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未亡人の哀しみと死者の声
プロローグ。燻る街。
灰色の蒸気にけぶる街。
蒸気機関の音が遠く響くこの工業都市では、魔法や錬金術などというものはくだらない子供のお伽話として忘れ去られて久しい。
教会では死者の魂の存在を認めず、死んだ者は潔白く洗い流されて神の国に昇るとされる。
かつては金剛石の都と呼ばれた華やかなるルクスボロー市は、今では灰白色の霧にけぶり煤に汚れた石炭の都市だ。
そんな街の片隅。
うらびれた路地裏の質屋の店主は、死者の声を聞くという噂がある。
――からりん。 からりん。
軽やかで涼しげな音がする。
その店には、ひどく不機嫌な店主の青年がひとり。
「見てほしいのよ、この絵の価値。いくらかは値が付かないかねぇ」
カウンター越しには、大量の絵画を運び込んだ老婆。
「…………無名な画家の作品なんてものはな、おばあさん。質屋じゃなくて、せめて画廊に持ち込むんだよ」
青年は不機嫌に、面倒臭そうに、しかし歳上のマダムへの最低限の礼儀をどうにか取り繕って言う。
その手が絵画のひとつに触れた時。
「……ぁっ、ゔ……ァアッッッ!」
苦しげに零れた声。
老婆は、目を見開く。
「まぁ……あら、まぁ……!」
このささやかな出来事が、青年にとっては最悪の始まりになる。
◇◇◇
「お願いします……もっとちゃんと調べてください……!」
警察署の受け付けで、ひどく疲れた顔をした儚げな美人が詰め寄っている。
「……どしたんすか、あのご婦人」
証拠保管室のラズロは、ちょうど返却予定の証拠物品を抱えて来たところだった。
声を潜め、コソコソと受け付けの署員に尋ねる。
「コナー夫人です……旦那さんが川で亡くなっていて……事件性なしで捜査終了したんですが」
「揉めてるってワケね……」
コナー夫人は見たところ三十になるかならないかの女性だった。
夫を突然亡くした心労だろうか……淡い金色の髪がずいぶんとパサパサに乾いて、目元は泣き腫らしたのだろう赤くなっている。
「彼は……マイクは自殺なんてしないわ……! 何かの間違いなのよ……!」
署員に食ってかかる遺族はそう珍しいことではなかったが、何度見たところで慣れるものではない……とラズロは重苦しい息を吐く。
「自殺なの……?」
「らしいですね……捜査課の刑事たちがそう結論したんですもん」
捜査の結果は受け付け署員には如何ともし難い。
「はぁ……この返却品てつまり……あのご夫人のかねぇ」
ラズロは再び重苦しい息を吐く。
警察官らしからぬ猫背は、抱えた物品の重さゆえだろうか。
「あ~……失礼しますよ、コナー夫人?」
「だから……っ……ぁ、は、はい!?」
受け付け署員に訴え続けていたコナー夫人は、遠慮がちに声をかけてきたラズロにやや面食らったように顔を向ける。
彼女の表情が、一気に胡乱なものを見たようにわずかに顰められた。
ラズロは困ったような、気の毒そうな、なんとも言えない曖昧な顔で笑う。
長い手足とぎょろっとした目、薄ら浮かんだ無精髭や制帽から飛び出した癖毛が、警官らしからぬ雰囲気を醸し出している。
「いやぁ申し訳ない……これもその~規則ってやつでして。捜査が打ち切られましたらね、お返しすることになっておりまして」
「……は、はぁ。あなたは…………」
箱を抱えた得体の知れない――警官ではあるのだが――男に、コナー夫人は警戒しているようだった。
「私は……証拠物品管理室の担当官でラズロと申します。階級はしがない巡査でして」
肩を落とし背を丸め、いかにも気の毒そうな顔をして、夫人を見た。
「……この度はまことにご愁傷様で……なんと申し上げれば良いか……ほんとに残念なことで……」
ラズロはつらつらと述べる。
決して圧は強くない、早口でもない。
だが相手に途中で口を挟ませない、そういう奇妙な迫力めいたものがあった。
「つ、つまり……なんです……か……」
夫人の声は微かに震える。
その目には怒りと悔しさ、無力感が滲んでいるのがラズロにもわかる。
「……ご主人の遺品です。内容をご確認いただき、お引き取りのサインを……或いは、こちらで処分することも可能ではありますが」
「処分……ですって……!?」
夫人の顔が怒りにだろう、赤く染まる。
ラズロは尚も困ったような、気の毒そうな表情をそのままに。
「申し訳ない……」
と言った。
「夫は……夫は、自殺なんてするような人じゃないんです……」
「…………」
捜査課がなぜ自殺として処理したのかは、一介の保管室勤めの巡査にはわかるわけもない。
事故ということにしておけばもう少し丸く収まるだろうに、とは思うのだが。
(遺書でもあったのか……? 遺品の中にはそれらしいのはなかったけどなァ……)
などと考えはしたものの、いやいやと思考を振り払う。
「申し訳ない……捜査員の検分の結果なものですから……」
