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ニューヨーク(1)
しおりを挟む6日間のヴァケーションを終えて、弦はルチオとアンドレアと共にニューヨークに帰ってきた。
その翌日、アントニオ夫妻も戻ってきたが、ルチオやアンドレアと同様、赤く日焼けしていた。強い紫外線に当たると日本人は真っ黒になるが、メラニン色素が少ない白人は真っ赤になるようだった。
アフリカはさすがに暑かったと言いながらも、二人は嬉々として土産話を披露した。現地のベーカリーへ行って山ほどのパンを買い込んでホテルで食べたという。それに、エジプトではエイシの作り方を実際に見学させてもらったらしい。そら豆のコロッケと揚げ茄子とルッコラを挟んだ出来立てのものを食べた時には余りの美味しさに感動したという。
その後も二人はタブレットに収めた数々の写真を指差して現地で体験したことを披露し続け、それは夜遅くまで続いた。
しかしその翌日、事態は急変していた。未明にアントニオが突然頭痛を訴えて、嘔吐を繰り返し、朦朧とした様子になったという。
救急車で運ばれると、すぐにCT検査などを受け、くも膜下出血の疑いと共に脳動脈瘤破裂の危険もあると告げられた。それは一刻の猶予もない状態と判断され、緊急の開頭手術が行われた。動脈瘤の根元を医療用のクリップで留めて血流を遮断するという大変な手術だったらしい。
手術は無事成功して一命は取り止めたが、運動麻痺や感覚麻痺、嚥下障害などの後遺症が出る可能性と共に構音障害や失語症の心配もあると告げられた。しかも、回復に向けてのリハビリテーションは長期間必要で、退院できるのは早くて1か月後、回復が遅ければ3か月後ということもあるのだという。
ルチオに頼まれて原材料や仕掛品の始末などをするためにベーカリーに急行した弦は、すべての作業を終えると、シャッターに臨時休業の張り紙をし、病院に急いだ。
院内に入ると、そこには目を真っ赤にした奥さんと沈痛な表情を浮かべているルチオとアンドレアがいた。アントニオは救急治療室で点滴に繋がれて酸素マスクを付けられているという。
「大丈夫ですよ。絶対大丈夫ですから」
長椅子に座っている奥さんの手を取ってしっかりするように励ますと、うんうんというように何度も頷いたが、声はまったく出てこなかった。その右隣に座るルチオは両手を組んでそれを前後に細かく動かしていて、「神様」という言葉が口から漏れると、十字を切って頭を垂れた。
しばらくして顔を上げたルチオから「死ななくてよかった……」という安堵の声が漏れたが、それまで必死になって堪えていたであろう目から涙が零れた。それを見た途端、弦も耐えられなくなり、奥さんの手を握ったまま2本の筋が口まで流れ落ちた。
「でも、もう一度パンを作れるかどうか……」
奥さんが苦悶の声を出した。運動麻痺や感覚麻痺がパン職人にとって致命傷になることは明らかで、その深刻さは弦にも容易に想像できた。
「もう無理かもしれない……」
奥さんがアンドレアの肩に顔を付けて嗚咽を漏らすと、「大丈夫だよ。絶対大丈夫」と目を赤くしたアンドレアが肩を擦りながら自らに言い聞かすように呟いたが、それが楽観的なものであることは彼自身もわかっているようで、それからあとはどんな言葉も出てこなかった。
🌙 🌙 🌙
「店を畳まなきゃいけないかもしれない……」
奥さんとアンドレアを病院に残して店に帰る途中、ルチオが寂しそうな声を出した。
「そんなこと言わないでください。アントニオさんは必ず復活しますから」
きっぱりと否定したが、「ありがとう。私もそう信じているけど、でもね」と声を落とした。入院している間はもちろんのこと、退院してからも自宅療養が続くので、かなりの期間営業ができなくなることがわかっているからだ。
「自分が代わりを務めることは難しいからね」
皺が目立つ両手を見つめてルチオがため息をついた。しかし、それを放っておくはできなかった。
「僕がやります」
代わりができるわけはなかったが、そう言わずにはいられなかった。しかしルチオは、「ありがとう。でも、ユズルには大学受験がある。ハーバードに行くようになったらニューヨークを離れなければならない。気持ちは嬉しいけど、どうしようもないんだよ」と首を何度も振ったあと、歩き出した。
弦はすぐにあとを追おうとしたが、足が動かなかった。肩を落とした後姿が余りにも悲しそうだったからだ。
ルチオさん……、
呟きがルチオを追いかけようとしたが、その背中に届く前に深夜の静寂が包み込んで、跡かたもなく消してしまった。
📞 📞 📞
丸一日自問自答したのち、弦は意を決して日本にいる父親に電話をかけた。
「受験を止める? 何を言ってるんだ」
ただならぬ声が弦の耳を襲った。
「すぐに帰ってこい!」
物凄い剣幕だった。一瞬スマホを耳から離さなければならないほどだった。
「無理だよ」
アルバイト先が大変なことになっていることを必死になって説明したが、理解はしてもらえなかった。
「つべこべ言わずに早く帰ってこい!」
それだけ言うと、電話を切られた。
