裸足の人魚

やわら碧水

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第五部

第七章・TOKYO(その4)

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 その翌朝も、夏の空は青く晴れわたっていた。潮音は目を覚ますと、今日も暑くなりそうだと感じていた。しかし外はすっかり明るくなって夏の朝の明るい光がカーテンの合間から差し込んでいたにもかかわらず、暁子と優菜は布団の中で眠りこけていた。潮音は仕方がないなと思いながらも、このところの暑さとバスの旅で疲れているのだろうから、そっとしておくことにした。潮音は今日は、高齢者向けのマンションで暮している祖父母のもとを訪ねることになっているので、暁子と優菜はどうするのだろうと考えていた。

 潮音が階段を下りて食堂に向かうと、好美はすでに朝食の準備を始めていた。程なくして真由美と暁子、優菜も下りてきて、みんなで一緒に朝食をとることになった。

 朝食の席で、潮音は暁子と優菜に自分が祖父母に会いに行っている間にどこに行くのかを尋ねてみた。そこで積極的に答えたのは優菜の方だった。

「行ってみたいところはぎょうさんあるからね。池袋の乙女ロードにもちょっと行ってみたいし、お台場だって行きたいし、スカイツリーの展望台だって登ってみたいし。明日は潮音や真由美も一緒にディズニーランドに行くけど」

 優菜の元気さは相変らずだったが、その一方で暁子の方は積極的な優菜の勢いにむしろ押されているようだった。そこで潮音は、優菜の勢いに任せておけば暁子をちゃんとリードしてくれるだろうと思っていた。

 朝食を済ませてからしばらく経つと、暁子と優菜はさっそく隆史の家を後にして東京の都心に向かった。潮音はそれを見送った後で、旅立つときに則子が持たせた神戸名物のお菓子の箱を持って、隆史の家族と一緒に母方の祖父母が入居している高齢者向けのマンションに向かった。

 高齢者向けマンションは、隆史の家の最寄駅から電車で何駅か行ったところにあった。そこに向かう途中の電車の中で、好美は潮音に話しかけた。

「雄一叔父さんや則子叔母さん、綾乃ちゃんはみんな元気なの?」

「はい、みんな相変らず元気です。姉ちゃんは大学に入って車の免許を取ったけど、運転が荒っぽくて姉ちゃんの運転する車に乗ったらいつも冷や冷やします」

 潮音の話を聞いて、真由美は意外そうな顔をしていた。そこで潮音はさらに言葉を継いだ。

「でも姉ちゃんは今大学の三回生で、もう少ししたら就職活動を始めなきゃいけないのでなかなか大変そうです」

 そこで好美は、はっとしたような顔をした。

「あ、関西の大学では『何年生』を『何回生』と言うみたいね。それにしても綾乃ちゃんも大変よね」

「うちの姉ちゃんは、就職活動で東京の会社を受けるときは伯父さんのところに泊めてもらうかもしれないけど、そのときはよろしくって言ってました」

「そんなに遠慮しなくたっていいのに」

 そこで潮音は、少し表情を曇らせた。

「私だって来年は高三で受験生になりますが、もしかしたら東京の大学に行くことになるかもしれないから…。私の友達の何人かは、東京の大学に進学するだろうし」

 そう話しながら、潮音は電車の窓から流れる、家並みやビルが続く東京郊外の景色をじっと眺めていた。その潮音の横顔を見て、隆史はそっと話しかけた。

「潮音が東京の大学に行って勉強したいと思うならそうすればいいよ。そこで何か困ったことがあったら、いつでも伯父さんのところに相談すればいいから」

 隆史が優しげな口調で話すのを聞いて、潮音は内心でほっとしていた。そこでさらに好美が潮音に話しかけた。

「もしかして自分が女の子だから、親元を離れて一人暮しをすることに抵抗があるとか思ってない? 今はそんなことなんかないから、男とか女とか関係なしにどんどん自分のやりたいことにチャレンジすればいいのよ」

