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壱
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雑魚寝部屋の料理番達が出て行き、ぼんやりしたままあても料理長の部屋から出る。
「あ、あの」
すると一人、新参の少年がまるで待っていたかのように、伏し目でそこに立っていた。
「おはよう…ございます」
…気付かれてしまったかな。
兎に角挨拶を返すと、彼ははっとし、そそくさと台所に向かって行った。
「あーあ、知られてしもうたかもなぁ」
心の声でも代弁するような一言が聞こえた。
奈木も、待っていましたと言わんばかりに隣の個室から顔を覗かせ、出て来て襖に寄り掛かった。
…なるほど。
「はっは、しんどそうやと思たんやけどなぁ、おはようさん」
奈木は目を細め「客取れたんやってなぁ」と嫌味ったらしく言ってきた。
「満足せんかったんやろ?なんや遠目からでももっさいおっさんやったもんなぁ」
…上方で言うところの、やすけない人。
関わり合いたくもないしなと軽く頭を下げて去ろうとすれば「料理長はどないや?」と聞いてくる。
「まぁ、あんさんはもう売り子やないしなぁ。満足させてやっとる?」
…ほんま、よう喋る人。
見世に戻ろうにも、奈木は後ろから着いてきて「まぁ、ええならええけどね、はは、今日日暇なんよなぁ」と一人で喋る。
「相手にされるうちが華やね、」
完全に無視をしてすたすた早足になったが、はっと奈木に手を取られ、壁に押し付けられてしまった。
…朝にしては、濃いほどの口付け。
「上方作法わかるよなぁ?待っとったんやけど」
奈木は得意気に首…喉を一撫でし「まぁだ上手ないな」と見下ろしてくる。
「あのドラ息子ん時は来たやないか、足りない足りないて。まぁ別に」
パン、と手を叩く音がした。
一が「おはようさん、奈木さん」と、整った顔立ちで睨むように制する。
「今日も一日その意気で」
「はは、弟に見られてしもたなみ空。堪忍してや楼主はん」
一はピクッと眉を寄せ「構いませんが、風紀に悪いですね」と、不愉快そうにそう言った。
「み空兄さんは見世に戻ってくださいね、折角あるんだから。と言うより今日は不寝番を頼みに来ましたが、よろしいですか?」
…まぁ、さっきまで寝ていたようだしな。
一に二回頭を下げ、あては見世に戻ることにした。
後ろで「楼主から直々にか、ええご身分やな」と奈木の嫌味が聞こえる。
…本当は一の方が、役者であれば向いている。それは、喉の問題ではなく。
母親も多分、それで仕送りを望んだのだと思うが、一の母親はそこまで世間を知らなかったというより、借金を作ってまで遊んだ割には流行りに疎かった…いや、世間に着いていけていなかった。
一の母親があてと一を置いていった先は、確かに陰間もいるが、若衆茶屋だったのだ。
それでも充分、一はあてのように唖者でもないのだし、役者になればよかったのではないかと思うが、元楼主はそうしなかった。
それはそれでこんなこと、有り難いのかもしれないが、だからこそあてのことで一がこれほど背負う必要はないのだ。
あてはどこか素直ではないから、こうしていることがどこか…一への嫌味なのではないかと思ってしまっている。
一は、あてが元楼主に弄ばれている様をずっと見せられていた。そして、「無理だろ?」と、今の道を決めたのだ。
子供の頃のことを未だに背負う必要などない…。
あてはひとつ、後悔している。
これほど綺麗事ばかりを並べても一度、それは奈木があての仕込みに着いた頃だった。
あては声が出ないのを良いことに、「なんであてばかり」と思いながら、一を睨み付けてしまったことがあった。
あの日の一の表情を忘れられない。
お陰であの、あての袖を握りしめていた義弟はしっかり者になったのだとは、思うようにしているけれど。
見世に戻るとすぐ、「にぃさんにーさん!」と、弟分の要が嬉しそうにやってきた。
無邪気に笑う要は三味線を持ち「きょぅもお願い出来ますか!?」と少しだけ喋りにくそうに聞いてくる。
あては朝からの憂鬱な気分を脱ぎ捨てるように笑顔を作り、頷いた。
「やった!やったぁ!」
…まぁ、作らなくても要の笑顔は己の中で、和んで行く。
そばかすで、ニッと笑う要の前歯は二本、短い。
少し前、糸切り歯を気にして無理に抜いたのだ。そしたら、抜け掛けていた隣の歯も一緒に抜けてしまった。恐らく新造の雑魚寝部屋で誰かに嫌なことでも言われたのだろう。
さぞや痛かったろうと、あては要と一緒に、また綺麗に生えるといいねと、その歯を土に埋めた。
彼が役者志望かはきっとまだわからないが、それがあり…今は少し、役者顔ではなくなっている。
もう、乳歯が抜けてしまった頃か…とぼんやりとした言い知れぬ切なさ、いや、不安が立ち塞がり、けれどもあては「やろっか、」と微笑むしかない。
要が三味線を持つと、いくら細棹、長唄三味線だとは言え、やはり大きく見える。
こんなものだって、ここで働いていく一つの手立てで、生きる糧だ…そう。生きる糧なのだ。
