裸足の人魚

やわら碧水

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第五部

第六章・広い世界に(その3)

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 校門へと続く桜並木のスロープを下るときも、小百合は辺りを懐かしそうに見回していた。毎年春には薄紅色の花で彩られるこの桜並木も、今の季節は葉が青々と茂っていた。

「この桜並木の坂道を歩いているだけでも、学生時代に戻れたような気がするわ」

 しかし小百合が学校に通っていた当時と今とでは、学校から駅までの通りに連なる店のラインナップもだいぶ変っているようで、小百合は学校からの帰り道によく買い食いをしたベーカリーが閉店して別の店に変っているのを見て寂しそうにしていた。

「あの震災のときはこの辺もめちゃくちゃになって大変だったけどね。そのときは松風に通っていた私たちも避難所でボランティアをやったりしたんだから。でもその頃に比べると、この辺も新しいマンションが増えているわね」

 それから潮音たちはみんなで、電車に乗って神戸の中心街の三宮に向かった。三宮の市街地が多くの人でにぎわっているのを見て、小百合もどこか感慨深げだった。

「やっぱり三宮はいつ来ても人が多くてにぎやかよね」

 そして小百合は、商店街の一角にある喫茶店に潮音たちを誘った。小百合が潮音や紫、琴絵と同じテーブルを囲んで椅子に腰かけると、小百合は扇子で身の周りをあおぎながらほっと一息ついていた。

「やっぱり日本の夏ってイギリスより暑いわ。日差しだって強いし。エドワードがばててなければいいんだけど…」

 その隣のテーブルでは、キャサリンが久しぶりに再会した父親のロバートや弟のエドワードと英語で親しげに会話していた。その一方で潮音たちのテーブルにも人数分の冷たい飲み物が運ばれてくると、話の内容はまず小百合が松風女子学園に通っていた頃の話やイギリスでの生活、今生徒たちの間で流行している物事などについてのとりとめもない世間話になった。それでも理事長の娘の美咲が結婚するという話になったときには、小百合も驚いていたが。

 そして話もたけなわになったところで、琴絵が身を乗り出して小百合に話しかけた。

「私はちっちゃな頃からピーターラビットの絵本を読んでいたし、小学校の高学年からはシャーロック・ホームズやナルニア国物語、ハリー・ポッターなどを読んできました。そして去年の文化祭では『ロミオとジュリエット』の劇をやったのですが、私が脚本を書きました。だから私はずっとイギリスに憧れているのです。今日もロバートさんから、イギリスの本のこととかいろいろ聞かせてほしいです」

 興奮気味に話す琴絵の顔を、小百合は笑顔で見つめていた。

「あなたがイギリスに憧れる気持ちだってわかるわ。私だってちっちゃな頃からピーターパンやメアリー・ポピンズを読んできたもの。ピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターが住みついた湖水地方にだって何度か行ったし。それにしても文化祭で劇をやるうちの学校の習慣は、今でも続いているのね」

 そこで小百合は語調を変えた。

「でも実際にイギリスに住んでみると、日本の方が良かったと思うことなんかいっぱいあるし、逆に外国で暮したら日本の文化の良さがわかるようになるよ。どこの国だって観光旅行で行くならともかく、生活していこうと思ったら大変なことなんかいくらでもあるしね」

 小百合の言葉に、琴絵は神妙な面持ちで答えた。

「だからキャサリンには、日本語や日本の遊びを教えてきたのですか」

 そこで小百合は、琴絵を慰めるかのように言葉を継いだ。

「キャサリンにはイギリスでも日本でも、そのどちらに行っても恥ずかしくないような人間になってほしいと思ったからね。ともかくあなたもいつかお金を貯めて、イギリスに行くといいよ。いろんな本で読んだロンドンの街並みを歩くと、やっぱり感動するから。あなたたちはまだ若いから、これからやれることなんかいくらでもあるしね」

