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8.深紅の凶報
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しおりを挟む「池から帰る途中の道に落としたのかもしれない。わたし、ちょっと見てくるわ。それに、きっともう御蔭が迎えに来ているはずなのよ。わたしがなかなか来ないから、きっと待ちくたびれているはず……」
「お待ちください、葵様」
草履をつっかけた葵が出て行こうとすると、マキノが両手を広げて立ちはだかった。
「そこを開けて、マキノ。わたし、すごく急いでいるの」
「いえ、退きません。葵様、いい加減正気に戻られてください。この頃、少しおかしくはありませんか」
「なにがおかしいと言うの? わたしは正気よ」
「なにをおっしゃいますか。離縁の雨が異例の長さで降り、やんだ後から、葵様はずっと正気ではありませんよ。幼い頃から、池のそばに白銀の髪の美しい着流しの男がいるとおっしゃったり、太鼓橋のそばでひとりごとをおっしゃっていたり、少し夢みがちなところがあるのは小さいときに母親から引き離されて寂しいからだと思って目を瞑っておりました。けれど、近頃は見るに堪えません。目を離せば何日もいなくなり、果ては池の中の龍神の元に嫁ぎにいくなど……龍神様ではなく、なにか悪い物怪にでも取り憑かれているのではないですか?」
「なんですって……?」
「今日は朝食のあとに神主様が来られます。よくお話しして、霊媒師を呼んでいただくことも考えましょう」
マキノの言葉に、葵はかーっと頭に血が上った。
マキノが見えない御蔭の存在を信じられないのは百歩譲って仕方ないとしても、悪い物怪扱いなんてあまりに無礼だ。
「御蔭は悪い物怪なんかじゃないわ!」
顔を真っ赤にして叫ぶと、葵は全力でマキノを押し退けて家を飛び出した。
「……葵様っ!」
マキノの呼び止める声を無視して、池へと下る坂道を走る。
物怪に憑かれたのではと話すマキノの目は、あきらかに葵を憐んでいた。
マキノは三つの頃から葵の世話係をしてきた。心を通わせたいと思ったことはないし、マキノだって命じられて仕方なく葵の世話をしていただけだろう。
けれど、曲がりなりにも十年は葵のそばにいたのだ。それなのに、マキノは葵のことをなにひとつわかっていない。
身勝手にも、葵にはそのことが悲しかった。
(やっぱり、わたしには御蔭しかいない……)
そんな想いが強くなり、もう何日も顔を見ていない御蔭にいっそう会いたくなる。
池の邸宅に行き、御蔭と祝言を挙げれば、もう二度と美雲神社には戻らない。
葵を最後まで受け入れることはなかった美雲神社の家に未練はない。
はやる気持ちで駆けていくと、池のほうからパシャパシャと水の跳ねる音が聞こえてきた。
それには葵も聞き覚えがある。
御蔭が太鼓橋に立つと、餌を求めて鯉たちがいっせいに集まってくる。そのときに立つ水飛沫の音だ。
「御蔭……」
恋しい気持ちが、吐く息とともに溢れる。
ようやく会える――
太鼓橋の赤が見えてくると、葵の胸の高鳴りは激しくなり、恋しさで押し潰されそうになった。
絹糸のような白銀の髪、藍の着流しの後ろ姿。それが振り向いて、澄んだ青色の目をやさしく微笑む。ゆっくりとしたおだやかな声が「葵」と愛おしそうに自分を呼ぶ。
そこまでを想像して太鼓橋の袂に立ち止まった葵は、次の瞬間茫然となった。
太鼓橋の下、集まって池の水面でパクパクと不気味に口を動かしているのは黒の真鯉たち。
彼らは池の中に餌が投げ入れられるのを待っているようだが……、太鼓橋に御蔭の姿はない。
そこにはいない池の主人を見上げて群がる鯉たちの様子はあきらかに異様だった。
もしかして、葵には見えていないだけで御蔭はそこにいるのだろうか。
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