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9.隻眼の龍
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しおりを挟む「あの、失礼なのですけど……青嶺神社に行くのはほんとうにこの道で合っているのですか?」
御者台の小窓から少し顔を覗かせるようにして訊ねたが、馬を操る男の着物の背中はびくりともしない。
目の前は、暗い緑色がどこまでも濃く何も見えない。
森の中は全体が湿った空気に包まれていて、馬が進むにつれて強くなっていく雨の匂いに葵の胸の中に漠然とした不安がじわじわと広がっていった。
このまま乗っていてほんとうに大丈夫なんだろうか。
直感的にそう感じた葵は、馬車の扉に近付いた。危険を覚悟で掛け金をはずし、外に飛び出そうとしたが扉が開かない。
焦って扉を引いたり、押したり、強くたたいてみたりしたが、葵の力ではびくとも動かなかった。
馬車の扉は外側からしか開かない構造になっているのだろうか。
外の世界の勝手を知らない葵には、あたりまえのことがわからない。それでも、自分が危機的状況おかれているかもしれないということは本能的にわかる。
外側から強い圧力をかけられているとしか思えない馬車の扉。それを懸命に動かそうとしながら、葵はふと三雲神社を出発したときのことを思い出した。
『道中お気をつけて』
冷たく微笑んで馬車の扉を閉めたときの蓮華は、なにかおかしくなかったか。
そのときだけではなく、蓮華は葵の部屋を訪れた最初から、なにかがおかしくなかったか。
今さら冷静にそんなことに気付いてしまい、扉に触れる手が指先からすーっと冷えていく。
池の邸宅に行くことができなくなったのは、澄が龍の鱗の入った御守り奪ったから。そのことに、間違いはないのだろう。
けれど、なぜ蓮華は人の姿で池の外に出られたのだろう。龍の力を借りたと言っていたが、それは蓮華には不可能なはず。
初めて出会った日に、蓮華本人が葵にそう言っていたのだ。
蓮華たち錦鯉が人に変化できるのは、水の中だけ。龍の力を借りれば陸で変化できるものいるが、ごく一部だと。
だから、葵の母は太鼓橋で息絶えそうになっていた鯉の姿の蓮華を助け、蓮華はお礼に母に龍の鱗を渡した。
それでは、龍の力を借りて陸でも人の姿に投げるごく一部の鯉というのは……
三雲神社の葵の家にまで会いに来て、神主の見張りまでも眠らせてしまったあの蓮華は……?
あの蓮華の、葵を見下ろす冷たく平坦なまなざし。あの目を葵が前に見たのは、いつ、どこでだったか。
暗い森の中に、ピカッと細い稲光が走る。そのとき、葵の脳裏にある人物の顔が過った。
「……橘さん」
口の中で小さくつぶやいた葵の身体が、左右に大きく揺れる。
馬車が止まったが、まさか今さら、御者の男が葵の要望を聞いてくれたということもないだろう。
御者台から小窓を覗くと、いつのまにか馬車を引く馬と男の姿が消えていた。
「え……?」
葵が息を飲んだ次の瞬間、車体がずずっと引きずられるような音がして視界が下がる。
ゴボゴボ……
雨の音に混ざった鈍く濁った響きで、沈んでいるのだと気付く。
腐敗を含んだ藻の匂いを感じたときにはもう、車体が水の中に使っていた。
あたりが暗くてよく見えないが、池か湖にでも落ちたらしい。御者台の窓から見えるのは、雨の雫を受けて揺れる水面。それが果てもなく続いていて、近くに陸地は見えない。
馬や御者はどこに消えたのだろう。状況はわからないが、葵を乗せた車体がゴボゴボと少しずつ沈んでいく感覚だけがわかる。
ここが青嶺神社ではなく、蓮華を装った人物に騙されたのだということも。
確証が持てたわけではないが、あの蓮華はおそらく橘だ。なぜ橘が蓮華に化けていたのだろう。蓮華に何かあったのだろうか。もしかしたら、御蔭にも。
橘には初めから嫌な感じしかしなかったが、葵のその感覚は間違っていなかったらしい。
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