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四
4
兄も栄も、両親との折り合いは良くなかった。
父は、自分の思い通りにいかないと気が済まない質で、だから栄が生まれたという経緯がある。
栄にとって義母にあたる兄の母は、三味線宗家の竹河家当主の正妻であるがそもそも、兄が譜を少しでも間違える度に、商売道具となる手を撥で叩いてしまうような人だった。
それが、普通の光景。
栄は栄で特別上手かったわけでもないから、分派争いに使うことが出来ない息子として扱われていた。つまりは兄も栄も竹河宗家からすれば「出来損ない」だったのだ。
恐らく兄の方がまともな感性があったから、幼いうちに自ら役者宗家に弟子入りし家を出たのだろう。
幼い頃は彼が自由で奔放に見えていたけれど、家を捨てても歌舞伎の業界に居座り成功をしたのは…勿論、幼い頃から陰間修業もしたはずだ。苦労はしてきた人で。
今思えば、見せつけたかったのかもしれない。
自分は……そう、父も母も、例え幸が三日も家に帰らなくても何もなかった、どうでもよかったのだろう。
それに箔をつけたのは、どんな形であろうと兄だった。
…あれから、あの人は自分のように、どこかで心が折れたことはないのだろうか。
だとしたら、少し怖い。その状態を保ったままで今こうしているのなら…いつか折れてまたどこかへ行ってしまいそうな危うさがある。今、たまたま成功しているだけだ。
成功し続ける人間なんて存在しているのだろうか。役者や三味線や太夫だって引退はする、それは“歳故にもう体が動かない”だとか、そういう挫折に近い感覚があるからで…。
…二度は自分を捨てている……のか、あの人。
それはそれでどうにも寂しいのか…と、祝いを終えいつも通り寝ている露の寝顔を見て、現実に引き戻った。
それなら自分も寂しい男なのか、とは思いたくはないし、思えない。
質屋の職人だって…仕事ぶりしか窺えないが潤っているように感じる。自分の何かを見つけ人生を歩んでいるのだと思う、それは周りから見たら恐らく自由奔放だ。
…あの人。
難癖を付け祝い事の日に現れたが、もしかすると見たくなかったのかもしれない。
傍で眠る露の頭をすっと撫でる。
苦労を知らないわけでも、どうしようもない大人を見ていないわけでもない…。こんなに幼くても、だから良い子にすくすくと逞しく生きてきたのだとして、それも大人の責任だ。
露の先に三味線が見える。
どうして自分は未だにこの三味線を捨てず、定期的に修理までしているのか。どうでもいいと、木屑にすることも出来るはずで、別にそれでもいいと思っているはずなのに。
こんなにも今は幸せである。
本当にただそれだけで充分だから、余分なものはいらない。
そこが兄との違いなのかもしれない。
露と住み始めた頃。
かつて兄は“扇一郎”という拝命を受けただけある。扇子を胸元で広げ堂々と現れた姿も、様になっていた。
自分の置かれた状況をまだ掴めず、怯えて隅っこにいた露を見るなり兄は「あぁ、それか」と言いながらふと三味線を見、「客に茶もないもんかね」とぼやいた。
「立派な家じゃないか、お前、落ちて死んだと思っていたが」
嫌味ったらしいなと、「残念ながら」と返したと思う。
「残念ながらだって?子供をこさえておいてか」
「…先日、」
「あぁ、石川新分派の石橋…落ち目な役者だろ?ここに来たのは間違いないらしいな。根性もないわりに、上方へ逃げたらしいけど」
「子供の前で親のことなど」
「お前に言う資格はないだろ?残念ながら」
「………陰険さは変わらないものですね。
なんです?では貴方はこの子を取り返しにでも」
「そうだな、お前がその気なら…それの父親は愚かにも小屋に借金を置いていき、お前には子供を置いていったわけだが…質の悪い長脇差に金を借りたらしくてな」
露が私を見あげたのでポンポンと背をさする。
「売っちまった方が楽だからと、そいつに言われているところだ」
「こんなに幼い子を引き取る賭博なんて嘘臭い話」
「ウチにガキが居んの、知ってんだろ?
