ポラリスの箱舟

二色燕𠀋

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 最早ソラのそれがどちらに向けて放たれた『ダイジョブ?』かはわからない、日本語に満たない一言と伏せられた碧眼。

 全ての現象が雨川の中ではぐしゃぐしゃな、エビが棲んでいるその水の水泡と変わらぬように感じた。

 今更、28年のここへ来て、研究室でこいつと出会った10年とソラが現れた数十分、これがなんだという。ただ、覆ってしまいそうで物凄く、それは怖い。

 何故かこんな、真っ白い滅菌されたぐしゃぐしゃな現実の中で不意に浮かんだ現実逃避の景色が今、甦る。

 あれがポラリス、あれがこぐま座、ポラリスは北極星で点の北極と呼ばれている…

 あの人の優しい笑顔は、夜空を眺める時はどういうわけか、今ならわかる、あれを言葉で表すならば『哀愁』だった。何故か、幼い自分はそれでも彼を、深く愛したのだけど。

『真冬にも見える、真夏にも見える。いつでも、僕たちは』

「真冬、」

 意識の混在を妨げ、男は自分を、雨川真冬を現実へ取り戻す。

「泣いているの?」

 覗き込むように両肩を掴んで背を屈め下から見上げる、あの人によく似たこの男にだけは、悟られたくは、ない。その思いで雨川は南沢から視線を反らした。

「あっちに行け…」
「真冬、」
「違う」

 混在。
 けど違うんだ。ただ言葉は。

「真夏、僕はね」
「真冬、ごめんって!」

 滑り落ちたら止まらない。

「お前のせいでここまで生き長らえたんだよクソ野郎ぉ!」

 違う、違う。

「悪かったって真冬!」

 その南沢の一言で。
 急に身体の芯が冷えたように、高揚に似た感情が沸き、今度は自分でもその冷えに、頬を伝った涙がわかった。それになんだか拍子抜けするも、どこかで大いに満足をした自分がいて。

 その情景を、感情を亡くしたように淡々として後ろで眺めていたソラを漸く見やり、目を合わせて嘲笑ってしまいそうになる自分に、意識は完全に冴えた。今の自分は、歳骨頂に、最低だ。

 人を傷つけ、満足している。
 自分の心を喰らい尽くすか、相手の心を殺すかのどちらかしかない。

「…いいですよ、南沢さん」

 貴様で仕掛けた水槽だ。
 雨川はそれからその冷えた嘲笑を南沢にも向ける。どうしても、好きになれない。誰が、と言うと問いは最早決まっている。

「『飼って』やりますよ。論文まで出してやります。
 知ってますか南沢さん。星もね、その水槽のエビたちと変わらない。喰らうように、くっついてひとつになるんですよ、宇宙のゴミは。上手くいかなければ爆発してまたゴミとなり宛もなく宇宙をさ迷う」
「…違う、」
「精々楽しんでください。俺たちがどう水槽の中で共食いするか。どう、爆発するか」

 違う。
 それが言いたいわけではなかったんだ、純粋に。だがそう南沢が言おうとするも、案外優しそうで素直に哀愁を向けたその笑顔で雨川は後ろのソラの元に少し屈み、「ソラ、ちゃん…」と、不器用に語りかけている。無意識に左手の拳で腰を庇いながら。

「初めまして…。ごめんなさい。
 アマガワ、マフユと申します。よろしく…お願い出来ますか?」
「…マフユ…」
「俺の名前は、…大切な人がつけてくれたのです。
 寒い時期に…俺は産まれました。そんな、理由なんです。君は、どう、」
「私は…ナツエが、名前を、くれました」
「え?」

 笑った顔が、濁りなく。

「意味は、あの、天井?上?なんだって!
会ったとき、ワタが、なかったから、綺麗だったから!」
「ワタ?」
「あの、上にあるやつ?
 とにかく、蒼くて、私の眼みたいだって」
「雲?」
「クモ?」

 雨川が南沢を見れば、照れ臭そうに頷いた。

「…そう、ですか…」

 取り敢えず、この子供の扱いがわからない。

「南沢さん」
「はい、はい」
「貴方は俺にこの子を渡して、どうしたいのでしょうか」
「…うん、」
「ただの研究なら正直に、俺は今」
「違う。君の悪いところはそれだ。人の話を聞かない。
 俺は見たいんだ、人の、心理を」
「はぁ?」

 素直に振り向いてしまった。
だが南沢の表情は、クソほど真面目に自分を見据えていた。

 気に入らない。なんだという。ならば先程言ったではないか。

「…だから、」
「そういう摂理じゃないと、論文抜きで、君とソラを、見ていたいのさ」
「…あぁはい、そうですか、」

 このっ、

「変態が」

 南沢は漸くいつも通り、胡散臭く軽い調子で笑った。「どうもありがとう」と、何故だか少しの、熱を残したような舌を残して。

 人工的な、循環機の音がする、白い箱の空間が目立つ。ここは、水槽の中のような、日常。
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