21 / 22
四
4
しおりを挟む
兄も栄も、両親との折り合いは良くなかった。
父は、自分の思い通りにいかないと気が済まない質で、だから栄が生まれたという経緯がある。
栄にとって義母にあたる兄の母は、三味線宗家の竹河家当主の正妻であるがそもそも、兄が譜を少しでも間違える度に、商売道具となる手を撥で叩いてしまうような人だった。
それが、普通の光景。
栄は栄で特別上手かったわけでもないから、分派争いに使うことが出来ない息子として扱われていた。つまりは兄も栄も竹河宗家からすれば「出来損ない」だったのだ。
恐らく兄の方がまともな感性があったから、幼いうちに自ら役者宗家に弟子入りし家を出たのだろう。
幼い頃は彼が自由で奔放に見えていたけれど、家を捨てても歌舞伎の業界に居座り成功をしたのは…勿論、幼い頃から陰間修業もしたはずだ。苦労はしてきた人で。
今思えば、見せつけたかったのかもしれない。
自分は……そう、父も母も、例え幸が三日も家に帰らなくても何もなかった、どうでもよかったのだろう。
それに箔をつけたのは、どんな形であろうと兄だった。
…あれから、あの人は自分のように、どこかで心が折れたことはないのだろうか。
だとしたら、少し怖い。その状態を保ったままで今こうしているのなら…いつか折れてまたどこかへ行ってしまいそうな危うさがある。今、たまたま成功しているだけだ。
成功し続ける人間なんて存在しているのだろうか。役者や三味線や太夫だって引退はする、それは“歳故にもう体が動かない”だとか、そういう挫折に近い感覚があるからで…。
…二度は自分を捨てている……のか、あの人。
それはそれでどうにも寂しいのか…と、祝いを終えいつも通り寝ている露の寝顔を見て、現実に引き戻った。
それなら自分も寂しい男なのか、とは思いたくはないし、思えない。
質屋の職人だって…仕事ぶりしか窺えないが潤っているように感じる。自分の何かを見つけ人生を歩んでいるのだと思う、それは周りから見たら恐らく自由奔放だ。
…あの人。
難癖を付け祝い事の日に現れたが、もしかすると見たくなかったのかもしれない。
傍で眠る露の頭をすっと撫でる。
苦労を知らないわけでも、どうしようもない大人を見ていないわけでもない…。こんなに幼くても、だから良い子にすくすくと逞しく生きてきたのだとして、それも大人の責任だ。
露の先に三味線が見える。
どうして自分は未だにこの三味線を捨てず、定期的に修理までしているのか。どうでもいいと、木屑にすることも出来るはずで、別にそれでもいいと思っているはずなのに。
こんなにも今は幸せである。
本当にただそれだけで充分だから、余分なものはいらない。
そこが兄との違いなのかもしれない。
露と住み始めた頃。
かつて兄は“扇一郎”という拝命を受けただけある。扇子を胸元で広げ堂々と現れた姿も、様になっていた。
自分の置かれた状況をまだ掴めず、怯えて隅っこにいた露を見るなり兄は「あぁ、それか」と言いながらふと三味線を見、「客に茶もないもんかね」とぼやいた。
「立派な家じゃないか、お前、落ちて死んだと思っていたが」
嫌味ったらしいなと、「残念ながら」と返したと思う。
「残念ながらだって?子供をこさえておいてか」
「…先日、」
「あぁ、石川新分派の石橋…落ち目な役者だろ?ここに来たのは間違いないらしいな。根性もないわりに、上方へ逃げたらしいけど」
「子供の前で親のことなど」
「お前に言う資格はないだろ?残念ながら」
「………陰険さは変わらないものですね。
なんです?では貴方はこの子を取り返しにでも」
「そうだな、お前がその気なら…それの父親は愚かにも小屋に借金を置いていき、お前には子供を置いていったわけだが…質の悪い長脇差に金を借りたらしくてな」
露が私を見あげたのでポンポンと背をさする。
「売っちまった方が楽だからと、そいつに言われているところだ」
「こんなに幼い子を引き取る賭博なんて嘘臭い話」
「ウチにガキが居んの、知ってんだろ?
