。泡になりたいと真剣に思った。しかし、それは長続きせず、次の皿が運ばれてきて終止符を打った。
「牛の骨髄のオーブン焼きをお楽しみください」
 オーナーの声で弦の視線がフローラの口元から離れたのと同時にウェスタが皿に添えられたブリオッシュ(ふんわりとした触感の甘い発酵パン)を手に取り、それに骨髄を乗せて口に運んだ。
「う~ん、最高」
 これ以上はないというような笑みを浮かべた。
「もう言うことないわ」
 フローラも幸せいっぱいというように頬を緩めて、「甘めのブリオッシュとの組み合わせが最高ね」とウェスタに笑みを投げた。
 自分のことはもう眼中にないかのようだった。
 仕方なく二人の真似をして口に入れたが、その瞬間、未経験の口福に襲われた。
「なんだこれは」
 思わず声が出ていた。今まで食べたことのない美味しさだった。

 その後も次々に美味しい料理が運ばれてきて舌鼓を打った。
 アーティチョークを卵で包んで焼いたもの。タリアータと呼ばれるグリルした牛ロース肉を薄切りにしてルッコラと合わせたもの。シュリンプのカレーリゾット。そして、生クリームをモッツァレラチーズで包んだパスタ。
「一つ一つの量が少ないから色々な料理が楽しめるのよね」
「そう、女性に対する気配りが半端なくて最高なの」
 デザートのジェラート風トマトゼリーをスプーンですくいながら、たまらないというような表情で二人が見つめ合った。

 食事が終わると、ウェスタがバッグからカードを差し出した。
 受け取って見てみると、Forno de` Mediciの住所と電話番号とメールアドレスが記載されていた。
「いつでも連絡してね」
 そして、もしアドバイスできることがあればどんなことでも協力するからと支援を口にしてくれた。
「本当にありがとうございました。厨房に入らせていただいた上にこんなにも美味しい料理をご馳走になって」
 そこでグッと来た。お礼を最後まで言えなかった。次いつ会えるかわからない状態で別れるのは辛すぎることだった。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかないので、「本当にありがとうございました」と同じ言葉を繰り返して、深く頭を下げた。

 🍞  🍞  🍞

 翌日の昼前、弦はクレモナ行きの電車に乗っていた。
 膝の上には大きな紙袋があり、中にはウェスタが作ったパンが入っていた。
 チャバッタ、フォカッチャ、グリッシーニ、そして、パニーノ。
 パニーノは何種類もあった。アーティチョークとアンチョビを挟んだもの。薄切りの豚肉ソーセージを挟んだもの、トリッパとミニトマトと玉ねぎとイタリアンパセリを挟んだもの、それに、トリュフクリームとフォアグラを挟んだものやキャビアを挟んだものまであった。
 朝早くから作ってくれた特別なプレゼントだと思うと泣きそうになり、勿体なくて食べられなくなった。紙袋に向かって何度も頭を下げた。
 それからしばらくの間紙袋を見つめていたが、溢れる想いを抑えられなくなって名前を呟いた。何度も呟いた。しかしそれは、パンを作ってくれた人のものではなかった。

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