金は貰うものだというお考えの末、そろそろこの辺にいられなくなったようで、ご意向に沿いガキと引替えに金を持たせて茶屋へ引き渡したよ」
「あそこの店主、そうだったんですか。貴方、相変わらずの人でなしですね」
「そうか?小さい息子を質屋に連れてくる方がどうかしてると思うが。ご近所付き合いも大切だし」
わからない。
「それで、どうして私の所に?売れる物などないでしょう」
「さぁ?選択肢を与えに来たんだが。お前もそれほど裕福じゃないだろ?」
きちんと座って俯く露を見て、言葉は出ない。
話がわからないというだけだとは思うが、怯えて見えるのはあくまで、私が大人だからかもしれない。
そんな露と私を見た兄は面白そうに「おい、そこのガキ」と大きな声を出した。露はそれにビクッとする。
「俺はそいつの妻を寝取った男だ。どうだ?そいつより甲斐性はあるぞ?」
その一言に、私はなんと返したか………。
父は、自分の思い通りにいかないと気が済まない質で、だから栄が生まれたという経緯がある。
栄にとって義母にあたる兄の母は、三味線宗家の竹河家当主の正妻であるがそもそも、兄が譜を少しでも間違える度に、商売道具となる手を撥で叩いてしまうような人だった。
それが、普通の光景。
栄は栄で特別上手かったわけでもないから、分派争いに使うことが出来ない息子として扱われていた。つまりは兄も栄も竹河宗家からすれば「出来損ない」だったのだ。
恐らく兄の方がまともな感性があったから、幼いうちに自ら役者宗家に弟子入りし家を出たのだろう。
幼い頃は彼が自由で奔放に見えていたけれど、家を捨てても歌舞伎の業界に居座り成功をしたのは…勿論、幼い頃から陰間修業もしたはずだ。苦労はしてきた人で。
今思えば、見せつけたかったのかもしれない。
自分は……そう、父も母も、例え幸が三日も家に帰らなくても何もなかった、どうでもよかったのだろう。
それに箔をつけたのは、どんな形であろうと兄だった。
…あれから、あの人は自分のように、どこかで心が折れたことはないのだろうか。
だとしたら、少し怖い。その状態を保ったままで今こうしているのなら…いつか折れてまたどこかへ行ってしまいそうな危うさがある。今、たまたま成功しているだけだ。
成功し続ける人間なんて存在しているのだろうか。役者や三味線や太夫だって引退はする、それは“歳故にもう体が動かない”だとか、そういう挫折に近い感覚があるからで…。
…二度は自分を捨てている……のか、あの人。
それはそれでどうにも寂しいのか…と、祝いを終えいつも通り寝ている露の寝顔を見て、現実に引き戻った。
それなら自分も寂しい男なのか、とは思いたくはないし、思えない。
質屋の職人だって…仕事ぶりしか窺えないが潤っているように感じる。自分の何かを見つけ人生を歩んでいるのだと思う、それは周りから見たら恐らく自由奔放だ。
…あの人。
難癖を付け祝い事の日に現れたが、もしかすると見たくなかったのかもしれない。
傍で眠る露の頭をすっと撫でる。
苦労を知らないわけでも、どうしようもない大人を見ていないわけでもない…。こんなに幼くても、だから良い子にすくすくと逞しく生きてきたのだとして、それも大人の責任だ。
露の先に三味線が見える。
どうして自分は未だにこの三味線を捨てず、定期的に修理までしているのか。どうでもいいと、木屑にすることも出来るはずで、別にそれでもいいと思っているはずなのに。
こんなにも今は幸せである。
本当にただそれだけで充分だから、余分なものはいらない。
そこが兄との違いなのかもしれない。
露と住み始めた頃。
かつて兄は“扇一郎”という拝命を受けただけある。扇子を胸元で広げ堂々と現れた姿も、様になっていた。
自分の置かれた状況をまだ掴めず、怯えて隅っこにいた露を見るなり兄は「あぁ、それか」と言いながらふと三味線を見、「客に茶もないもんかね」とぼやいた。
「立派な家じゃないか、お前、落ちて死んだと思っていたが」
嫌味ったらしいなと、「残念ながら」と返したと思う。
「残念ながらだって?子供をこさえておいてか」
「…先日、」
「あぁ、石川新分派の石橋…落ち目な役者だろ?ここに来たのは間違いないらしいな。根性もないわりに、上方へ逃げたらしいけど」
「子供の前で親のことなど」
「お前に言う資格はないだろ?残念ながら」
「………陰険さは変わらないものですね。
なんです?では貴方はこの子を取り返しにでも」
「そうだな、お前がその気なら…それの父親は愚かにも小屋に借金を置いていき、お前には子供を置いていったわけだが…質の悪い長脇差に金を借りたらしくてな」
露が私を見あげたのでポンポンと背をさする。
「売っちまった方が楽だからと、そいつに言われているところだ」
「こんなに幼い子を引き取る賭博なんて嘘臭い話」
「ウチにガキが居んの、知ってんだろ?
金は貰うものだというお考えの末、そろそろこの辺にいられなくなったようで、ご意向に沿いガキと引替えに金を持たせて茶屋へ引き渡したよ」
「あそこの店主、そうだったんですか。貴方、相変わらずの人でなしですね」
「そうか?小さい息子を質屋に連れてくる方がどうかしてると思うが。ご近所付き合いも大切だし」
わからない。
「それで、どうして私の所に?売れる物などないでしょう」
「さぁ?選択肢を与えに来たんだが。お前もそれほど裕福じゃないだろ?」
きちんと座って俯く露を見て、言葉は出ない。
話がわからないというだけだとは思うが、怯えて見えるのはあくまで、私が大人だからかもしれない。
そんな露と私を見た兄は面白そうに「おい、そこのガキ」と大きな声を出した。露はそれにビクッとする。
「俺はそいつの妻を寝取った男だ。どうだ?そいつより甲斐性はあるぞ?」
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