碧の透水

二色燕𠀋

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 喧騒が去った夜空のような店内は、雨のように湿った人の体温を残している。

 カップルも、モヒートの女も、青田もDJも去ったカウンターで一人ウィスキーを飲む陽一は弟の雪を待っている。客が帰った、あとの広さと等間隔なテーブルとミラーボールは寒苦しく感じてしまう。

 考えてみれば雪はああ見えていつもどこか突拍子のないことを、リズムに身を任すように、自然と流してきたのではないかと思えた。

「俺じゃないでしょ」

 囁きのような、消えそうなあの一言は陽一には衝撃的だった。それが陽一の知り得るたった一度の彼の抗いだった。

 あの部屋は箱のようで、線香の臭いがいまでも蓄膿症のように自分を刺激してくる。
 …おかげで確かに、いまこうして自分は生きているのかもしれない。しかし彼がいうところの「後腐れ」が出来てしまった。

 しかし俺は被害者意識でも同情でも憎しみでもない。では彼はどうだろうか、加害者意識なのか、同情なのか、憎しみなのか。交ざり合わないそれは、ウィスキーの濃さを思い出す。黄金色、物は言いようだ。俺はこの酒もコーラも同じ色ではないか、そう卑屈に考えてしまう。

「お待たせ」

 スタッフルームから出てきた雪は、手持ちしたグレーのジャケットをカウンターチェアに掛け、青い小さな、ショルダーバックからタバコを取り出し早速火をつけた。
 店でこのまま飲むのか他所で飲むのか。

「お疲れ~。鍵よろしくね」

 後から出てきた春斗に「お疲れ様です」と挨拶をした雪はそれから「どうする?」と陽一に訪ねた。

「飯食ってないだろ」

 陽一は場違いな返答をする。
 それも慣れたような気がした雪は、空になった陽一のグラスを特に断りもなく持ち、面倒なのでタバコも咥えたままに片付けをした。

 一息吐いてネクタイを緩めた。タバコはベルトに引っかけていた筒上のケータイ灰皿に捨てる。漸く仕事は終わりだ。

 「何食いたい?」と聞かれるそれには少し嫌気がさすのは、こればかりは陽一のせいではないが「なんでもいい」と素っ気なくなってしまう。仕方がない、思い付かないのだから。

 陽一のみの客席に戻り掛けたジャケットを手にする。
 財布とケータイくらいしか入らないバックに、タバコとジッポを入れてまごつかないかと最近はワンクッションで躊躇う。無難にこのジャケットのポケットに入れて落ちはしないかが一瞬迷うのだが、待つこともなく「じゃぁどっか飯食える居酒屋に入ろう」と陽一は先を歩く。それに雪も結局意識もせずにバックへタバコをしまい後を着いて行った。

 自然体に見える陽一の態度に雪は安心したような、複雑なような心境になる。
 店の鍵を閉めるのも、そんな心境か震えてしまう気がした。

 寒くもないはずのエレベーターにふとした意識のなかでなんだかじわじわ、染み垂れた白ではない空虚が体を登るような、息苦しさに近い思考停止にふわふわした気がした。

 だけど不自然に右手が震えるような意識は掠めた。特にそれを訴えるまでの思考はないがつかえる。落ち着かなくただ、ジャケットを着て左手で押さえてみれば「寒いか?」。これに意識の標識が立った。

「いや、別に」

 不自然な表情で自分を見る陽一に、やはり昔馴染みのような感覚では、多分ないのだと感じた。

 それも、当たり前だ。そもそも互いの付き合いなどないのかと思い出すのに近い感覚に至った。

 しかしここ一年はこれが続いていた。毎週ふらっと陽一はここ一年、雪に何かしらで会いに来ている。

 エレベーターから降りて9月の秋雨前線のような湿った寒さを感じる。先程よりも寒々したような深夜0時半。一時間で空気が変わったのか、自分の感覚が鋭くなったのか。

「急に秋になったよな」

 そんな意味もなく何気ない陽一の一言への返答すら、寒々しく「うん」と途切れてしまう。

 何か喋らなければならないのかもしれないという微妙な暑い空気が間にはあるのかもしれない。だけどこれは低気圧だ。目には見えずと知らないうちに息が吸いにくくなる。こんな時兄がどんな人間か、弟がどんな心境かを、知らない。

 ひとつだけ互いに行き着いた話題があった。だが、こんな時に持ち出すのはどちらが先なのか、どの調子でどの面を下げるのかも難しいと推し量れない。

 曖昧になり開き直って「来月だっけ」と踏み込んだ雪に動揺を隠せたか、陽一は「何が」としか言えないでいる。

「13年?」

 それは空っぽに霧散してしまいそうだが、思い当たって「あ、あぁ」と話題の糸の端っこを漸く掴んでしまった陽一には、鋏を探そうとする視線で雪を直視した。

 雪はそれに「お姉さんが亡くなって」と、開き直るように直接切り出したのだった。
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