紫陽花

二色燕𠀋

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For Someone

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「Man is not made for defeat. A man can be destroyed but not defeated…か。」

 お昼休みに二人にメモ帳を見せたら、岸本先輩は少し切なそうにそう言った。

「どーゆー意味?」

 浦賀先輩がそう聞くと、数秒見つめてから岸本先輩は目を反らした。

「“人間は、負けるように造られてはいない。殺されることはあっても、負けることはないんだ”
 ヘミングウェイの『老人と海』の一文だよ」

 とても、綺麗な一文だと思った。先輩たちはどう思ったのだろう、何をみっちゃんに返すのだろうとワクワクしたのだが…。

「…へぇ。小日向さん、」
「はい?」
「君のお兄さんは面白い」
「…そう、ですかねぇ」

 浦賀先輩は、なんだか穏やかに微笑んで、空を見上げていた。

「良いお兄さんだなぁ…」
「歩…?」
「いいなぁ…。君はとても幸せなんだろうな」
「…まぁ、変な人だけど、私は確かに幸せです。
 私は、彼に救われました。死ぬような思いをして、世界なんて灰色だった。そこに色を教えてくれて、漢字を教えてくれて、そして…そして…。
 たくさんのことを教わりました。単純なことなんです。呼吸をすること、目を瞑ること、肌で風を感じること…人と関わること。
 だから私は彼らが、好きです」
「君はね、小日向さん」
「はい」
「多分、俺が持ってないものを持ってる気がするんだ。
 例えばさ、俺は、青空を持ってないんだ。こんなに純粋な妹もいない。素直な自分も、正してくれる大人も。だからね、小日向さん」
「はい…」
「君にはなんとなく、大切にして欲しいなーなんて、ちょっと思っちゃった。
 あー、忘れて忘れて。ちょっとお兄さんに感化された。ありがとう。でもちょっとすっきりした。
 メモ帳、明日返すわ」

 何故か寂しそうだ。
 浦賀先輩は吸いかけのタバコをもみ消して灰皿に捨て、まだお昼休みは終わらないというのに、ふらふらと屋上から去ろうとする。

「歩?」

 岸本先輩の呼び掛けにも、「ん、今日は帰るよー」と、軽く返した。

 なんだか、機嫌を害したのだろうか。

「浦賀…先輩?」
「また明日ね」

 屋上のドアは閉められた。残された私たちは言葉が見つからない。

「…ごめんなさい」

 なんとなく、私が悪いのかもしれない。そう思って岸本先輩に謝ったのだが、岸本先輩は悲しそうに微笑んで、「いや、」と否定した。

「悪いのは、君じゃないんだ。
 浦賀が言う言葉はすべて、大体は嘘じゃない。思ったことしかあいつは言わない。
単純に、素直に心に来たんだろう」
「でもそれって」
「ヘミングウェイの仕業だね」
「あの人…」
「まぁ、明日になれば、治るよ…」

 そーゆーものなのだろうか。
 心の傷って、そんな単純な物なのだろうか。

「明日会ったらなんて言えばいいですか?」
「普通に、おはようございますとかでいいよ。気を遣わないでやってくれ」
「岸本先輩」
「ん?」
「実は…一喜先輩、いま図書室に一日中いるんです。謹慎中なんです。会って行きませんか?」
「って言ってもよく会うけどね」

 少し、嬉しそうだった。

「まぁたまには俺も本でも読むか。授業もサボろう」
「私も次は英語ですが、なんかいいや。いまのでやる気なくなっちゃった」

 二人で笑い合った。

「君はそろそろヤバイんじゃないか?」
「いえ。進路相談とか先生がいない授業とか以外は出てます」
「まあ、わかるけどさ」

 早めにお昼を済ませて図書室に向かった。

 図書室に入るといつものゆっくりとした雰囲気とはなんとなく違っている気がした。

隆平りゅうへい…!」

 なんだか慌てたような、切迫したような雰囲気で一喜先輩は岸本先輩を見ると椅子から立ち上がった。そこで漸く私が目に入ったらしく、「あぁ、小日向さん…」と、少し混乱を解すように、まるで言い聞かせるように呟いた。