予想した通りの展開だったが、それでもかなり動揺してしまった。父親になんと言われても自らの意志を貫くつもりでいたのに、強い口調で反対されると平気ではいられなくなった。最悪のケースが頭に浮かんできたからだ。それを考えると体が震え始め、それは夢の中まで続いた。親子の縁を切られる夢で、うなされて何度も目が覚めては背筋に冷たいものが走った。パン職人として自立できる自信はまだなかったし、このニューヨークで生き抜いていけるほどの強さを持ち合わせているとは言えないからだ。しかし、ベーカリーを見捨てるわけにはいかない。ルチオ一家を見捨てるわけにはいかないのだ。彼らに対して「受験があるので辞めます」とは口が裂けても言えなかった。
朝になっても恐怖は居残っていたが、強く首を振って父親の言葉を頭から消し、重い体を引きずりながら部屋を出て店に向かった。
シャッターは閉まったままで、臨時休業の張り紙もそのままだった。賑やかだった店の面影はなく、どんよりと重たい空気に包まれているように感じた。
店横の階段を上がって玄関の前に立ち、チャイムを押した。しかし、反応はなかった。もう一度押してしばらく待ったが、ドアが開く気配はなかった。
病院に行ったのかもしれないと思って階段を下り始めると、ドアが開く音が聞こえた。見上げると、ルチオが顔を出していた。しかし、かなりやつれて見えた。眠っていないような疲れた顔だった。
家の中に奥さんとアンドレアはいなかった。救急治療室には入れないが、近くで見守るために院内に詰めているのだという。
「ルチオさんも少し休んだ方がいいですよ」
しかし、彼は力なく首を振った。
「横になっても眠れないんだ」
アントニオのことが心配でたまらないと言った。
「何か食べましたか?」
ルチオはまた首を振った。水以外何も口にしていないという。
「何か作りますね」
台所へ行って冷蔵庫を開けると、食材はいっぱい入っていた。棚には日本製の調味料も揃っていた。しかし、食欲のないルチオに何を食べさせればいいかわからなかった。牛乳を温めることを考えたが、それでは一時しか腹に溜まらないので、他にないかと考えると、卵に目がいった。その途端、メニューが決まった。
パックから卵を3個取り出してボウルに割って入れ、箸でしっかり溶いた。そこに麺つゆとみりんを入れて更にかき混ぜた。それから小さなフライパンを火にかけると共に油をひき、卵液を流し込んだ。そして、半熟になった頃合いで手前に巻いたあと奥にずらして、空いたスペースにまた卵液を流し込み、巻いた卵を持ち上げてその下に更に卵液を流し込んで手前に巻いた。それをもう一度繰り返して焼き上がるのを待った。形は歪だったが、ふっくらと焼き上がったので、それを皿に移して小さなナイフで切り分けてから、ルチオの元に運んだ。
「これはなんだい?」
見たこともないせいか、不思議そうな表情を浮かべていた。
「だし巻き玉子です」
「Japanese Omelete?」
また不思議そうに黄色い塊を見つめたので、「ふわっとしてて美味しいですよ」と促すと、ルチオが口に入れた。すると、嚙んだ途端、表情が変わって、笑みが浮かんだ。
「柔らかくて、ふわっとしてて、ジュワッとしてて」
それ以上何かを言うのがもどかしいように、もう一つ口に入れた。
「これならいくつでも食べられそうだね」
そう言って次々に口に入れた。
「もっと作りましょうか」
しかし、ルチオは右手を立てて横に振った。もう十分という感じだったので、ミネラルウォーターを取りに行ってグラスに注いで渡すと、ゴクゴクと何口か飲んだ。
「こんなおいしいもの、どこで覚えたんだい?」
弦の意外な才能に感心しているようだった。
「ニューヨークに来る前に母親から教わりました」
日本ではきちんと出汁を取って作ることを説明した。
「お母さんは料理上手なんだろうね」
弦は思い切り頷いた。
「母が作る料理はどれも美味しいです」
胸を張ると、笑みを返してきたが、それがさっきまでのやつれた感じではなかったので本題を切り出した。
「ところで、バイトではなくフルタイムで働きます。そしてパン職人になります」
すると、ルチオの表情が一変した。
「それはダメだ。ユズルはハーバードへ行かなければならない。そして会社を継がなければならない。こんなところで寄り道をしてはいけない」
「でも」
「でも、じゃない。自分の将来を大事にしなさい」
ルチオはまったく聞く気がないようだった。それでも弦は一歩も引かなかった。
「もう決めたことなんです」
しかし、ルチオが同意することはなかった。
「絶対に駄目だ。弦の将来を潰すわけにはいかない。それに、日本の両親からユズルを奪うわけにはいかない」
断固とした口調だった。それでも言い返そうとすると、ルチオは手で制して、「疲れたから休みたい」と背を向けて、部屋から出て行った。
喜んでくれると思ったのに……、
全身から力が抜けてしまった弦は帰り道をとぼとぼと歩くしかなかった。すれ違う若い女性たちから華やかな笑い声が聞こえてきたが、それが自分の住む世界のものだとはまったく思えなかった。
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