 そして小百合は紫を向き直して言った。

「そちらのあなたは、これだけ私の話を聞きたがるってことは、やっぱりあなたは将来外国に行きたいって思っているわけ?」

 紫は小百合を前にしても、何ら物怖じすることなくはっきりと答えた。

「はい。私は二年前にカナダにホームステイをしましたが、そこで雄大な自然を見て、世界のあちこちのもっと広い世界を見てみたいと思うようになりました。だから英語の勉強だってちゃんとやっています。それに私はバレエもやっているけど、ロンドンにはロイヤルバレエ団がありますしね」

「私もロンドンのロイヤルオペラハウスにはちょくちょく行っているわ。キャサリンを連れて行ったことも何度もあるし。専属の日本人ダンサーもいるのよ」

 小百合の口から「ロイヤルオペラハウス」という言葉を聞くと、紫は目を輝かせた。

「私もぜひロンドンのロイヤルオペラハウスに行ってみたいです」

「頑張ればこれからロンドンやヨーロッパに行ける機会なんかいくらでもあるよ」

 小百合はにこやかに話したが、そこで紫は話題を変えた。

「あの…ロンドンでキャサリンや弟を育てるのはやっぱり大変じゃなかったのですか? 子どもを育てるのはただでさえ大変なのに、ましてロンドンでキャサリンをこんなに立派に育てたのだから、キャサリンのお母さんってやっぱりすごいと思います」

 紫が尋ねるのを聞いて、小百合はふと息をつきながら答えた。

「大変じゃないわけないでしょ。子どもなんて誰だって、親やまわりの大人に迷惑かけながら大きくなっていくものよ。キャサリンだってちっちゃな頃はやんちゃでわがままで、きかんぼだったんだから。いたずらをしたり、エドワードとケンカをしたりすることだってしょっちゅうだったし」

 潮音と紫は、日ごろはおとなしくて礼儀正しいキャサリンにこのような過去があったなんてと思って、意外そうに互いの顔を見つめ合った。小百合はそのような潮音と紫の様子を見つめながらニコニコして口を開いた。

「でもね、子どもは嬉しいときは笑ったり喜んだりするし、悲しいときには泣く。そしてごはんを食べたらおいしいと言うし、子どもの描いた絵や作った工作を見たときや公園で一緒に遊んだときは私だってほろりとさせられる。それはどこの国だって一緒よ。たしかにまわりに知った人もあまりいなかったイギリスの慣れない環境で子育てするのは、日本で子育てするよりもずっと大変だったと思うけど、それでもキャサリンとエドワードの顔を見ていると私だって負けてられないと思ったわ」

 そこで潮音は、再びモニカのことを思い出していた。モニカもフィリピンから来日して苦労だってあったにもかかわらず、表向きは陽気に振舞いながら流風を育てて、綾乃や自分にも優しく接してくれたではないか。そして潮音は、小百合の顔をはっきりと向き直して口を開いた。

「私の祖母はフィリピンの出身で、祖父が高齢になってから再婚したんです。…歳は私の母とあまり変らないけど。この人はいかにも南国育ちの明るくておおらかな人で、私にも英語の歌をよく教えてくれるなどしていろいろ優しくしてくれました。でもその陰では、人に言えないような苦労をだいぶしてきたと思います」

「だったらそのおばあちゃんに、本当にありがとうという気持ちをもう一度ちゃんと伝えたらいいんじゃないかな。それだけでもおばあちゃんは喜ぶと思うよ」

「はい…そうしようと思います。でもキャサリンのお母さんって、どうしてイギリスに行ったのですか」

 その潮音の言葉を聞いて、小百合は軽く首を振った。

「そんなの私だってわかんないね。私は最初に入った会社でロンドンに駐在することになったけど、そこで働くうちにロンドンでもっと自分のやりたいことをやってみたいと思うようになって、そのまま会社を辞めて今の旦那と結婚してここまで来たんだけど。私の父は私が旦那と結婚してイギリスに永住することに最初は猛反対して、それから何年間かは口もきいてくれなかったね。それでも今じゃキャサリンを自分の家に住ませてくれているけど、やっぱり孫はかわいいのかしら」

