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9.隻眼の龍
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しおりを挟む(とにかく、逃げなければ……)
馬車の扉に飛びついて開けようとしたが、やはり扉はビクともしない。それどころか、葵がヘタに動いたことで傾いた車体が、ゴボゴボッと一気に速度をあげて沈んだ。
御者台の小窓から水が入ってきて、葵の着物を濡らす。そこからどんどん浸水が進み、あっという間に葵の足首までが水に浸かった。
(早く外に出ないと……)
必死に馬車の扉をガタガタと揺らすが、車内の浸水は進んでいき、焦りと恐怖が募っていく。
もしかすると、ここは昔話に聞いた底なし沼かもしれない。
もう何年も前のことだが、年配のキヨが葵の世話係としてそばにいたときに聞かされた話がある。
三雲神社から遠く離れた森に、迷い込んだ人間を呑み込む底なし沼がある。そこに落ちた人間は、足から引きずり込まれて二度と生きては帰れない。
御蔭と出会ってからは、雨の日も風の日も黙ってひとりで太鼓橋に出かけていた葵。まだ幼い葵が池に落ちないかと心配してキヨが作った寓話だったのかもしれないが、キヨが低くしわがれた声で話すと雰囲気があって。夜聞かされると、眠れなくなるくらいには怖かった。
あの寓話のように、葵は今、得体の知れない水底へとぐいぐい引きずり込まれている。
浸水してきた水は、とうとう腰のあたりまで達し、葵は絶望で泣きたくなった。
「助けて、御蔭……」
手のひらで顔を覆ってつぶやいたそのとき。
夜が突然、昼間になったかのように周囲がまぶしく光り、ドーンと空気が震えるほどの大きな音がした。葵が閉じ込められている馬車の車体も大きく揺れ、とっさに座席の背もたれにしがみつく。
外の水面が激しく揺れているらしく、御者台の窓からさらに大量の水が浸水してくる。それが、葵の首元まできてしまい、今にも溺れそうだ。
(もうほんとうにダメかもしれない……)
諦めとともに葵が目を閉じたとき、ざざっという波音が聞こえて車体が下から突き上げられるような衝撃を感じた。次の瞬間、御者台の窓から大量の水が一気に流れ込んできた。手足を動かしてもがいたが、水に呑み込まれた葵はすぐに自分の意識も身体の感覚も失ってしまう。
ようやくはっと気付いたとき、葵の身体はふわふわと風に浮いたように軽くなっていた。
死んでしまったのだろうか。
ぼんやりとする頭で考えていると、胸のあたりを何かがきゅっと締め付けてきた。
手で触れると、先の鋭く尖った爪のようなものがあたる。視線をあげたその先には、巨大な生き物の顔があった。
尖ったふたつの耳に、突き出た鼻と鋭い牙。口の端から流れる二本の長いひげ。大きな縦長の傷のある左目を閉じているのは、ひとつ目の巨大な龍だ。
見かけは厳めしく恐ろしいが、葵を見下ろす右の目は、澄んだ空のような美しい青。その体がぱらぱらと音を立てて降る雨に濡れている。
龍の姿を見るのは初めてだったが、その人はどんな姿でも美しい。葵がずっと会いたかった人だ。
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