碧の透水

二色燕𠀋

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 自分にとって、他人、すれ違っただけの人物の筈だけど、例えるなら道端で激しくぶつかってきても一切の謝罪も無かったような、そんな人物だ。本当はもっと遥かに嫌悪はあったけれど、遠いのだ。

 兄を「そんなものは俺の血を引いていない他人だろ」とはっきり言い捨て最悪な悪事までをも切り捨てた父。同時に陽一の姉まで、そうで。しかしそれも父にはごく自然な現象のようだった。
 恐らく他人の死なんてものは当たり前に間近で見てきたのだろう。

 自分の中では、あの事件は雷のようなものだった。だからこそわかる、陽一が生きられる最終手段で結果ヤクザに仕立てあげてしまった自分のエゴがどこかで許せないのかもしれない。

 だがあの、恐らくはネグレクトで唯一生きる糸だった姉を亡くしてしまった、兄がそれを奪ったその少年に出来た命綱以外を咄嗟に思い付く自分はいなかった。

 いつだってそう。兄にも陽一にも命綱にならない、自殺の首輪を与えてしまう自分は酷く小さいが、それを共有することで喜びがあるほど幼くはないのだ。

 自分はそのぶら下げられた綱を胴に結んで動けなくなる。

 いつか切ってしまいたいなぁと、勝手に逃げ出してしまう甘ったれた気持ちがそうするのだと、また自戒するしかなくなる瞬間が度々訪れるほどに自分は弱いのだ。わかってる、それは自分が一番やってはいけないことなんだ。

 開店と同時に店のドアが開くホワイトノイズを、BGMの隙間から聞く。

「熱心だねぇ」

 ジャズ、ジャミロ・クワイがスタートする。呟いたDJもちらっとその俄か雨を匂わせた来客を覗いたようだ。

「…雪?」

 思っていたものとは違った反応が返ってきた、その人物は陽一だった。

 自分のことを陽一は驚愕とか驚きとか、そんな目で見ているが雪は手元に視線を移した。何事もないように、自然なように。だが、雪がいま一番会いたくない人物だった、わかっていたけれど。

 春斗の「いらっしゃーい」だとかミサトの「早いっすね」だとかもどこか、水の中のようだ。自分は昔から、優雅でゆったりとして、いたかったのだけど。

「…雪」

 陽一は今度は小さい声だった。多分、不安と安堵の相反した複雑さが底抜けに混じるもので。だけどはっきりと届いた気がしてやっぱり、またわざわざ反らした目を見やってしまう。
 目が合えば「お前、」と、やはり切ない、怒り、…安堵。それらの氾濫がミックスする義兄に、雪は自分でどんな表情をしたかはわからない。わからないから「あぁ、陽一」と何事もない水流を目指すしかないのだ。

「お前っ、あの…っ、」

 痞て噛むくせに自分が雪へ何を言いたいのかは陽一にも処理出来ないのだ。
 「雪、どうしたんた三日も」とか、「雪、あれから大丈夫じゃなかったんだな」とか、雪の一目瞭然な生活の廃れに、お前どうしたんだ。多分これが一番適正なのだけど。
 言う義理が有るか無いか、言ってどうなるのかが一番痞る原因なのだ。

 そんなことすら言えるものでは、ない関係。
 
 ダムは恐らく流れを塞き止めたのだ。
 わかっているから、雪はそのまま接客態度の微笑みをいつも通りに兄、陽一へ向け「メキシコーク?」と聞くに留める。陽一は不本意を残して「…うん?」と返事と共にカウンターチェアーに座った。

「あ、」

 何かを思い出したように平然と言う雪は存外冷めた目でミキシンググラスを持つ。陽一はその雪の効き腕に鬱血を見つけた。

「仕事中…では、ないよね?」
「え?」
「ん?」

 雪は存外、冷めている。
 店内のエレクトリックがアシッドに切り替わる。

「いや、…仕事ついでに寄ったけど」
「俺に何か用だった?」
「何か用だったって、」
「連絡してって前回言ったと思うんだけど」
「ユキ、ちょっと冷たくないか?」

 流石にここは第三者がいなければ開店早々から空気が汚れてしまいそうだと春斗が切り出す。

 我に返ったのかもしれない、雪がじっと、春斗を見るのに春斗は腕組みをして対峙する。

 存外雪は空虚だが、真っ更な黒い瞳をしているもんだ。軟水のようなそれに拍子抜けというか、呆れてしまうような意表の突かれ方をしたが、春斗も漸く陽一の目線の先に気がついて、「雪、お前どっかにぶっけたの?」と素直に気持ちは口から出ていった。

「え?」

 全く気付いていなかったようだ。
 春斗が何を言っているのかとぼんやり利き腕を見て漸く雪は、あぁ、浩に出勤前に腕を掴まれたなと思い出す。

 なんて答えようかと考える雪の一瞬の沈黙でなんとなく、ここが気まずいのだと共通認識が露になる。

 けれど皮肉だ。「ああ、」これすらも雪は何事もなさそうに「プレイの一貫です」と変換することしか出来ないでいた。それ以上は誰も入ることのない私有地だ。

 「じゃあ、コーラね」と何事もないような動作の雪にとってはまだ、誰も私有地に入ってしまったわけではないのだろうけど。

「なにやってんすか、ユキさん」

 静観していたミサトが冗談でもない、普通の音域で雪に言ったのは右耳側だった。

 反応出来なかったのか、そのふりをしたのか。だがどうやら雪は今日、難聴らしいなと判断した春斗は陽一にこっそりと「あんな感じらしいです」と添えた。

「なんかあるのは間違いないらしいっすね」
「…そう、」
「不毛だと思いませんか」

 それは。
 果たして、何に対して春斗は言っているのだろうとミサトにすらわからない。けど、確かにごもっともだ。

 茶色いコーラをグラスに注いだ雪に「ユキさーん」と、ミサトもさして感情もない、むしろ皮肉なような間延びで呼んだ。
 間を置いてから「ん?何ミサト」と返事をした雪にミサトは「大丈夫っすか?」とあっさり声を掛ける。

「病み上がりなんで、まあ何かあったら。よーいっさん、ご用事は?」
「あ、そうだ。雪、薬」
「あぁ、うん」
「薬?」
「そう、常備薬。怪しいやつじゃないですよ」
「それもどうなんですかユキさん」
「まぁね、ヤクザっぽいもんね」

 ヤクザだけど。
 冗談めかして言った雪に「えぇ?思ってたけど兄貴に言っちゃうんすかそれ」とミサトが空気を変える。「ははっ」と笑った雪にまわりは漸く、小川の流れを取り戻したような気がした。
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