裸足の人魚

やわら碧水

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第五部

第六章・広い世界に(その4)

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 キャサリンの家族は潮音たちと別れてから、キャサリンの祖父母の武藤俊輔・絹代夫妻との待合せ場所に向かった。

 久しぶりに両親と会うにあたって、小百合はやはりどこか気づまりな表情をしていた。自分がロバートと結婚してロンドンで暮すことを決めたときに、父親の俊輔から猛烈に反対されたことに対するしこりが、小百合の心の中からは完全に消えてはいなかった。

 キャサリンの家族が待合せ場所に決めた三宮の駅前で俊輔や絹代と会うと、俊輔と絹代はエドワードの顔を見るなり途端に表情をほころばせた。

「いらっしゃい。イギリスからよく日本に来てくれたわね。日本の夏は暑いけど、それで疲れてない?」

 絹代はロバートとエドワードににこやかな口調で話しかけたが、小百合は俊輔を前にしても口をつぐんでいた。そのような難しい表情を浮べたままの小百合に対して、俊輔はそっと話しかけた。

「小百合、もっと顔を上げたらどうだ。たしかにお前がロンドンで暮すと言ったときには私もちょっと驚いて反対したけど、今はこうして小百合もロンドンでロバートさんや子どもと一緒にちゃんとやってるじゃないか」

 その俊輔の言葉を聞いて、小百合はずっと心の中に抱いていたわだかまりが解きほぐされていくのを感じていた。

「ありがとう、お父さん」

「キャサリンが去年から家に来たおかげで、私たちの生活もだいぶにぎやかになったわ。おじいちゃんは今どきの若い子たちの流行やすることに戸惑ってることもあるみたいだけどね。キャサリンが高校を卒業してロンドンに帰ったらまた寂しくなるねと二人で話してるのよ」

 絹代が小百合に話しかけると、キャサリンも少し照れくさそうな顔をした。その間もエドワードは祖母の絹代にすっかりなついてしまったようだった。

 それからキャサリンたちはみんなで神戸市内のホテルの中にある日本料理店に移動した。日ごろロンドンで過ごしているキャサリンの家族に本格的な日本食をご馳走しようと、俊輔は奮発して少し高級な日本料理店を予約していたのだった。特にエドワードはメニューに載っている和食の写真をもの珍しそうに眺めていたが、注文していたコースが届けられると、ロバートは箸を操りながら日本料理の数々を味わっていた。

「キャサリンを見てても思うけど、最近は外人さんにもお箸をちゃんと使える人がけっこういるのね」

 絹江がロバートが食事をする様子を眺めながら言うと、すぐに小百合がそれに答えた。

「最近はロンドンをはじめとするヨーロッパやアメリカにも、日本料理や中華料理の店はけっこうあるからね。キャサリンはロンドンにいた頃からラーメンが好きだったし」

「キャサリンは日本のラーメンも気に入ったみたいよ。休みの日にはたまにラーメン屋に行くけど、やっぱり日本のラーメンは違うって」

 絹江の言葉を聞いて、キャサリンは照れ笑いを浮べていた。

 さらにロバートは、運ばれてきた日本酒のおちょこに口をつけてそれを味わうと、芳醇ほうじゅんな香りやまろやかな味が気に入ったようだった。

「神戸は六甲山の水を生かした日本酒の産地としても知られていて、蔵元がいっぱいあるのよ」

 絹江の説明を、ロバートも納得しながら聞いていた。

 それから俊輔や絹代は、エドワードと学校やロンドンでの生活について会話を交わした。エドワードはキャサリンほど日本語が上手ではなかったが、それでも質問の一つ一つに対して丁寧に回答していた。エドワードの行儀の良さに俊輔や絹代も感心してると、さらにロバートが最近はイギリスでも少なからぬ数の日本の小説や漫画が英語に翻訳されて読まれているという話をした。