「やぁ一喜。本を借りに来たついでに顔を見に来たよ」
「あそう…」

 なんだか落ち着かない様子だ。何かあったんだろうか。

「君が謹慎だと聞いたんだけど、珍しいな」
「うん、まぁ…なぁ、」

 ふと、一喜先輩は机の上に置いてあるメモ帳を見せてきた。
 そのメモ帳は間違いなく私のものだった。

「あれ?」
「いま、歩が来て…これを置いてった」

 渡されたメモ帳のページ。見るとそこには、筆記体の下に見慣れない字が書き足されていた。

“あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。苦しいのは、あなたが逃げているからです。それだけです。”
と。

「…喧嘩した」
「一喜…」
「嬉しそうに、見せてきたから。日本語で返した」
「なんで…」
「腹が立ったから。
 最初は笹木について聞いてきた。この謹慎は笹木が関わってるんじゃないかって。それから、話していくうちに、あいつが、
「やっぱり俺は、ダメな兄貴だよ」って言ってこれ見せてきたからさ。嫌味かよって。
 そしたら、「悪かったね。いままでごめん」とか言って出て行っちゃったよ」
「え…」
「隆平、あいつさ」

 岸本先輩は俯いた。なにも語らずに俯いている。

「お前さ、ひとつ聞いていいか?」

 そう一喜先輩が言っても答えず黙って俯いている。

「なんか知ってんじゃねぇの?なぁ、だったらさ、黙ってないで答えてやってくれよ。俺だって知りたい。とおるのこと、お前…」
「わかった口利くなよ」

 その低く捻り出したような、微かな声が、一番図書室に響いた。

 言った後に岸本先輩は顔を上げてなんとか笑顔を取り繕おうとしてるが、顔が強ばっていた。

「隆平…」

 握られた拳に力が入っている。多分岸本先輩は何かに耐えている。
 二人の何かを抱えている。
 それを見て一喜先輩は、岸本先輩の肩を優しく撫でて、拳に手を添えた。

「わかったわかった。ごめん。
 隆平、昔から嘘が下手くそだな。
 でもダメ。
 お前の一言を最初に待ってるのは俺じゃない、歩だ。あの時からだよな…?歩がお前を名前で呼ばなくなったの。
 俺は次でいい。まずは、まずはあいつのとこに行ってやってくれ。じゃないと、この誤解が解けないと俺はずっとあいつを恨んだままだ」

 岸本先輩は俯いたまま、小さく頷いた。

「お前のためにも、抱えたもん降ろしてきて。
 俺は今更、いいよ、全部受け入れるから」

 そう言って肩を叩いて微笑んだ。岸本先輩はゆっくりと振り返って、図書室を出ていった。

「悪かったな。内輪揉めというやつだ」
「一喜先輩…」

 なんとなく、だけど、話の端っこを掴んだ気がする。

「ヘミングウェイかぁ…。中学校の時みんなではまったんだよ。今見ると、わりと良いこと書いてあるなー。
 ませたガキだったね…俺…たちさ…」

 急に一喜先輩の目から静かに流れた涙。「あれ?」とか言って拭ったら、どんどん溢れてきたようで。取り敢えずハンカチを貸して座らせた。

「あーもう…。ごめん」
「いいですよ」

 ただどうしていいかわからないから背中を擦ってあげたりしか出来ないけど。

 然り気無く栗田先生がお茶を淹れてくれた。
 お茶が少し冷めた頃に漸く落ち着いたようで、一呼吸してからお茶を飲んでいた。

「あー。ごめん、マジ情けないわ」
「そうですか?結構カッコいいと思いましたよ」
「えぇ?こんなぼろっくそに泣いてんのに?」
「だからこそです。だって、こんな時に、辛いときに泣けない方がカッコ悪いですよ。そんなのただ痛々しいだけだもん、見てる方は」
「そう…かなぁ…」
「幼馴染みの前ではちゃんと凛としてたし、カッコいいですよ。岸本先輩のことだって、嫌いと言いつつ浦賀先輩のことだって、ちゃんと気遣ってるじゃないですか。あの二人にはないところでしょ?多分」
「まあ…だって古い付き合いだし」
「仲直りできるといいですね…。私はよく、あなた方のことはわかりませんけど」
「…出来るかなぁ」

 そう言ってかずき先輩はしばらくして、重い口を開いた。

 先輩たちの過去を、少しずつ語り始めたのだった。
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