離縁の雨が降りやめば

碧月あめり

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9.隻眼の龍

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「それが、朝から見当たらないの。昨夜はずぶぬれになってしまって、帰宅後すぐにマキノに着物をとられてしまったから。そのときに御守りを落としていないか聞いたのだけど、マキノも見ていないみたいなの。もしかしたら、舟から落ちたときに池に落としてしまったのかもしれない」
「舟から落ちた、とは……?」
「水面に出る間際で、亀の大群に舟をひっくり返されたの。澄が助けてくれなければどうなっていたか……」

 葵は無意識に衿元に置いていた手をぎゅっと握りしめた。

 あのときの息苦しさと恐怖は、今思い出してもぞっとする。

 苦しげな表情になる葵を見て、蓮華は少し大袈裟に見えるほどに眉をしかめた。

「それは怖い思いをされましたね。けれど、もしかしたらそのときに御守りを奪われたのかもしれません」
「……どういうこと?」
「じつは葵様をお見送りしたあと、澄が姿を消したのです」

 普段より口調の強い蓮華の言葉に、葵の心が揺れた。

 昨夜助けられたとき、澄のことを信じたいという気持ちがわずかに生まれた。

 それなのに、澄の目的が葵から御守りを奪うことだったなんて。そうなると、亀の大群が襲ってきたのもはたして偶発的な事故だったのだろうかと、疑念が湧いてくる。

 だが、葵を動揺させたのは澄のことばかりではなかった。

「それだけでなく、兄様も未だ戻られていません」
「御蔭も? まさか、また三雲神社の帰宅を阻まれているの?」
「そのようです。白雪様からの文が届き、龍の鱗とともに澄を引き取らせてもらった、と。そこで、あわてて葵様をお呼びしたのですが……」

 葵には迎えの舟が見えなかった。

 蓮の花がいつもと違う周期で咲いたのも、花の色が深紅だったのも、やはり池の邸宅からの凶報だったのだ。

「やはり、私が思ったとおり。最初に疑惑を抱いたのは、あなたが婚礼用の着物を試着しているときですが……あのときの読みは正しかったようです。龍の鱗がなければ、あなたはの姿が見えない」

 目を細めた蓮華の口端が微かにつりあがる。

 葵を憐れむで、どこか嬉しそうな微笑。蓮華の顔が、「らしくなく」歪んで見えるのは、葵の心と思考が混乱で揺れているからだろうか。

「では何故、わたしは今、蓮華さんが見えているの?」
「それは、私が龍の鱗を持ってここに来ているからです。私がこれを手放してしまえば……」

 蓮華が手に持っていた白の小さな巾着袋を縁側に置く。その瞬間、彼女の姿が葵の視界からすっと消えた。

「蓮華さん……?」

 葵が慌てて手を伸ばすと、白の巾着袋が宙に浮き、また蓮華の姿が現れる。

「信じていただけましたか?」

 蓮華が、少し尖ったまなざしで葵に問いかけてくる。

 目の前で姿が消えた。その瞬間を見せつけられては、龍の鱗の力を信じないわけにはいかなかった。

 だが、もしすべてが龍の鱗の力が成せる技だったとすると、今まで葵が信じてきたものの前提が崩れてしまう。

「それなら……幼い頃からわたしにだけ御蔭の姿が見えたのも、すべて龍の鱗のおかげだったということ?」
「おそらく」

 唇だけ静かに動かす蓮華の声には、葵を気遣うやさしさの欠片もなかった。

 はじめて池の邸宅を訪れたとき、葵は御蔭にとっても特別な花嫁だと誰よりも歓迎してくれたのは蓮華だった。

 だからこそ、蓮華は葵が特別でもなんでもなかったことに失望しているのかもしれない。

 氷のような蓮華のまなざしが、葵の身体を震わせる。

 歴代の龍神の花嫁の中で、御蔭の姿を見ることができたのは葵だけ。そんなふうに言われて自惚れていたが、間違っていた。

 葵に御蔭が見えたのは、運良く龍の鱗を持っていたからで。それは運命ではなく、すべて偶然が重なっただけのこと。

 突然突きつけられた真実に、頭がくらくらとした。
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