「ほんとにロバートさんって日本語上手よね」

 絹代がロバートの話に興味深げに耳を傾けてながら感心していると、小百合が口をはさんだ。

「そりゃうちの旦那はロンドンの大学で日本文学の研究をやっているんだもの」

 会話が一段落すると、絹江はすっかりご満悦そうな顔をしていた。

「私も小百合がロンドンでロバートさんと結婚するという話を聞かされたときは、たしかに不安もあったわ。でもロバートさんって、とっても素敵な人じゃない」

 この絹代の言葉には、むしろキャサリンの方が気恥ずかしそうにしていた。

「でも今日ロンドンから飛行機で日本に着いたばかりなのに、明日はもう学会に出るために東京に行くんでしょ? なかなか大変そうだけど、今晩はゆっくり休んでね」

 このようにしてキャサリンの家族が団欒だんらんのひとときを過ごしている間に、夏の日はとっぷりと暮れて日本料理店の窓から見える日本庭園にも暮色が漂いつつあった。エドワードもその景色にもの珍しそうに見とれていた。

 夕食が一段落すると、キャサリンの一家はキャサリンがホームステイしている俊輔の家へと向かった。小百合も久しぶりに自分の育った家に足を踏み入れて、懐かしそうにしていた。かつて小百合が使っていた部屋は今はキャサリンが使っていたが、その部屋のあちこちに日本で買ったアニメのポスターやタペストリーが飾られていたのには、小百合もやれやれと言いたげな顔をしていた。

 俊輔の家で皆一息つきながら、小百合は今のソファーでキャサリンと話し合っていた。

「なんか神戸の街も私がいた頃に比べて雰囲気が変ったわね。でも今日私が話した子たちは、キャサリンのクラスメイトなんでしょ。今どきの日本の子たちの話が聞けて楽しかったわ」

「はい、紫は生徒会長として学校のみんなのまとめ役になっていますし、琴絵は日本のいろんな本のことに詳しくて、私もいつもいろいろ教えてもらっています。今年のお正月にあった百人一首大会で優勝したのですよ」

「百人一首大会は私が学校通っていた頃にもあったけど、まだやってたのね。うちの学校のこういう伝統も、ちゃんと残っているようでほっとしたわ」

 しかしそれよりも小百合にとっては、キャサリンが学校生活のことを生き生きとした表情で楽しそうに話すことが何より嬉しいようだった。

「キャサリンも学校のみんなと仲良くしているようで何よりだわ。正直に言ってキャサリンが松風に留学することになったときは不安もあったけど、考えすぎだったみたいね。あと今日私たちと一緒にいた藤坂潮音って子も、なんか素直そうでいい子よね」

 その小百合の言葉には、キャサリンも元気そうに答えた。

「はい、潮音は元気でまっすぐな性格で、学校のみんなを盛り上げてくれています」

「ならいいんだけど」

 小百合はキャサリンが素直に話すのを聞きながらも、心の中では疑念が生れていた。小百合の勘は、潮音は自分の学生時代に学校で出会ったクラスメイトたちや、ロンドンの大学で日本語を教えるようになってから出会った生徒たちの誰とも違ったムードを漂わせていることをはっきりと見抜いていた。

――あの「藤坂潮音」って子、なんか他の子たちとは違う事情がありそうね…。

 そして小百合は、窓ガラスの外に広がる夏の宵闇をじっと見つめながら言った。

「キャサリン、その藤坂さんって子とは私がイギリスに帰る前にもういっぺん会って話がしたいの。藤坂さんの連絡先を知っているのなら、そう話してくれないかしら。あの子がいやだと言うのならいいけど」

 その小百合の話を聞いて、キャサリンは怪訝そうな顔をした。

「藤坂さんに何かあったのですか?」

「いや…あの子は心の中に何かを持ってそうな気がするから…」

 小百合がぽつりと話しても、キャサリンはその発言の真意をはかりかねているようだった。

 そこでキャサリンの祖母の絹代が、小百合に声をかけた。

「小百合も今日飛行機で日本に着いたばかりで疲れてるんでしょ? 明日東京に行くことになるから、早くお風呂に入って休んだ方がいいんじゃないかしら」

 小百合もその絹代の言葉に従うことにした。


 その翌日、ロバートと小百合はキャサリンとエドワードを連れて、東京行の新幹線に乗り込んだ。みんなで東京のホテルに二泊して、ロバートと小百合が学会に出ている間にキャサリンがエドワードを連れて東京を見物し、学会が終るとみんなで箱根に移動してそこで一泊する予定になっていた。

