天獄

二色燕𠀋

文字の大きさ
3 / 48
欲動

3

しおりを挟む
 自宅に着いたのはまだ21時台、恐らく3マンライブの主催バンドが終わるか終わらないかの頃合いだった。
 あの女は再び観戦に戻ったのだろうか。

 先程、スマホから声以外の音はしなかったし帰宅したと聞きはしたのだが、明かりが漏れるリビングの扉の硝子に「本当なんだな」と実感した。

 風呂場からじゃぶじゃぶと音がしていた。案外、帰って間もないのかもしれない。

「ただいま」

 リビングに彼は見当たらなかった。
 ただ、すぐ側の寝室から「おかえり」と聞こえる。

 やはり今、帰ってきたのだろう。すでにコンタクトではなかったが。
 同居人はスーツの上着に消臭剤を降り掛けていた。

 ギターケースの外ポケットから“例のアレ”を取り出し、「はい」と相手も見ずに翳す。ギターをスタンドに立て掛けた。
 しかし、なかなか受け取らないなと相手を見ればモゾモゾ、シャツの手元のボタンを外している。

 眼鏡には確実に“それ”が映っている。
 光の加減で茶髪が少し、淡く見えた。

「客席でミキさんって人から貰った」
「そゆことね」

 ボタンを外し終え“それ”を受け取った同居人は「どんな人」と尋ねてくる。

「女の人。多分…クライシスのファンではないかな、観てなかったし。俺も初めて見た顔だから、もしかすると主催のバックスの客…なのかなぁ…?」
「手慣れた感じだった?」
「かもしれないけど…。一応サブカルっぽい格好、水色ショートの。でもわからないな、単純に売人が入り込んでたのかも」
「なるほど。やっぱり鼻声だな」
「…臭いを嗅いだ瞬間、鳥肌が立ちました」
「覚醒剤系かぁ」
「相手の連絡先、交換しときましたよ」
「SNS?」
「はい」

 彼が心底楽しそうに笑う心理はいまいちピンとこない。
 彼はいつでも状況を楽しむのみだ、これも別に正義感なんかではない。ただの、仕事。

 彼はふと、頬に触れてきた。
 機嫌も良さそうに「流石だねぇ、探知くん」と面白がる。

「…よくあることですから」
「バンド野郎ってよく言うよねぇ、酒と女と薬って」
「…それ、どっちかって言うとヤクザ屋さんだと思いますけど」
「はは、じゃあ今日はその女とも何もなく、江崎えざきさんにもまだなんだ?」

 恐らく、こちらの行動をわかっていて言ってきているのだ。

「江崎さんには明日とか、話したいってメールしました」
「SNSか…IP開示請求しなきゃな…でも、江崎さんの出方も見たいなぁ。風呂先入って良い?」

 ポリ袋をつまんで眺めそう言う男に「どうぞ」と素っ気なく返す。
 張り込みか何かはわからないが、どうやら最近、同居人は残業が続いているようだ。

「それともたまには一緒に入る?」
「…残業だったんでしょ」
「まぁね。おかげで火薬臭くて」

 特に掘り下げもしない空気。

 ポイっとポリ袋を返してくる彼にとっては、本当のところ後回しにしたいほど興味もない話題だったのかもしれないし、ただ単に今、大きな案件があるのかもしれない。

 彼、平良たいら誠一せいいち厚労省こうろうしょうで期待の若手役員をやっている。
 所謂、麻薬取締官マトリだ。慧はこれに飼われている。

 誠一が風呂に消えたので、改めて入手したタバコを眺め、写真に残す。
 着信履歴から江崎の名前を探し、メールに添付し送信履歴を削除した。

 別に、削除しようがしまいがあまり意味もないのだとは知っているけれど、何故か、こういうことは後ろめたい、いや、気持ちが悪くてそうしてしまう。

 帰宅途中に呼び掛けたせいもあってか、「どこで手に入れた?」とすぐに返信が来た。

 この画面の向こう側が職場なのだとしたら、江崎は今頃即、部下達にスマホを見せ「どこのかわかるか?」等とやっているのだろう。
 自宅ならば自分のように、こうしてリビングで無表情に…もし女がいるならば相手には見えないように身を翻しながら送信ボタンを押したかもしれない。

 …自宅だとわかるだろうに、次の返信では「平良には?」だなんて返ってくる。
 誠一の態度よりは意味が含まれる気がする、けれども簡素な文面。

 この瞬間の駆け引きが一番緊張する。一歩間違えば死ぬのではないかという程に。
 ただ、今の手の震えは演奏のせいの手首への負荷だと思うことにした。

何て言ってる?
特に何も
まぁわかった

 互いに感情は読めないけれど、「待ってる」という一文が入って来るだけで、何故か印象すら錯覚しそう。
 別に、自分を待っているわけではないはずだけれど。
 出会った日に、俺は君を守らないとね、と言った誠一の一言よりも真実を感じるような気がしてしまう。

 彼らの一言一言にそれ以上の意味があるわけではないかもしれなくても、最初に声を掛けてきたのが江崎だったからかもしれない。

 寝室、レフトギターとスーツが掛かっているのをぼんやり眺める。

 …どちらかと言えば、誠一にしても江崎にしても、結局自分を介して互いにしか意味を見出だしていないのだけど。

 どちらだったか、その方が良いんだと言っていた。確かにその通りだと思う。

 自分も随分と飼い慣らされているな。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

  【完結】 男達の性宴

蔵屋
BL
  僕が通う高校の学校医望月先生に  今夜8時に来るよう、青山のホテルに  誘われた。  ホテルに来れば会場に案内すると  言われ、会場案内図を渡された。  高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を  早くも社会人扱いする両親。  僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、  東京へ飛ばして行った。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

処理中です...