金は貰うものだというお考えの末、そろそろこの辺にいられなくなったようで、ご意向に沿いガキと引替えに金を持たせて茶屋へ引き渡したよ」
「あそこの店主、そうだったんですか。貴方、相変わらずの人でなしですね」
「そうか?小さい息子を質屋に連れてくる方がどうかしてると思うが。ご近所付き合いも大切だし」
わからない。
「それで、どうして私の所に?売れる物などないでしょう」
「さぁ?選択肢を与えに来たんだが。お前もそれほど裕福じゃないだろ?」
きちんと座って俯く露を見て、言葉は出ない。
話がわからないというだけだとは思うが、怯えて見えるのはあくまで、私が大人だからかもしれない。
そんな露と私を見た兄は面白そうに「おい、そこのガキ」と大きな声を出した。露はそれにビクッとする。
「俺はそいつの妻を寝取った男だ。どうだ?そいつより甲斐性はあるぞ?」
その一言に、私はなんと返したか………。
父は、自分の思い通りにいかないと気が済まない質で、だから栄が生まれたという経緯がある。
栄にとって義母にあたる兄の母は、三味線宗家の竹河家当主の正妻であるがそもそも、兄が譜を少しでも間違える度に、商売道具となる手を撥で叩いてしまうような人だった。
それが、普通の光景。
栄は栄で特別上手かったわけでもないから、分派争いに使うことが出来ない息子として扱われていた。つまりは兄も栄も竹河宗家からすれば「出来損ない」だったのだ。
恐らく兄の方がまともな感性があったから、幼いうちに自ら役者宗家に弟子入りし家を出たのだろう。
幼い頃は彼が自由で奔放に見えていたけれど、家を捨てても歌舞伎の業界に居座り成功をしたのは…勿論、幼い頃から陰間修業もしたはずだ。苦労はしてきた人で。
今思えば、見せつけたかったのかもしれない。
自分は……そう、父も母も、例え幸が三日も家に帰らなくても何もなかった、どうでもよかったのだろう。
それに箔をつけたのは、どんな形であろうと兄だった。
…あれから、あの人は自分のように、どこかで心が折れたことはないのだろうか。
だとしたら、少し怖い。その状態を保ったままで今こうしているのなら…いつか折れてまたどこかへ行ってしまいそうな危うさがある。今、たまたま成功しているだけだ。
成功し続ける人間なんて存在しているのだろうか。役者や三味線や太夫だって引退はする、それは“歳故にもう体が動かない”だとか、そういう挫折に近い感覚があるからで…。
…二度は自分を捨てている……のか、あの人。
それはそれでどうにも寂しいのか…と、祝いを終えいつも通り寝ている露の寝顔を見て、現実に引き戻った。
それなら自分も寂しい男なのか、とは思いたくはないし、思えない。
質屋の職人だって…仕事ぶりしか窺えないが潤っているように感じる。自分の何かを見つけ人生を歩んでいるのだと思う、それは周りから見たら恐らく自由奔放だ。
…あの人。
難癖を付け祝い事の日に現れたが、もしかすると見たくなかったのかもしれない。
傍で眠る露の頭をすっと撫でる。
苦労を知らないわけでも、どうしようもない大人を見ていないわけでもない…。こんなに幼くても、だから良い子にすくすくと逞しく生きてきたのだとして、それも大人の責任だ。
露の先に三味線が見える。
どうして自分は未だにこの三味線を捨てず、定期的に修理までしているのか。どうでもいいと、木屑にすることも出来るはずで、別にそれでもいいと思っているはずなのに。
こんなにも今は幸せである。
本当にただそれだけで充分だから、余分なものはいらない。
そこが兄との違いなのかもしれない。
露と住み始めた頃。
かつて兄は“扇一郎”という拝命を受けただけある。扇子を胸元で広げ堂々と現れた姿も、様になっていた。
自分の置かれた状況をまだ掴めず、怯えて隅っこにいた露を見るなり兄は「あぁ、それか」と言いながらふと三味線を見、「客に茶もないもんかね」とぼやいた。
「立派な家じゃないか、お前、落ちて死んだと思っていたが」
嫌味ったらしいなと、「残念ながら」と返したと思う。
「残念ながらだって?子供をこさえておいてか」
「…先日、」
「あぁ、石川新分派の石橋…落ち目な役者だろ?ここに来たのは間違いないらしいな。根性もないわりに、上方へ逃げたらしいけど」
「子供の前で親のことなど」
「お前に言う資格はないだろ?残念ながら」
「………陰険さは変わらないものですね。
なんです?では貴方はこの子を取り返しにでも」
「そうだな、お前がその気なら…それの父親は愚かにも小屋に借金を置いていき、お前には子供を置いていったわけだが…質の悪い長脇差に金を借りたらしくてな」
露が私を見あげたのでポンポンと背をさする。
「売っちまった方が楽だからと、そいつに言われているところだ」
「こんなに幼い子を引き取る賭博なんて嘘臭い話」
「ウチにガキが居んの、知ってんだろ?
金は貰うものだというお考えの末、そろそろこの辺にいられなくなったようで、ご意向に沿いガキと引替えに金を持たせて茶屋へ引き渡したよ」
「あそこの店主、そうだったんですか。貴方、相変わらずの人でなしですね」
「そうか?小さい息子を質屋に連れてくる方がどうかしてると思うが。ご近所付き合いも大切だし」
わからない。
「それで、どうして私の所に?売れる物などないでしょう」
「さぁ?選択肢を与えに来たんだが。お前もそれほど裕福じゃないだろ?」
きちんと座って俯く露を見て、言葉は出ない。
話がわからないというだけだとは思うが、怯えて見えるのはあくまで、私が大人だからかもしれない。
そんな露と私を見た兄は面白そうに「おい、そこのガキ」と大きな声を出した。露はそれにビクッとする。
「俺はそいつの妻を寝取った男だ。どうだ?そいつより甲斐性はあるぞ?」
その一言に、私はなんと返したか………。
0
あなたにおすすめの小説
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる