23 / 45
四
1
しおりを挟む
白い。紫煙。どうして。夢のようだ。ここは、なんで、眩暈がする、耳鳴りがする、傷がある、どうして、
ディスコード。
我に返った。
そして陽一の手は止まり、胸ぐらを掴んで組み敷いたその男が何者なのかわかってるが判断は遅れた、そう、この男は過去に姉を殺した男で義父のヤクザの息子で何より雪の実の兄で、姉の棺桶が思い浮かぶ、あの日持った位牌の木の質感と実感や現実から遠退いた只の血液の成の果てである涙が湿るその日の自分の空虚が今手に余っている。
「陽一、」
我に返った。この男はどうやらまだ微かに生きているが。
「殺しちゃいなよ、怖いんでしょ」
声に振り向いてその1Kの朝と自分を止めようとしていた雪の、どうとも言えない表情に、陽一の全てが脱力し情動の向きが不自然に変わり掴んだシャツを、手放した。
どんな風に自分を思っているのか、沈黙は語ってしまうが回折格子のようなものだった。光ではこの機密な気持ちを映すことは出来ない。
雪の、諦めと驚愕と悲しさが溶かしあった表情は、なんだろう。
陽一の、脱力と空虚と悲しさが交ざった表情は、なんだろう。
陽一は浩を寝かせたまま「大丈夫だ」と短く雪に告げ俯くようにタバコを指に挟んで咥えた。その右手のMP関節は、少し赤く損傷している。
「殺してないよ」
けど、死にそうかもしれない。
冷めた顔をしているが、陽一は恐らく何かしら、手の甲くらいに損傷したはずだ。
浩は死ぬのかもしれないが、雪の思考回路は何故か救急車を呼ぼうと思い至らなかった。いや、片隅にはあるがそれよりも「陽一…」と呼んで硬直するに至る。
「雪、」
脱力してその場に座った陽一は言う、恐らくは「なんで言わなかったの」と。タバコの火はつけない。
人のせいにしていることにも陽一は嘲笑したいような、そうでもないような気がしている。
答えようかと息を薄く吸う雪は、結局それを呑み込むことしか出来ない。ただ、歯が噛み合わないほどにはどうしたらいいのか、頭には浮かぶのだけど。
「…ごめん」
少し砕けたように、だけど脱力を残した口調で陽一は漸くタバコに火を点けた。
謝るのは、きっと自分だろうに。
いざこうなってしまえば言葉など、臆病が過ぎる。意味は霧散するみたいで。
雑じり気なさなどはっきりしているのに、全てが混ざって見えなくなる。ホワイトノイズだ……広大な、空のような沈黙だ。今ここにはたくさんの思いがあるはずなのに。
どこを見ているのか、空気を読んでいる陽一の二口目に雪は漸く「…どうして」と、言うことしか出来ない。
混ざりあった、はっきりと後悔だとわかる陽一の無表情と雪の言葉はクロスする。クロスフェードする前に「言えなかったんだ」と絞り出した。
「…どうして…来ちゃったの、陽一」
「…変だなぁと、思って」
いちいち、
「…はぁ?」
互いの距離が、
「…昨日のお前が変だなって、」
「なんで、」
重い。
「…なんとなくだよ」
「…どうして」
そんなことのためにこんなところに来てしまうんだ、あんたは。
『いいよ』
霊安室の諦めたような陽一を思い出す。
線香の紫煙は、細く昇っていた。白い壁に吸収されるように。
『あんた、世話してくれるって、本当だよね?』
それは、本当だったのかもしれない。ヤクザ者と関わりが出来たと、それから陽一の母は蒸発してしまったのだと後に知った。
あのとき、陽一は高校二年生だった。高校も辞めたそうだ。
一年だった雪はそれからちゃんと、漸くちゃんと、残り二年の生活を、父親の体裁で過ごしたというのに。
体裁とはなんなんだと、急に色褪せた世界に自分もそんなものは辞めてしまったのだけど。それすら疑問に苛まれて来た。
何故自分は今ここにいるのかという、悩みにすらなったのも贅沢だと感じることにも眩暈のような倒錯があった。
「ぅう…」
唸った浩に、確かに生きていたのだと雪は確認した。
どうしてか、雪にはよかったという感情がほんの少ししかなかった。ほんの少しもあったことに驚きだ。危うく陽一も殺人犯になるはずなのに、なにより、実の兄弟のはずなのに。
腐っても、母が生んだ男に違いが、ないだろうに。
「…起きたか、」
吸い殻は転がったビールの空き缶に捨て、陽一は酷く排他的な目で浩を見下した。
どうやら、浩にはもう、この男へは何事もないのかもしれない。
咳き込んで何も言えない浩の胸ぐらを掴んだ陽一は「救急車はいるか、森山浩」と、平坦に言う。
答えなくても陽一は再び浩を離し「いらねぇよな、」と言い捨てた。
「どこもなくなってねぇもんな。歩けるならさっさと世話になったところに帰れよ」
「…だ、」
「誰か知りたいか?
お前みたいなバカに名乗るつもりはないけどな、川上だ」
浩は錆びた鈍音を立てる思考回路の行き先で、ちらっと雪を見つめるに至る。
雪はそれに「…義兄だよ」としか答えられなかった。本当は陽一の分の「てめぇが殺した女の弟だ」と、吐き捨ててやりたかった。
「かぁか…」
「…青柳誠一郎といえばわかるよな、舎弟だ。
お前、誰に身元を頼んだんだ」
「…は?」
「青柳はお前のことを探しているようだぞ」
「なん…」
「知らねぇよ。面倒だからだろ」
「…ふ、」
それは誰に対する嘲笑か。
浩はそれから苦しそうにひぃひぃ言いながら咳き込み、絞り出した。「お前、キャバクラの弟か」と。
陽一は答えない。
「…俺を、殺す気かっ、」
「…バカでも話は出来るらしいな」
「…そこにいる、本家に、頼んだぁいいだろ」
…会話が不透明に感じた。
ディスコード。
我に返った。
そして陽一の手は止まり、胸ぐらを掴んで組み敷いたその男が何者なのかわかってるが判断は遅れた、そう、この男は過去に姉を殺した男で義父のヤクザの息子で何より雪の実の兄で、姉の棺桶が思い浮かぶ、あの日持った位牌の木の質感と実感や現実から遠退いた只の血液の成の果てである涙が湿るその日の自分の空虚が今手に余っている。
「陽一、」
我に返った。この男はどうやらまだ微かに生きているが。
「殺しちゃいなよ、怖いんでしょ」
声に振り向いてその1Kの朝と自分を止めようとしていた雪の、どうとも言えない表情に、陽一の全てが脱力し情動の向きが不自然に変わり掴んだシャツを、手放した。
どんな風に自分を思っているのか、沈黙は語ってしまうが回折格子のようなものだった。光ではこの機密な気持ちを映すことは出来ない。
雪の、諦めと驚愕と悲しさが溶かしあった表情は、なんだろう。
陽一の、脱力と空虚と悲しさが交ざった表情は、なんだろう。
陽一は浩を寝かせたまま「大丈夫だ」と短く雪に告げ俯くようにタバコを指に挟んで咥えた。その右手のMP関節は、少し赤く損傷している。
「殺してないよ」
けど、死にそうかもしれない。
冷めた顔をしているが、陽一は恐らく何かしら、手の甲くらいに損傷したはずだ。
浩は死ぬのかもしれないが、雪の思考回路は何故か救急車を呼ぼうと思い至らなかった。いや、片隅にはあるがそれよりも「陽一…」と呼んで硬直するに至る。
「雪、」
脱力してその場に座った陽一は言う、恐らくは「なんで言わなかったの」と。タバコの火はつけない。
人のせいにしていることにも陽一は嘲笑したいような、そうでもないような気がしている。
答えようかと息を薄く吸う雪は、結局それを呑み込むことしか出来ない。ただ、歯が噛み合わないほどにはどうしたらいいのか、頭には浮かぶのだけど。
「…ごめん」
少し砕けたように、だけど脱力を残した口調で陽一は漸くタバコに火を点けた。
謝るのは、きっと自分だろうに。
いざこうなってしまえば言葉など、臆病が過ぎる。意味は霧散するみたいで。
雑じり気なさなどはっきりしているのに、全てが混ざって見えなくなる。ホワイトノイズだ……広大な、空のような沈黙だ。今ここにはたくさんの思いがあるはずなのに。
どこを見ているのか、空気を読んでいる陽一の二口目に雪は漸く「…どうして」と、言うことしか出来ない。
混ざりあった、はっきりと後悔だとわかる陽一の無表情と雪の言葉はクロスする。クロスフェードする前に「言えなかったんだ」と絞り出した。
「…どうして…来ちゃったの、陽一」
「…変だなぁと、思って」
いちいち、
「…はぁ?」
互いの距離が、
「…昨日のお前が変だなって、」
「なんで、」
重い。
「…なんとなくだよ」
「…どうして」
そんなことのためにこんなところに来てしまうんだ、あんたは。
『いいよ』
霊安室の諦めたような陽一を思い出す。
線香の紫煙は、細く昇っていた。白い壁に吸収されるように。
『あんた、世話してくれるって、本当だよね?』
それは、本当だったのかもしれない。ヤクザ者と関わりが出来たと、それから陽一の母は蒸発してしまったのだと後に知った。
あのとき、陽一は高校二年生だった。高校も辞めたそうだ。
一年だった雪はそれからちゃんと、漸くちゃんと、残り二年の生活を、父親の体裁で過ごしたというのに。
体裁とはなんなんだと、急に色褪せた世界に自分もそんなものは辞めてしまったのだけど。それすら疑問に苛まれて来た。
何故自分は今ここにいるのかという、悩みにすらなったのも贅沢だと感じることにも眩暈のような倒錯があった。
「ぅう…」
唸った浩に、確かに生きていたのだと雪は確認した。
どうしてか、雪にはよかったという感情がほんの少ししかなかった。ほんの少しもあったことに驚きだ。危うく陽一も殺人犯になるはずなのに、なにより、実の兄弟のはずなのに。
腐っても、母が生んだ男に違いが、ないだろうに。
「…起きたか、」
吸い殻は転がったビールの空き缶に捨て、陽一は酷く排他的な目で浩を見下した。
どうやら、浩にはもう、この男へは何事もないのかもしれない。
咳き込んで何も言えない浩の胸ぐらを掴んだ陽一は「救急車はいるか、森山浩」と、平坦に言う。
答えなくても陽一は再び浩を離し「いらねぇよな、」と言い捨てた。
「どこもなくなってねぇもんな。歩けるならさっさと世話になったところに帰れよ」
「…だ、」
「誰か知りたいか?
お前みたいなバカに名乗るつもりはないけどな、川上だ」
浩は錆びた鈍音を立てる思考回路の行き先で、ちらっと雪を見つめるに至る。
雪はそれに「…義兄だよ」としか答えられなかった。本当は陽一の分の「てめぇが殺した女の弟だ」と、吐き捨ててやりたかった。
「かぁか…」
「…青柳誠一郎といえばわかるよな、舎弟だ。
お前、誰に身元を頼んだんだ」
「…は?」
「青柳はお前のことを探しているようだぞ」
「なん…」
「知らねぇよ。面倒だからだろ」
「…ふ、」
それは誰に対する嘲笑か。
浩はそれから苦しそうにひぃひぃ言いながら咳き込み、絞り出した。「お前、キャバクラの弟か」と。
陽一は答えない。
「…俺を、殺す気かっ、」
「…バカでも話は出来るらしいな」
「…そこにいる、本家に、頼んだぁいいだろ」
…会話が不透明に感じた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる