余寒

二色燕𠀋

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 出張の文書は作成されずとも翌日には、伊藤から蝦夷の測量やら何やら、榎本の報告書の写しを渡される。

「小樽には連絡を入れておいた。まずは3日ほど」
「…昨日話を持ち帰ると申し上げましたが私にはアリシアがおります。昨日の今日と言っても彼の体調が気に掛かる」
「ならば、人に預けてはどうだ。
 しかし言い出したのは私だ。私がその間面倒を見てもよい」
「…いえ、結構です」
「そうか?しかし困った。ならばどうにかしてくれ」

 何も引っ掛かりがなくあっけらかんとして伊藤が言うのだからどうしようもない。
 抗議のしようもなく。

 その場ですぐに帰宅した柊造はアリシアの体調を危惧し、しかし預ける宛が居るわけでもない。どうしようかと頭を悩ませる。

 帰ればアリシアは丁度庭作業をしようとしていたらしく、軍手に手持ちの鋤を持ち「お帰りなさい」と穏やかに笑って縁側まで駆け寄った。

「ん、ただいま。具合はどうだ?」
「ご心配かけました。この通り、なんとか」
「…いまは、」
「はい。肥料を足そうと思っていました」
「…そうか。
 アリシア、父は出張命令が出て3日ほど小樽に行くことになった」
「おたる?」
「北の方でな。寒くて…」

 思い出すのだが、果たして何を語ろうというのかと片隅で思いつつ、「一面真っ白で」と続けて話す自分が、えらく遠く感じた。
 8年。

「日本の中で、とても大きいけれど…たくさん街があり…ここから離れている。白いのは雪でなぁ、足場も良くないけれど…綺麗な場所だった」
「父は行ったことがあるのですね?」
「うん…ちょっと前に。
 果たして…」

 空気は綺麗だったのだろうか。
 硝煙の景色が浮かぶけれども、いや、確かに綺麗だったんだろうという意識がある。

「…空気も水も綺麗でな。何より飯は旨かった。まわりが海だから、魚が旨いんだよ」
「いいねぇ」
「行きたいか?」

 何を聞いてみているんだろう。

「え?」
「ただ、蝦夷は寒いんだ」
「どれくらい寒い?」
「うーん結構。肌が痛いくらいかな。どれくらい着込むべきか…」
「そうですねぇ。公務ですか?私は行ってもいいのでしょうか?」
「…うん、いいよ。少し心配ではあるけど」
「あはは、初めてだ」

 そんなことでアリシアが笑った。
 柊造はそれに、衝撃だとか新鮮だとか、そのような新しい感情、発見があったように感じて、「そうだな」と自然とアリシアの頭を撫でている。

 光の髪は、今は薄い茶色であれよりも短い。背も少しだけ高くなったアリシアに少しの安堵もある。変わらぬのは、蒼く深い瞳なのだ。今やもう、11歳の子供でもない。

「…すぐに出掛ける準備をしようと思ってな。父は、それでどうしようかと考えていた」
「と申しますと?」
「アリシアは昨日寝込んでいたから、置いていくのも、連れて行くのも、と」
「それはごめんなさい」
「いや、いいんだよ。断ろうかとも悩んでいた仕事だから」
「いいのですか?」
「どうせ、いいのだ。父がやらねば誰かがやるのだし。いや、やらないとしたらそれほど要らない仕事で。ただ、まぁ少しあの地を…」

 見たかったのか。

「…小樽にはな、青い、洞窟があるそうだ。澄んで、綺麗な」
「青い、洞窟ですか?それは見てみたいなぁ」
「アリシアを連れて行きたいかなとも、思ったような」
「はは、なんだか父は迷いが多い。じゃぁ、肥料を少し多めに」
「アリシア」

 自分は、

「父はな、少し前、そこで戦争をしたのだ。アリシアと出会う前…」

 何をこのアリシアに言おうというのか。

 アリシアの動きがピタッと、止まった。

「……人も撃った。上官も死んだ。その地には恨みも喜びもなく、なのにとても気が重い。
 けれども白く綺麗な一面も思い出すのだから不思議なものだ。父は…勝手だな」

 アリシアは少し目を伏せて何も言わなくなった。
 暫し沈黙もあって、恐らくアリシアは何度か、その間に何かを言おうとしているようにも見えたが、言わなかった。

「…すまないな」

 謝る父にアリシアは「何がですか?」と、尋ねてくる。

「…いや、」
「…私は楽しみです。楽しみだと、あんまりいけないのかもですけれど」
「いや、いいの…かなぁ?仕事だから、ダメかもしれない」
「じゃぁしっかりしときます」
「ははは…」

 少し、心が解れるのも事実だった。
 これが親子というものなのかはわからないが、柊造は今、これまでにないほどにはそれを実感したような気がした。
 4年あって、考える。どうあってもこの4年はアリシアが居て作られたものだ。それが不思議で仕方がないはずも、少し遠い。
 なのに、近い。

 肥料を手に持つアリシアへ「父も手伝うよ」と声を掛けながら、少しだけ桑名の、置いてきた嫁の顔が浮かんだ気がした。

 あの頃は戦争に行くからと結婚をした相手で、4年の月日も共に過ごさなかった嫁。自分の子供の顔すら見ないままだった。

 灰色なほどに遠くなることが、不思議で仕方ない。昔は確実に、それに心が痛んだ筈なのに。
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