 潮音はその好美の話を聞きながら、自分はむしろその「自由」があるために、自分のやりたいことや進みたい進路に迷っているのにと思っていた。

 そのような話をしているうちに、電車はいつしか高齢者向けマンションの最寄駅に着いていた。目的地となる高齢者向けマンションは、駅前の商店街から少し外れた閑静な住宅街の中にあった。

 潮音たちはマンションの管理人室で面会の手続きをした後で、エレベーターで祖父母の入居している部屋のある階へと向かった。しかし潮音はその間、男から女へと変った自分の姿を見て祖父母はどのような顔をするだろうかということが少し気がかりだったが、今になってこのようなことを気にしても仕方ないと半ば強引にでも思いこむことで、そのような不安を打消そうとした。

 潮音たちが祖父母の入居している部屋の前に着くと、まずは隆史と好美が部屋の入口で祖父母にあいさつをした。それに続いて潮音も部屋に入ったが、いざ祖父母と顔を合わせると、ともに加齢による衰えはやはり隠せないものの、にこやかで元気そうな表情をしていることに潮音はまず安堵した。

 しかし祖父母の方は最初、潮音の姿を見てもそれが誰なのか一瞬わからないようだった。先に反応を示したのは、潮音の母方の祖母の和子の方だった。和子ははじめこそきょとんとしていたものの、潮音の姿をしばらくじっと見つめた後で、ようやく目の前の少女の姿に自分が見知っていた「潮音」の面影を見出したようだった。

「あなた…やっぱり潮音ちゃんよね」

 その柔和な口調を聞いたとき、潮音はようやく心の中に重くのしかかっていたわだかまりが解けていくのを感じていた。そして最初は戸惑っていた潮音の母方の祖父の順平も、しばらく経った後で重い口を開いた。

「潮音、お前もずいぶん大変だったみたいだけどよく頑張ったな」

 その順平の言葉を聞いたとき、潮音は自分が幼い頃から、夏休みなどに東京を訪れたときに順平と和子が自分を優しく出迎えてくれたことを思い出していた。そこで潮音は、祖父母の優しさは昔も今も全然変っていないと思うと、心の中を温かいものが満たしていくのを感じていた。そして潮音は、両目から涙を溢れさせながら声を振り絞って祖父母に声をかけた。

「ありがとう…おじいちゃん、おばあちゃん」

 その潮音の言葉の最後の方は涙声になっていた。身をすくめて肩を震わせる潮音を、和子はそっと抱きとめてやった。

「これ以上泣くのはおよし。潮音ちゃんが男として生きるとしても女として生きるとしても、私たちは潮音ちゃんのことをちゃんと見守ってあげるから」

 そこで隆史と好美、真由美の三人は潮音を少しそっとさせて、祖父母とゆっくり過ごす時間を与えてやろうと配慮して、静かに部屋を立ち去った。しばらくの間潮音は、家族のことや自分の学校生活のことなどを祖父母に話して聞かせたが、その話を祖父母は興味深そうに聞き入っていた。潮音が高校でもいろいろなことを頑張っている様子を知らされて、祖父母も満足したようだった。

 やがて面会の終りの時間が来ると、和子は優しい口調で潮音に話しかけた。

「今日はわざわざ神戸から私たちに会いに来てくれてありがとう。またいつでも会いにいらっしゃい」

 その一方で順平は、しっかりした口調で言った。

「潮音も人生はまだまだこれからが勝負だけど、しっかり頑張るんだぞ。おじいちゃんたちもできる限りは、潮音のことを見守ってやるからな」

 そこで潮音は、祖父母と固い握手を交わすと伯父一家とともに、高齢者向けマンションを後にした。


 潮音は伯父一家と共に高齢者向けマンションの近くのファミレスで昼食のテーブルにつくと、その席で祖父母が元気そうで良かったと話した。しかし潮音もマンションで高齢者たちの姿を見たときには、どのような人にも老いは訪れるし、それをケアするのも大変な仕事なのだと考えさせられずにはいられなかった。