「……再捜査は……してくれないんですね……」
夫人は、とうとう怒る力もなくなったのか肩を落として呟いた。
その様子からは、失望の様子がありありと見て取れる。
「持って帰ります……大事な……あの人の形見だもの……」
「……では、こちらに。いくつか書いていただく書類がありましてね。ま、まずはあちらでお座りになって……」
そう言うとラズロは夫人を伴いロビーの片隅の応接コーナーに案内した。
シンプルなパーテーションで区切られただけの、あまりプライバシーに配慮されているとは言えない区画だ。
「……遺品、これだけですか」
夫人は箱の中を見ながら、小さく零す。
「は。と、言いますと……?」
遺品の内容は、衣服と靴、ネクタイピン。
既婚の男にしては確かに異様に少ない。
財布すらないとは不自然だな……とラズロも思う。
「いえ……懐中時計……。まだ結婚する前に、彼に私から贈ったもので……いつも、絶対に持ち歩いていたものだから……」
それは金の鎖に繋がった最新型で、ネジを巻かなくとも勝手に時間を合わせてくれるものなのだという。
「私の知らないうちに借金があったというから……質に、入れたのかもしれない……」
夫人は淋しげにぽつりと呟いた。
ラズロは何も言わず――言えず――ただ、夫人が走らせるペンの音に耳を澄ませた。
そうして何枚かの書類に記入し、手続きを終えると。
ラズロはようやく重い――主に心情的に――荷物をあるべき人の手に返した。
そのことにほっと息を吐く。
コナー夫人は遺品を受け取ると、まるですっかり憑き物が落ちたような顔をして一礼し署を後にした。
「はぁ――――」
「お疲れ様ですラズロ巡査」
詰め寄られていた署員が「どうぞ」と珈琲を差し出してくるのを、ラズロはぐったりした顔で受け取った。
「ありがと……いやぁ、そちらも大変そうでしたし……」
「捜査が打ち切られたってなってから、もう毎日でしたよ……。捜査課の人たちは、自殺だ。って言ってそれきりだし」
ラズロは片眉を軽く持ち上げる。
「……ほぉん。…………なんだか冷たいことで。なんで自殺なんすかねェ……遺品の中には遺書みたいなモンも見当たらなかったですけど」
改めて返却手続き書類の物品一覧を眺めて、ラズロはぽつりと溢した。
そこには衣服、靴、ネクタイピン程度しか記されていない。
やはり、何度見ても既婚の男の遺品としてはなんとも寂しすぎるラインナップだ。
(懐中時計……ねぇ……)
ほんの少し引っ掛かる、コナー夫人の言葉。
しかし、金に困った夫が質屋に入れたと考えれば辻褄はあう。そこまで強い違和感でもない。
「さぁ……なんせ捜査課のことですし……あの人たち秘密主義ですからね。僕らみたいな末端の下っ端にはなんにも教えてくれませんよ」
受け付け署員の声には、クレーム対応を押し付けられた恨みつらみがこもっている。ラズロは思わず苦笑した。
(とはいえ……自殺か……)
自殺。
それはずいぶんと重い結論だ、とラズロは思う。
教会は自死を許されぬ罪として扱い、自ら命を絶った者の魂は恐ろしく穢れているのだと言って憚らない。
教会から魂の罪人と烙印を押されては、死んだコナーも遺された夫人も報われないだろう。
「どうするんですかね……」
「ん……?」
「お子さんがいるそうですよ、まだ小さい子が……ふたりも。……自殺じゃ、教会からの救済金も出るかどうか……」
受け付け署員はコナー夫人に同情的だった。
捜査を打ち切られ、再捜査の要請に連日押し掛けられてはいても。
(再捜査に必死なのも……妥当なとこだな)
ラズロは珈琲を飲み干して、カップを片付ける。
ラズロは暗澹とした気持ちを振り払って手続き書類を処理しに行った。
「おつかれ~」
「お疲れ様です」
終業を迎えたラズロは、窮屈な制服を脱ぎ安っぽいスーツと草臥れたコートに着替えて署を後にする。
霧にけぶる夜の街には、すでにガス灯がともりぼんやりと夜を照らし出していた。
冬の風が吹き付けて、薄っぺらなコートではとうてい寒い。
「うひぃ、日に日に寒さが厳しくなって……こんな寒い日に川に……ねぇ」
右手に見える運河にちらと視線を向ける。
夜の闇にうねる川面はドロドロと黒く、気味の悪い大蛇がとぐろを巻いているようにも見えた。
高い手摺の防護柵は、ラズロの胸の下辺りまである。
(この高さじゃ……事故ってせんは消えるかぁ……)
ぽんぽんと手摺を叩きながら考えて、ラズロは苦々しく笑って頭を振った。
(終わった話をぐだぐだ考えても)
悪い癖だ。
遺された夫人のあんまり必死で痛々しいからか。
考えたところで事実はすでに決着し、保管室勤めの自分にはなんの権限もない。
(そんなことより、一杯引っ掛けて帰ろう……)
ラズロは思考を振り切るために歩き出し、馴染みのBARに向かった。
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