彼がどうしてここにいるのか、深く聞かないようにしたのだし、嫌なことだとも限らない。
事実あては男を楽しむ…つまり、仕事を楽しむ面があったのだし。
「あ、あの」
すると一人、新参の少年がまるで待っていたかのように、伏し目でそこに立っていた。
「おはよう…ございます」
…気付かれてしまったかな。
兎に角挨拶を返すと、彼ははっとし、そそくさと台所に向かって行った。
「あーあ、知られてしもうたかもなぁ」
心の声でも代弁するような一言が聞こえた。
奈木も、待っていましたと言わんばかりに隣の個室から顔を覗かせ、出て来て襖に寄り掛かった。
…なるほど。
「はっは、しんどそうやと思たんやけどなぁ、おはようさん」
奈木は目を細め「客取れたんやってなぁ」と嫌味ったらしく言ってきた。
「満足せんかったんやろ?なんや遠目からでももっさいおっさんやったもんなぁ」
…上方で言うところの、やすけない人。
関わり合いたくもないしなと軽く頭を下げて去ろうとすれば「料理長はどないや?」と聞いてくる。
「まぁ、あんさんはもう売り子やないしなぁ。満足させてやっとる?」
…ほんま、よう喋る人。
見世に戻ろうにも、奈木は後ろから着いてきて「まぁ、ええならええけどね、はは、今日日暇なんよなぁ」と一人で喋る。
「相手にされるうちが華やね、」
完全に無視をしてすたすた早足になったが、はっと奈木に手を取られ、壁に押し付けられてしまった。
…朝にしては、濃いほどの口付け。
「上方作法わかるよなぁ?待っとったんやけど」
奈木は得意気に首…喉を一撫でし「まぁだ上手ないな」と見下ろしてくる。
「あのドラ息子ん時は来たやないか、足りない足りないて。まぁ別に」
パン、と手を叩く音がした。
一が「おはようさん、奈木さん」と、整った顔立ちで睨むように制する。
「今日も一日その意気で」
「はは、弟に見られてしもたなみ空。堪忍してや楼主はん」
一はピクッと眉を寄せ「構いませんが、風紀に悪いですね」と、不愉快そうにそう言った。
「み空兄さんは見世に戻ってくださいね、折角あるんだから。と言うより今日は不寝番を頼みに来ましたが、よろしいですか?」
…まぁ、さっきまで寝ていたようだしな。
一に二回頭を下げ、あては見世に戻ることにした。
後ろで「楼主から直々にか、ええご身分やな」と奈木の嫌味が聞こえる。
…本当は一の方が、役者であれば向いている。それは、喉の問題ではなく。
母親も多分、それで仕送りを望んだのだと思うが、一の母親はそこまで世間を知らなかったというより、借金を作ってまで遊んだ割には流行りに疎かった…いや、世間に着いていけていなかった。
一の母親があてと一を置いていった先は、確かに陰間もいるが、若衆茶屋だったのだ。
それでも充分、一はあてのように唖者でもないのだし、役者になればよかったのではないかと思うが、元楼主はそうしなかった。
それはそれでこんなこと、有り難いのかもしれないが、だからこそあてのことで一がこれほど背負う必要はないのだ。
あてはどこか素直ではないから、こうしていることがどこか…一への嫌味なのではないかと思ってしまっている。
一は、あてが元楼主に弄ばれている様をずっと見せられていた。そして、「無理だろ?」と、今の道を決めたのだ。
子供の頃のことを未だに背負う必要などない…。
あてはひとつ、後悔している。
これほど綺麗事ばかりを並べても一度、それは奈木があての仕込みに着いた頃だった。
あては声が出ないのを良いことに、「なんであてばかり」と思いながら、一を睨み付けてしまったことがあった。
あの日の一の表情を忘れられない。
お陰であの、あての袖を握りしめていた義弟はしっかり者になったのだとは、思うようにしているけれど。
見世に戻るとすぐ、「にぃさんにーさん!」と、弟分の要が嬉しそうにやってきた。
無邪気に笑う要は三味線を持ち「きょぅもお願い出来ますか!?」と少しだけ喋りにくそうに聞いてくる。
あては朝からの憂鬱な気分を脱ぎ捨てるように笑顔を作り、頷いた。
「やった!やったぁ!」
…まぁ、作らなくても要の笑顔は己の中で、和んで行く。
そばかすで、ニッと笑う要の前歯は二本、短い。
少し前、糸切り歯を気にして無理に抜いたのだ。そしたら、抜け掛けていた隣の歯も一緒に抜けてしまった。恐らく新造の雑魚寝部屋で誰かに嫌なことでも言われたのだろう。
さぞや痛かったろうと、あては要と一緒に、また綺麗に生えるといいねと、その歯を土に埋めた。
彼が役者志望かはきっとまだわからないが、それがあり…今は少し、役者顔ではなくなっている。
もう、乳歯が抜けてしまった頃か…とぼんやりとした言い知れぬ切なさ、いや、不安が立ち塞がり、けれどもあては「やろっか、」と微笑むしかない。
要が三味線を持つと、いくら細棹、長唄三味線だとは言え、やはり大きく見える。
こんなものだって、ここで働いていく一つの手立てで、生きる糧だ…そう。生きる糧なのだ。
彼がどうしてここにいるのか、深く聞かないようにしたのだし、嫌なことだとも限らない。
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