離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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2.離縁の雨

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***

 しばらくすると、気を失った章太郎は、竜堂家の従者に連れられて葵の住まいから出て行った。

「ずいぶんと驚かしてしまいましたね。大丈夫ですか」

 章太郎が去ったあと、白布で左目を覆い直した御蔭の雰囲気や言葉遣いは、いつも通り穏やかなものになった。

 それでも葵が驚きを隠しきれずにいると、御蔭が葵の前に膝をつき、着崩れた着物の胸元を少し直してくれた。

「どういうこと……? 御蔭が一つ目の龍神様って……」

 葵が着物を直す御蔭の手にそっと手をのせると、彼が困ったように眉をさげた。

「すみません。ほんとうはこのまま何も言わずに別れるつもりだったのですが……葵が外の世界に戻る機会を奪ってしまいましたね」

 御蔭に謝られて、葵は首を横に振る。

「違う。わたしはそんな話が聞きたいわけじゃないの。御蔭は……」

 葵が知りたいのは、御蔭がほんとうは誰だったのか。そして自分が、ほんとうは誰の花嫁だったのかということだ。

「先ほど名乗ったとおりですよ。私の本当の名は、天之御影神あまのみかげのかみ。この神社で祀られている一つ目の龍神というのは、私のことです」
「それでは、わたしはあなたの……」
「形式上の花嫁ですね」

 御蔭が澄んだ空色の右目をわずかに細める。

「竜堂家が龍の眷属となり、家や土地の繁栄の見返りに私に花嫁を捧げるようになったのは、もう何千年と前のこと。今まで何人もの花嫁が三つから十六までの年を私の土地で過ごし、やがて人の世へと帰っていきました。花嫁が入れ替わる度、庭の池のそばに出向いて彼女たちを見守ってきたが、ただのひとりも私の存在に気付きませんでした。これまでの花嫁たちは誰も、私の姿を見ることができなかったのです。私の存在を認め、話すことができた花嫁は葵が初めてでした。葵は私にとって今までで一番特別な花嫁なのです」

 御蔭がそう言って、葵をまっすぐに見つめてくる。

 特別な花嫁――。

 初めて出会ったときから、不思議な雰囲気のある人だと思っていた。話していても、どことなくつかめないところが多く、池の鯉にしか関心がないと思っていた御蔭が、自分を特別に思ってくれていたなんて。

 御蔭の言葉に、葵は歓喜して飛び上がりたいほどだった。

 けれど、ならばどうして……自らが龍神であることを明かさず、章太郎と結婚させようとしたのか。

 葵が怪訝に思っていると、御蔭がその思いを察したようにふっと笑う。

「私は今は人の姿を借りてここにいますが、本来の姿は見た目の恐ろしい一つ目の龍神。古い因習のために差し出された花嫁を人の世に戻してやることこそが、私の行うべき勤めなのです。けれど、葵は言ったでしょう。『離縁の雨が一日でも長く続けばいい』と。思い詰めた顔をしてここに留まりたいと話す葵を見ているうちに、人の世に返すのが惜しくなった。葵が雨が降り続くことを望んでいるかと思うと、身勝手にも離縁の雨をやますことができなかったのです。けれど、章太郎あの男の葵に対する振る舞いを見て、ようやく心が決まりました」

 着物に触れていた御蔭の手が、するりと移動して、葵の頬に触れる。なめらかで、心地の良い御蔭の手のひら。葵がそれに頬を擦り寄せると、御蔭が今までにないほど愛おしそうに見つめてきた。

「葵を人の世に戻したくない。私は葵を愛しているのです。だからこのまま……、私の花嫁としてここにいてはくれませんか」

 御蔭のゆったりとした声が、葵の耳に届く。鼓膜を震わすやさしい音は、葵の胸をも震わせた。

 これは夢ではないだろうか。御蔭が葵をそばに置くことを望んでくれるなんて……。

 それを確かめたくて、葵は左目を覆う御蔭の白布にそっと触れた。

「もう一度、こちらの目を見ても……?」
「構いませんが……人の目には醜く、恐れられるので隠しているものです」
「それでも、龍神様の証を見せてください」

 葵が願うと、御蔭は左目に巻いた白布を解いた。その下から現れたのは、縦に傷の入った閉じた瞼。

 葵が傷の上をそっと指先でなぞると、御蔭がくすぐったそうに少し瞼を開いた。その隙間から覗くのは、鮮やかな赤。章太郎から守ってくれた、龍神様の恐ろしくも美しい瞳だ。

 ああ、この方が一つ目の龍の神様。

 形式上のしきたりではなく、本当に存在していた。ずっとお側にいてくださった、わたしの旦那様……。
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