碧の透水

二色燕𠀋

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 センチメンタルなままに雪は夜道を歩いて帰った。

 夜風など、正直皮膚感覚はイマイチ捉えていないし、見上げた空すら星があるのかないのか、月があるのかないのか、ただ、どうにも網膜の表面張力がそれをぼかして混ぜている。

 少々、飲みすぎたのか、悪酔いしたのか。

 光は目に悪いなと結局は下を向いて歩くのだけど、特に溢れるわけでなく滲んでしまう乱視の景色と、右耳で滲んでしまう9月下旬の風景は混じりあって一つ、自分に流れ着いたのかもしれないと、どこか身を冷ます気がしている。

 歩きタバコは白く、濁りのない。線香のようなタバコ。

『俺の息子か、なら家に来たらいい、生活はいまより楽だろう』

 あの日父親はそう言った。濁りない白の悲しみの空間で。「どうせ隠れて生んでしまったのだし」と、その時母の脱胎経験を知った。

 陽一はこちらと交じる筈はなかった存在だった。ただただ、浩が殺してしまった女の弟、それだけで。
 多分、それだけで罪悪感が入り交じってしまったのだ。そしてその場所に陽一と遥の母が訪れなかった。それを口にした父への嫌悪に、腹立ち紛れに「病気なんです」と言った陽一への同情はあったかもしれないが。

 同じなのかもしれない。破綻していた自分の家と、この弟の環境は。

 ただそれだけで後腐れを作った自分の罪は、子供のそれとは割りきれない物になってしまった。

「その子の人生はどうするの。
そんなの、俺じゃないでしょ」

 だから陽一が青柳に引き取られてしまった。ヤクザだ人殺しだと喚いていた陽一を、黙らせてしまった。

 それからの人生を互いに、高校生では思い描けなかった。
 兄がやってしまった後始末は金でしかなかった。本当にそんなもので済んでしまう筈はないだろう、実際そこには殴られ、犯され、無惨な姿になった人がいるというのに。

 雪にはただただその程度の道徳しか持ち合わせていなかった。

 陽一はそれからすっぱりと母親と縁を切ったようだが雪は母との縁を切っていない。

 切れるはずはない、血の繋がった親子なのだから。いつでも浩から守ってくれた母に、自分はあの日、聞いたのだ。「ねぇ母さん、どうして俺を生んだわけ?」と。

 子供なら連れ子だったとしても浩がいたのだし、脱胎しなければならないような男の子供がどうして必要だったのだろう、雪を連れて行かないでと母が泣いたのはなぜだろう。

 母はその場では答えてくれなかった。その場に陽一がいて自分を泣きそうに見ていた霊安室の廊下を思い出す。自分のことしか考えられなかったのかもしれないと、後悔しか浮かばなかった。

 陽一がいまだに自分と離れずにいることも、あの父のせいなのか。こんなにも人と解り合えない自分は半分あの男と、混じり合っていて。兄ともそうで、だから気持ちが悪い。

 あの日の陽一への下手な共鳴と下手な同情は傷が付いて歪なもので。陽一もこんな気持ちならと思うと上手く処理が出来なくなる。
 けど、昔から、物心付いた時から自分に一つある丸く溶けない芯は、つまらないことに何にも混ざらない。

 部屋の前まで来て、部屋の灯りがついていないと気が付いた。浩は家にいないのか、寝ているのかと静かにドアを開ける。

 微かに漏れた家の常夜灯と熱く蛍のような女の生々しい声、兄の興奮と煽り。解け合ったそれに雪の心は急速に冷却されていった。

 ねぇなんで。

 ただ、聴こえるように扉を閉め、やるせなくケータイを眺めながら階段を降りた。

 そうか、夜の空気は清々しく乾いているじゃないか。

 眺めた先の「青田さん」にふと電話を掛けていた。

 乾いた、押し潰された寝起きの「…はい」に、少し安心したような気がした。

「…こんな時間にごめんなさい。青田さん、今会えないかなと」
「…なに、どうしたのキヨムちゃん」

 どうしたか。

「…どうだっていいでしょ、」

 沈黙の後に六本木のビジネスホテルの住所を聞いた。歩いて行ける距離だった。
 コンクリートが冷えた夜道をテキトーに歩いてタクシーを拾う。特に理由はないけど夜の空気を吸いたくない、右耳は何も捉えないけど、空中霧散にチルアウトしてしまえ。
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