アルカロイド

二色燕𠀋

文字の大きさ
20 / 73
迷睡

2

しおりを挟む
 生活音、匂い。久々に住人を感じる。隣の住人すらあまり知らないような都会の夕飯時だけど、201、端の部屋付近のカレーの匂い、それだけで満たされる気がした。

 楓と出会ってから越してきたアパート。当たり前だけど上京したての当時は「おかえり」だなんてほとんどなかった。あっても大学連中の溜まり場で、酒飲んで…という具合だったなぁ。大学の恋人も、「おかえり」はなかった。

 鍵を開けて広がった温かい匂いに、「ただいま」がそぞろになる。多分、キッチンの扉の向こうにはなかなかこの声は届かないのだけど、開ければベターにカレーを作っている楓が少し顔を傾けて「おかえり」と言うのだった。

「ただいま」

 それも溶け込むような声で。
 じわりと温かさに気持ちは急き、側に寄れば漸く楓は俺を見て「お疲れ様」と言ってくれた。カレーの味見をしていたらしい楓は緩やかに笑い、「もう少し待ってね」と付け加える。
 それだけで、仕事とかすべての憂鬱はなくなりそうだった。最近の背中とは、違うもので。

「いま」
「うん」
「玉ねぎを入れてから…」
「うん」

 我慢はしたかったのだけどビジネスカバンはその場で手を離れ、楓の腹辺りにその手はまわる。楓のウエストが細く感じて、肩も顎が乗せやすい位置にあって。
 体温を感じる。

「…こらこら」
「腹減った」
「味見する?」

 あっさり、頭はカレーよりも緩やかな表情の恋人ばかりになってしまった。ふいに俺を見た楓は少し拒むだろうかと思えば、あっさりキスを受け入れてくれて、疲れや、考えや、その瞬間甘くなってしまうような生ぬるさがあるけど、カレー風味な気がした。

 なんとなく今日はいけそうだな。当たり前か、もう一週間以上だ、互いに。

 「火が着いてるからダメだよ」という楓に夢中になる手前でやめ、「玉ねぎ見えないけど」と鍋を覗き込んだ。

「玉ねぎはもう少し、苦味がなくなるまで煮込みたいな」
「苦味?」
「うん。火をつけ始めたから…10分くらい暖めたらいい頃合いかな」
「意外と手が込んでるよな」

 カレーは誰が作っても不味くならないだろうと思うけど。一味違う、楓のやつは。

「まぁ、着替えてきなよ」
「うん。ついでに風呂洗ってくるわ」
「風呂?洗ってあるよ」
「え、」
「…だって、寒いし」

 …これはかなり期待大じゃないの。そうやって少し俯くのも、それから見つめてくれるのも。

「…ねぇ楓」
「何…?」
「秘湯クイズやろ」
「あぁ、」

 少し、空気は緩くなり。
 楽しそうに楓は笑った。

「前回どこだっけ」
「忘れちったな。入浴剤の数見て入れるわ」
「味気無いなぁ。肩こり取れるやつとかどう?」
「そうやって誘導して」
「誘導でもないでしょ、そんなに変わらないし」
「味気無っ」
「これは濁り湯外してくるかな」
「やっぱ誘導じゃん!」

 当てたらなんかある?と聞く楓への返答に困ったけれど、まぁ、互いにそれは何だっていいのだ。代わりと言ってはなんだが「だから先入っていいよ」と答える。

 離れても体温の余韻に充分酔いそう。

 あの広さだと流石に男二人は無理だなと頭によぎる。あぁ、一緒に温泉行きたいかも、一度くらいは。

 千葉って温泉あるのかな。う~ん、有名ではないよな、だけど温泉って大体あるもんだよな、きっと。
 まぁ、馴染みがないから温泉の素なんて買ってくるんだよな。俺だって「東京にある?」とか言われてもぴんとこないし、あるかなぁ。というか、有名などっか、近くなら箱根だっていい。そういうところに行ったらどうなんだろう。

 そんなことから楓を考えてみる。

 寝室で着替えて、脱衣所の洗濯機にシャツを入れて、クリーニングは普通土曜日に行くんだろうなと考えながらまずは温泉の素を確認した。丁度箱根湯本がある。
 効果は大してわかんないけど、まぁいいや。どうだっていいことにリラックスするのだから。

 とか言って、今日外れたらどうしようかな、いや、まぁ俺も色々準備しよう。求めるものが一緒ならそれでいいよ。
 考えることが早くも湯だっている。
 でもまぁ、いまだって充分楽しい。

『からかってんの?』

 ふと。
 舌足らずに暗がりで言われたあの日を思い出した。

 楓。
 あれは運命だと言うには少し暗いかもしれないが。

「真麻。えっと、真実って言う字と大麻って言う字で。あんたは?」

 汗ばんだ耳元に吹き掛けて言っておかないと、この人はきっといなくってしまうだろうとなんとなく思ったが、次の瞬間にぶっ叩かれた頬は確かに、女にされるより力があった。どんなに虚ろでも。

「バカじゃないの」

 確かに、

「…実はノンケだったわけじゃないよね?」

 掌サイズの空いているボトルがなんとなくヤバそうなものだと、伸ばされた楓の細い手首を叩き落とすことに罪悪感はなかった。

 後に知る、やっぱりちょっとヤバめなもんで、界隈じゃわりと普通に使われる劇薬であり、一緒に中部屋へ入っていった男から貰ったと。確かにあいつ、腕とか刺青してる、いかにもな男だったな。

 この辺は出会いだと言うのに、「あのオンナ、マジでいいわ」とすれ違い様に言ってきたあいつを思い出すとなぜ殺しておかなかったかなと単純に腹が立つ。
 …だが、皮肉にもそれがありいまがある。俺はそれほど、良いヤツではない。
 実際、あの日のことを楓がどこまで覚えているか、俺に知る由もない、忘れたいなら、忘れちまえばいい。

 と、やり場なくして風呂の排水スイッチを入れる。そう、これがあると温くなると、こんな暮らしを始めてみて知った。普通、蛇口から湯なんて入れるだろうよ、26にしちゃ相当ハイテクだ。

 確かに、初めてにしては熱くて、堪らなくて、虚ろで、だから上擦った声が切なかった。跨がった楓を抱き締めたのはエゴだったのか、物にしてしまいたいと思ったのか。

 排水が済み給湯を開始するまで眺めた。

 あぁ、なんだもう俺ちょっと反応中。最悪だ。楓が気付きませんようにと深呼吸をした。

 助けたかった?
 あの日の欲にまみれた瞳がちらつく。確かに、呼吸不全なまでに助けは求められていたよと、自分に言い聞かせて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

処理中です...