 昼食が済むと隆史は、潮音を高齢者向けマンションの近くにある神社に案内した。この神社の境内は緑が生い茂っていて、木々の間からはセミの鳴き声が聞こえてきた。そしてその中央には、どっしりとした社殿が構えていた。潮音は東京に着いて以来、人が多くてせわしない東京の環境に夏の暑さも手伝って少し疲れを感じていたので、この神社に来たことで少し落着きを取戻せたような気がした。

 そこで隆史が潮音に言った。

「たしかに東京には多くの人が集まるような観光スポットやビル街だっていっぱいあるけど、その合間にこういう神社やお寺、あるいは庭園ののような落ち着ける場所だっていっぱいあるんだよ。この神社では来月になると秋祭りも盛大にあるし。そこが東京という街のいいところかな」

 その言葉には、潮音も納得したようだった。

 そこから潮音たちは、世田谷線の小さな電車に揺られて三軒茶屋へと向かった。家並みの間をのんびりと走る世田谷線の電車に揺られていると、潮音は今までに抱いていた東京のせわしいイメージが変ったような気がした。

 電車が三軒茶屋に着いて、潮音たちが駅前にある高層ビルの上の方の階にある展望台に上ると、潮音は窓の下に広がる東京の街のパノラマに思わず目を奪われていた。展望台の窓からは、建ち並ぶ家屋やビル、道路を行き交う車、ビルのすぐそばにある三軒茶屋の駅のホームに発着する電車の全てがミニチュアのように見えた。

 潮音はこの夏の強い光に照らされた街をじっと眺めているうちに、自分はやはり住み慣れた神戸を離れてもっと広い世界に旅立ちたいと思っているのだろうか、しかし果たしてその先には何があるのだろうかと思わずにはいられなかった。そのような潮音の表情を見て、真由美が声をかけた。

「潮音ちゃんってやっぱり、東京の大学に行きたいって思ってるわけ?」

 そこで潮音は首を振った。

「まだわからない。でもどこの大学に行ってどの進路に進むにしたって、自分の決めた道をしっかりと進みないんだ。…自分をごまかすような真似はしたくない」

 真由美はその潮音の言葉を聞いて、眼下に広がる景色をじっと眺めながら答えた。

「潮音ちゃんがそのような進路を見つけられたらいいのにね。でも潮音ちゃんはあれだけのことがあってもちゃんとやれてるんだから、きっと大丈夫だよ」

 潮音はこの自分を励ますような真由美の答えを聞いて、自分だってそこまで将来に対して自信があるわけではないけれども、真由美だって自分のことを気にかけてくれているのだから頑張らなくてはと意を新たにしていた。そこで真由美がちょっと口をはさんだ。

「ねえ、潮音ちゃんにちょっと会ってほしい人がいるんだ。あさってに江の島に行くときに一緒に行っていいかな」

「いいけど」

 潮音は真由美の言葉に同意したものの、その真由美の友達ってどんな人なのだろうと思っていた。

 夕方になって潮音が隆史の家に戻って、冷たい飲み物とお菓子でほっと一息ついていると、しばらくして暁子と優菜も戻ってきた。その二人とも顔に満面の笑みを浮べていて、東京を回って楽しかったのだろうと思って潮音はほっとしていた。

 潮音が暁子と優菜は今日どこに行ったのかと尋ねてみると、二人はまず上野動物園に行っていろいろな動物たちを眺めたことや、特にパンダの展示の前では人だかりができていたことを話した。暁子と優菜は、スーベニアショップで買ったかわいらしい動物のぬいぐるみを手にしながら満足そうな表情をしていた。

 そこから暁子と優菜は、浅草に行って雷門から浅草寺へと続く仲見世通りのいろいろな土産物店を眺めたことや、スカイツリータウンを訪れたことを話した。スカイツリーの展望台は高校生の小遣いでは少し値が張ったが、それでもスカイツリータウンをぶらつくだけでも十分楽しかったと二人は満足そうだった。

 潮音は暁子や優菜がこの東京滞在を十分に楽しんでいる様子にほっとしたものの、この調子ではこの旅行はこれからもひと波乱ありそうだと感じて、これからどうなることやらと気をもまずにはいられなかった。
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