 潮音は小百合の話を聞きながら、外国に行っても自分の「やりたいこと」を追求しようとする小百合の姿勢にはかなわないと感じていた。そして潮音はぼそりと控え目な口調で話し始めた。

「ロンドンに行ってやりたいことって…。私はその『やりたいこと』がわかんないから悩んでいるのです。キャサリンだってもう私と同じ歳で、日本に行きたいという目標を持って、親元を離れて行動しているのに」

 潮音が沈みがちな口調で話すのを前にしても、小百合の態度はさばさばしていた。

「あなたくらいの年頃だったら、そんなのわかんなくて当り前よ。だからそんなことでクヨクヨ悩んでる暇なんかあったら、その間に自分の手足を動かして勉強するなり自分のやりたいことを一生懸命やるなりしてみな。そうすれば自分の進む道だって見えてくるものだから。キャサリンがまさか私の行っていた学校に行くことになるなんて思わなかったけど」

 そこで小百合はさらに話を続けた。

「こうしてみると、人の運命なんてどうなるかわかんないものよね。私だって最初に入った会社でイギリスに派遣されてなかったら、今でも日本で暮していたかもしれないし、結婚だってしていたかどうかわかんないけど」

 その「運命」という言葉を聞いて、潮音は身震いを感じていた。自分があの日、古い土蔵の中であの鏡を手にして、そこから自分の性別が変ってしまったことも運命だったのかと、潮音は心の動揺を抑えることができなかった。

 潮音が体をわなわなと震わせるのを見て、小百合も驚きの色を見せた。

「どうしたの? 何か気にさわることでも言ったかしら」

 そこで紫と琴絵が、あわててその場を取り繕おうとした。

「いや…この子はいろいろ事情があって、ちょっと精神的に不安定なところがあるから」

「そうなの」

 小百合は紫の説明を聞きながらも、潮音を見ながらやはり心の中では疑念が抜けないようだった。

「ともかくもう夕方だし、私たちも家族でこれから出かけるから、そろそろお開きにしましょうか。みんな自分の好きなことを頑張るのはいいけど、勉強もしっかりやるのよ」

 それから潮音と紫、琴絵は喫茶店の入口でキャサリンの一家と別れた。そこで紫たちは丁寧にお辞儀をした。

「今日は私たちにいろんな話をして下さりありがとうございます」

 潮音と紫が二人で帰途についてからも、紫は小百合と話したときの余韻から抜けられないようだった。

「私もロンドンのロイヤルオペラハウス、いっぺん行ってみたいわあ。でもキャサリンの弟のエドワードってかわいいじゃない」

「紫はまずそういうところに目が行くのかよ。でもキャサリンも両親や弟と仲良さそうで良かったよね。離れて住んでいても家族ってつながっているのかな」

 潮音がほっと息をつくと、紫もそれに笑顔で応えた。

「ところでさっき潮音が話していた、フィリピン人のおばあちゃんって、流風お姉ちゃんのお母さんのことでしょ?」

 潮音が軽くうなづくと、紫はさらに潮音に尋ねた。

「流風お姉ちゃんは今年高三で、受験のためにバレエの練習も休んでるけど、今勉強頑張ってるの?」

「ああ。まだどこの大学行くかはわかんないけどね」

「でもさっき、話の途中で潮音の様子がちょっと変になったから驚いたよ。いったいどうしたの?」

「いや、キャサリンのお母さんが『運命』なんて言葉を使ったから、男だった自分が今こうしてるのもやっぱり運命だったのかなって思ったから…」

 潮音の語調が重くなったのを聞いて。潮音はやはり自分が男から女になったことに対して、心の中で葛藤を抱えているのだと紫は感じていた。

「そんなのわかるわけないじゃん。たしかに潮音のことは運命だったとしても、潮音はそれを言い訳にしたくないと思ってここまでやってきたわけでしょ? だったらそれで十分じゃん」

 紫がこのように言って潮音をなだめても、潮音の心の中からは動揺が抜けていないようだった。
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