証拠はありますか?

まー猫

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証拠はありますか?

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「それ、どういう意味?」

彼女の声が鋭く跳ねた。
僕はとっさに言葉を飲み込んだが、もう遅かった。

いつものように、部屋で映画を観て、少しお酒を飲んで。くだらない話をしていたはずなのに。
たしか僕は言ったのだ。「最近、あのバンド、ちょっと飽きてきたかも」って。
それだけのことだったはずだ。

「・・・ふざけんな」

彼女の低い声。急に鋭くなった眼光。
次の瞬間、僕は頬に鋭い痛みを感じた。
一瞬のことで何が起きたか分からなかった。
驚く間もなく僕の髪は彼女の手によって乱暴に掴まれ、激しく何度も振り下ろされていた。

「やめてくれ!」

僕は防戦するしかなかった。立ち上がっても、彼女は後ろから体当たりしてくる。
足元のCDケースが飛び、ゲームのコントローラーが壁に当たって割れた。
彼女は泣きながら喚いていた。「信じてたのに・・・」

 (やばい)

僕はスマホを取り出し、110番した。それを見た彼女は目を見開いて、叫んだ。

「何やってんだよ!!」

十分も経たないうちに、インターホンが鳴った。
警官は二人。僕と彼女は別々の部屋に案内され、それぞれ事情を聴かれることになった。

「・・・君の話は分かりました。嘘をついてるようには見えない。でもね」

警官のひとりが、眉をひそめて言った。


「正直に言うとね・・・こういうケースって、どうしても男の人が強い立場にあると見られやすいんだよ。
僕らも慎重にならざるを得ないんだ」

「そんな!暴力振るったのは彼女のほうですよ」

「いや、実はね・・・彼女も君から押さえつけられたって言ってるんだ。
君が相手から一方的に暴力を振るわれた"証拠"、何かあるの?」

"証拠"。そんなものは刑事もののドラマやアニメでしか目にしたことがない。
だいいち、信頼する相手のことを疑って記録するなど、今まで考えてもみなかった。
ただ自分の部屋で、相手からいきなり暴力を受けて、怖くて通報した。それだけのことだ。

「・・・いえ、何もありません」

小さく答えた自分の声が、情けなく響いた。

それから数日後。ひとり夜道を歩きながら、僕は何度も反芻した。
部屋に監視カメラを置けばよかったのか。録音しておけばよかったのか?
でもそれは相手との信頼関係を、いとも簡単に崩壊させやしないか。
次もし似たようなことに遭遇したら、今度こそ"証拠"を残せるだろうか・・・

コンビニで買った苦いコーヒーを飲みながら、さらに考えた。

"加害者"と"被害者"って、どこで決まるんだろう。
性別か。声の大きさか。相手を信じさせる演技力か。
そして決定的な"証拠"がなければ、痛みはなかったことにされるのか。

そして「男から女」が"普通"で、「女から男」は"逆"―
あまりに陳腐なレッテル貼りじゃないか。

僕はこれからも、誰かと関わりながら生きていくだろう。
ただ一つ、心に決めたことがある。

何があっても、誰の痛みにも、僕は「逆」なんて冠言葉をつけまい。
それは痛みを、痛みでなくしてしまうからだ。
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