朝に愁いじ夢見るを

二色燕𠀋

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『お歌を唄ってあげましょうね』 

 暖かい膝、柔らかい母の手。

 どんな歌だったか、はっきりとは覚えていないけれど、母がどこかぼんやりと格子の向こうを眺めていた景色は覚えている。
 
 義弟おとうとがあての袖をぎゅっと握っていたけれど、あてが握っていた小袖を払い去った女の背を見ても、義弟すらそれを追いかけようとはしなかった。

 ただ、袖を握っていた義弟の手をあてが握り返したとき、やっと義弟が「兄ちゃん…」と不安そうな声を漏らした幼き日を、今でも覚えている。

『これからは家族が増えるぞ』

 その親父のニタニタした顔も、忘れられない。

 薄ぼんやりと目を開ける。眠れない。

 襖の向こうの若い衆わかいしゅ達も静かになっている。
 丑の刻くらいには差し掛かるだろうか。二階のあちらこちら、太夫と客の声が僅かに聞こえる、ような。

 静かな下男達に気を使うような襖の音、そしてこちらに歩いてくる。
 側の襖が開いて閉まり、「ここはお前の部屋じゃねぇっつうの」と、潜めた渋い江戸訛りが聞こえた。

「…全く、奈木なぎんとこ行けよ…」

 そうは言うくせに、あてが背を向け寝たふりをしても、彼はわかったように少し距離を持ち「久々だったんだろ」と、そっと腰骨に手を添える。

 …一枚布団だし、彼は身体も大きいし、はみ出してると思うんだけどな。こっちは膝折も癖になってるわけだし。

 「…まぁ、別にいいけどさ…布団くらい被れよ」

 察してくれても、察していない距離で間を置き蒲団を被せてきた阿蘇あそさんについつい振り向いてしまい、顔がぐっと近くなった。

 阿蘇さんはそれでも顔だけは引こうとするので、逃がさずがっつりと後頭部を掴み、唇をはむはむとした。少し鼻の下がチクチクする。

 羨ましい。
 あては毛など、とうに焼き切られたから。

「…だから、奈木んとこに」

  …ヤダよと、あては阿蘇さんに口付けを続けた。
 少し疲れている。感覚も戻らぬままに客取りをしたからだ。

 先日あてをこっそりと買いに来た大名のドラ息子がペラペラと睦言で言っていた。
 今日一人で来たあの時の連れは瓦版屋をやりつつ、作家を目指しているのだそうだ。本当にその通りで、勝手で夢見がちな印象の人だった。

 水浴びをしたのがわかったのか、阿蘇さんはぐっとあての顎を遠退け、「お前、冷てぇな」と言った。

 昔、母が言ったのだ。水は全てを洗い流してくれるんだよと。これも癖だし策略だ。

「なんだよ先入ったんじゃねぇのかよ風呂、一切って聞いたぞおい」

 先には入ったが水を浴びたんだ。

「…あぁ、なるほど水浴びしたんか」

 …また、癖だな。ついつい、こんな日は喉を触ってしまうらしいと前に指摘を受けた事がある。でも、これで意図は伝わったようだ。

 「ったく、」と言いながら寒がりの阿蘇さんは蒲団の中で自分の羽織まで被せてきてくれた。

 …もどかしく、いけずな人。

 何も喋らない間を持つ阿蘇さんが言いたいことが、まるで頭に流れてくるよう。
 「引退だってしたんだし、そこまでするなら客取りなんてしなくていいだろ」だとか、「穀潰しでもいいだろ」とか。

 この人は、優しいから。

 もっと先だって読める。言葉にしない、見つからない、出来ないのだろう気持ちだって、多分。

 そんな間も嫌だし、単純にまだ、通和散つうわさんの刺激が身体に残っていた。
 あては、そんな阿蘇さんの気持ちを利用し、その腰骨に添えられた手を着物の中に誘いこんだ。

「…ちょ、」

 一度は抵抗するのだ、この人も。だが昔から、この人はあてから手が引けないと知っている。

 阿蘇さんは、あてがここに来たときにはもうすでに、料理番をしていた。

「…何、酷かったんか…?」

 いや、別に。かなり傲慢だったけど。

 首を振り阿蘇さんの逸物に触れると「勘弁しろよ…」と彼は大人ぶる。
 前からあるはずだ、売り物に手を出された罪悪感が。

 あては阿蘇さんの手をそのまま菊の方へやり、「満足できませんでした」と目で語る。

 …本当は少し気に入らないのだ。だが、奈木といる気分じゃない。

 『愛しい』と、あの作家が口にした言葉は譫言で、自覚があったかはわからない。

 あてはその言葉が嫌いだ。
 碁を打ちに来たなどと…変わった人ではあったけれど。

 察して焦れったく物を言わない優しい人なのか、察してズバッと人を傷付けるような人なのかを天秤に掛け、いま前者を選んだくせに、今日は優しくされたくなかった。

 もっと、もっとあんたも、あてなんて殺すような気持ちでやってよと、首に抱きついて息を吐けば、阿蘇さんは「…喉も枯れてるし…」と、恐る恐る、まるで染みないようにという手付きで中に少し触れてくる。

 そして、溜め息なんかを吐いてくれる人で。
 本当は満足なんかしない。ヒリヒリする。

 目を閉じてみる。「み空、ねぇ、」とボロボロに泣きながら馬乗りになってこの喉を絞めたひと

 苦しそうだった、悲しそうだった、そして本気であてを恨んでいた、あの瞬間。

 それを思い出し、阿蘇さんの肩をぎゅっと握った。
 暖かくて、撫でられている無骨な感触に、いつの間にか寝てしまっていたようだ。

 彼が離れ、料理番達を起こして回る声がする。
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