 ロバートとエドワードは新幹線の車窓を流れる、青々と茂った田園に夏の強い日差しが降り注ぐ日本の風景に見入っていた。キャサリンの方はディズニーランドや東京にあるアニメの聖地を訪れるのを楽しみにしているようだったが、小百合は浮れがちになるキャサリンを戒めていた。

「エドワードが迷子にならないようにしっかり気をつけるのよ」

 しかしその一方で、小百合は自分が日本に滞在している間に、もう一度潮音に会えるだろうかということが気になっていた。

 そうしている間に新幹線の車窓から富士山が見えたので、エドワードが歓声を上げた。夏場の富士山は、雪をかぶっておらず山頂まで岩肌があらわになっていた。

「新幹線に乗っても富士山はたいてい雲をかぶっていて、見える日の方が少ないっていうけどね」

 小百合は富士山を眺めながらも、自分が潮音に対して抱いている懸念が考えすぎでなければいいかと思っていた。

 やがて新幹線が東京に着くと、キャサリンの一家は歌舞伎を鑑賞するために東京駅から銀座にある歌舞伎座へと向かった。来日したら歌舞伎や能を鑑賞したいというのがかねてからのロバートの希望だったが、東京駅から歌舞伎座へと移動する間も、キャサリンは神戸よりも一回り大きな東京の街の規模やあふれんばかりの人波にただ目を見張っていた。

 キャサリンの一家は歌舞伎座で客席につくと、みんなで顔に隈取をした役者や、顔に白粉おしろいを塗ってあでやかな着物を身にまとった女形たちの演技に見入った。歌舞伎は男性の役者だけで演じられ、男性の役者が女性の役をすることもあるというロバートの説明に、キャサリンやエドワードは興味深げに聞き入っていた。

 そしてキャサリンは家族と共に歌舞伎座を後にしてホテルに一泊した後、その翌日は学会に参加するロバートと小百合をおいて、エドワードと一緒に東京ディズニーランドに行ってアトラクションを楽しんだ。

 さらにその翌日にはキャサリンとエドワードはまず浅草寺を訪れたが、エドワードは雷門の大提灯だけでなく、仲見世通りの店頭に並ぶ品物の数々に興味深そうに見入っていた。その次に二人が秋葉原に向かうと、アニメ専門店でアニメ関係のグッズを買うことができたときにはエドワードも満足そうな顔をした。さらに相撲の好きなキャサリンは両国国技館に行きたがったが、本場所が行われていない国技館はがらんとしていた。それでもキャサリンは、両国駅に掲げられた横綱の額絵を見て満足していたが、エドワードは歴代横綱の手形に見入ってその大きさに驚いていた。

 そしてキャサリンとエドワードは夕方になって学会を終えたロバートや小百合と新宿駅で待合せると、そのままロマンスカーに乗って宿泊地になっている箱根へと向かった。

 箱根のホテルで温泉に入って夕食を取り、一息ついた後でキャサリンは潮音にスマホで電話をかけた。

 キャサリンはエドワードと一緒に東京観光を楽しんだことを生き生きと話したので、潮音もそれに思わず耳を傾けていたが、そこでキャサリンが潮音に話しかけた。

「潮音、私の母がイギリスに帰る前にもう一度あなたに会いたいと言っています」

 その話を聞いて、潮音はびくりとした。潮音にとって、小百合がどうして自分に会いたいと思ったのかだいたいの見当はついていた。キャサリンは急に潮音の声のトーンが変ったのを聞いて不思議そうな顔をしたが、潮音は小百合に会う日時と場所を決めながらも、心中で胸騒ぎを抑えることができなかった。
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