余寒

二色燕𠀋

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 その日アリシアは、昼過ぎに柊造が帰宅しても未だ眠っていたようだ。

 寝室の仄かな斜陽とアリシアの無防備さに、柊造は浮世離れなような、少しだけ時が止まったような、錯覚を得る。
 だが大体、次の瞬間に言い知れない不安が過るのだ、まるで死体のようだ、と。だがそれでも綺麗である。

 疲れているのかなぁ、と、柊造はアリシアの側に座りアリシアの息を確認しようと、顔に耳を近付ける。

 嫌な予感がしていないのだから、当たり前に息は吹き返される。ほっとしてアリシアの寝顔を眺めれば函館で死んだ上官を、思い出した。
 彼はこうして地に横たえられていた。

「東堂柊造。風情のある名前だな」

 彼と柊造がした会話はそれだけだった。

 正確には、柊造の直結した上司ではなかった彼の死で函館戦争は終戦した。皆一気に、その死で迷いなく「敗北だ」と認識した、それだけの人物だった。
 自分の直結した上司、島田という男はその上官に古くから支えた男だったのだという。島田は、切腹はしなかった、変わりに自分の脇差しを彼の生家に送ったと柊造は知っている。
 何故なら、それは自分がこの足で運んだからだ。

 脇差しを生家の遺族がこの手から受け取った瞬間、自分の耐えていた、殺してきた感情は恐らく溢れたのだけど、涙が出るものでもなかった。生き長らえた、良くも悪くもと、あの瞬間の冷えそうな感覚が今でも胸に残っている。
 
「君も私も命を捨てなかったのだ。だから、刀を置いて普通に、平和で静かに暮らしていくといい」

 しかし、捨てた家族の元に戻るほど、自分は悲しみを捨てることが出来なかった。

 ふと、アリシアの頭を撫でようとした自分の手が震えていることに気が付いた。

 この子供がどんな道を歩んできたかは知らない。どうして自分があの時代の「忘れ形見」を持っているのか、あの頃と同じ気持ちが沸いてくることがある。

 髪を撫でたアリシアが、ゆっくり目を開け「おかえりなさい」と、その手を取った。
 青い瞳のその奥の深い部分に、ふと凍えるような気持ちに、なることがある。

「た、」

 何故だか、震えて「ただいま」と言う言葉が喉の奥で詰まってしまったような気がした。

「父?」

 しかしそう、無邪気なような、子供に心配の色が見えるとき、目の前には現実が広がり「ただいま、」と声を押し殺すように言うことが出来る。

 昔を思い出すことが、増えたようだ。

 アリシアはがばっと布団から起き上がり、「身体が悪いの?」と聞いてくる。

 この綺麗な瞳の奥は、何もない、と思わせるほどに澄んでいる。
 気持ちが凪いで、打ち消され澄むような、そんな気がする。

「おやすみしますか?」
「いや、いいよ。夕飯を作ろう」

 努めて穏やかに笑えた気がした。
 ふと思い「何が食べたい」と、修造はアリシアに尋ねる。自然と、「具合が悪いんだろう」という言葉が出てきた。

「起こして悪かった」
「…庭で、頭が痛くなったのです」
「そうか。寝ているといいよ」
「でも…父も具合は悪いのです」
「どうしてわかった?」
「わからないけど、父もわかった」
「そうだな。父はそういうことに強いんだ。
 今日は暑かったからな、素麺にしようか」

 痛いのなら頭を撫でるのはやめようと思った。
 変わりにアリシアの手を強く握り、柊造は部屋を去る。

 もしかすると、蝦夷の地はアリシアの身体に触るかもしれない。
 だが一度くらい共に見てみたいような気がする。一面の雪、それは寂しくも綺麗だった。

 東京では、あの白い雪はあまり降らない。昔、それを灰のようだとその地を去ったきりで、再び訪れるなどと考えたこともなかった。

 忌々しいものかもしれない。
 今でも銃声や怒号、馬の音は柊造の耳の中に潜んで記憶となっている。だけど記憶というものは日が経つごとに色褪せると、感じるようにもなってきた。
 だから時折思い出すのだろうか。

 ここ最近自宅にまで仕事を持ち帰っている。アリシアに言われた通り、自分もすぐに寝ようか。

 流石に今日はそう感じた。それも、以前からのことだというのに、取り敢えずはそう決めた。

 それから二人で素麺を食べた。先日庭で採れたミョウガが身体に染みた。
 去年は上手く出来なかったミョウガ。今年は、書を読みきちんと育てられたようだ。
 
 あまり食べられなかったアリシアは眠りも少し、難航した。だが、食べる前よりはいくらかましなようだった。

 鎮静剤を与えようと、文机の引き出しを開けたときにふと、拳銃に目が行った。いつでも使えるようにと、前からあるものだった。
 その側には、もう戦争の頃からも使われることのない、自分の脇差しが入っている。

 そんな物にすら感傷的になる自分も、本当に寝た方がいいだろうと、柊造は布団に入り少し曖昧な意識のアリシアに「アリシア、」と呼び掛け隣に寝転ぶ。
 髪の毛を手で鋤きながら、アリシアは聞いてはいないかもしれないと「もし…」と声を潜める。

「もしも父が間違ったとき、」

 続きを考えている。
 だが曖昧なアリシアが「どしたの」と、呂律も微妙なのだから、「…口を開けて」と、薬を見せる。

 それでアリシアの口に錠剤を入れ、頭を抱えてコップの水を渡す。
 ゆっくり、ゆっくりと嚥下するアリシアに「よく飲めました」と、また横たえる。

「ちち」
「今日は父も早く寝るよ」
「ん」
「苦しかったら父をちゃんと起こしなさい」

 そうやって、抱き抱えるように明かりを、消す。
 アリシアの寝息が聞こえるまでは眠れなかった。
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