サーマルカメラの切ない恋

さんかく ひかる

文字の大きさ
12 / 26

12 夜の打ち明け話

しおりを挟む
 砂尾さんに久しぶりに会えた。いつのまにか、夜の八時だ。あたしの左目はもうお休み。右目だけをパチッと開いて、薄暗いロビーを見つめる。
 この時間に入ってくる人は、ほぼいない。
 朝までゆっくりできるけど、完全に眠るわけにはいかない。ううん、あたしは眠れない。社員さんみんなのために、あたしはずっとここに立つ。

 エレベーターの音が響いた。と、だれかが降りてきた。
 あ、砂尾すなおさんだ。まだ砂尾さんだけが残っていた。あたしは、だれがいつ出勤していつ退勤したか、全部覚えている。
 白いものが混じった頭をくしゃくしゃかきながら、砂尾さんが近づいてきた。
 銀ぶち眼鏡の奥が笑っている。

「ありがとう。本当にエルちゃんのおかげで、俺も会社も助かったんだ」

 やだ。『ありがと』なんて、照れくさい。でもあたしが全身を真っ赤に染めることはできない。赤くなるのは、あたしの一部。モニターで人の存在を感じた部分だけ。

「いつもは検温して出かけるけれど、あの日、忘れてた。俺、平熱高いから気がつかなかったけど、確かに調子よくなかった。管理課の社内プレゼンがあったから無理してさ……でもエルちゃんが教えてくれたんだ。会社に来るなって」

 久しぶりに聞いた砂尾さんの『エルちゃん』。くすぐったい気持ちになる。

「もしエルちゃんがちゃんと教えてくれなかったら……うちの会社、クラスターになったかもしれない」

 じゃあ、あたし、砂尾さんの役に立ったんだね! この会社の役に立ったんだね!

「今回、人の本性見たよなあ。大山君や巻田さんみたいに、自分たちだって感染の可能性があったのに、俺を責めることなくただ心配して……本当に二人ともかわいい後輩だ」

 はぁ、と銀ぶち眼鏡のおじさんが息を吐いた。

「いつも愛想いいやつが、俺を汚物扱いするんだよ。気持ちはわかるけど、キツイよな、ははは」

 砂尾さんは寂しそうに笑って、あたしが座っているカウンターをじっと見つめている。

「俺が入社したとき、ここに派遣の受付さんがいたんだ。そのころは社員がたくさんいて、お客さんもいっぱい来てたからね」

 眼鏡のおじさん、カツカツとだれもいないロビーをゆっくり歩いている。
 昔を思い出しているんだね。

「かわいい受付さんがいたんだ。髪が黒くて清楚なお嬢様って感じだった。俺みたいな新入社員にも優しくしてくれたから……すぐ好きになったよ。ここを通るたびに、何を話そうかいつも悩んでた」

 彼はあたしの目の前に立って、何かを見ている。顔はあたしに向いているけど、あたしじゃないだれかを見ている。

「ドラマとか、ゲームとか、おいしいレストランとか……映画が好き、いつか行きたいですね、なんて盛り上がってたから、俺、本気にしてさ」

 砂尾さんが、あたしの目の前に右手を広げた。「正常温度」の右手を。

「どんな映画がいいか一生懸命考えて……大ヒットした外国アニメの前売り券、渡したんだ。その時は、忙しいからって言われた。映画はロングランになったから、一月ひとつき後、もう一度誘ったんだ。また断られたんだ、用事があるって」

 おじさん、銀ぶち眼鏡を外して、シャツの胸ポケットに入れた。あたしの好きな顔だ。

「笑えるよな、それでもわからなかった……三日後かな、俺、総務課長に呼び出された。派遣社員にセクハラするなって。派遣会社から苦情が来ているってさ」

 砂尾さんが頭をかきながら笑っている。

「総務課長にしかられたよ。派遣さんは立場が弱いから、社員に迫られても断れないって」

 あたしはこの会社の社員のことは何でもわかる。砂尾さんが入社したときの総務課長のこともわかる。今の日比野ひびの常務だ。

「彼女は会社を辞めたよ。受付嬢そのものが廃止され、内線電話の呼出しに変わった……ようやく俺は、自分がとんでもないことをしたってわかったんだ」

 そうなの? 砂尾さん、そんなにひどいことした? 好きな人をデートに誘っただけでしょ?

「彼女、休日は暇で、家でDVD見てる、だれか誘ってくれればいいのに、なんて言ってたから、俺、勘違いしてた……ははは」

 何であたしは泣けないんだろう。こういうとき、泣いてあげたいのに。でも、あたしの目から水が流れたら、壊れちゃう。

「女ってわかんないよな。いやならいやだって、はっきり言ってくれればいいのに……」

 砂尾さん、落ち込まないで。二十年も前なんでしょ? まだひきずっているの?

「本当に、あの時の彼女、かわいかったなあ」

 やれやれと、砂尾さんは伸びをして、ポケットにしまった眼鏡をかけ直した。

「聞いてくれてありがとう。お休み、エルちゃん」

 砂尾さんの寂しそうな背中をあたしはじっと見送った。見送るしかなかった。
 だって。
 あたしが話せるのはたった四つの言葉だけだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛

ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。 そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う これが桂木廉也との出会いである。 廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。 みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。 以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。 二人の恋の行方は……

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛

ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎 潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。 大学卒業後、海外に留学した。 過去の恋愛にトラウマを抱えていた。 そんな時、気になる女性社員と巡り会う。 八神あやか 村藤コーポレーション社員の四十歳。 過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。 恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。 そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に...... 八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。

カラフル

凛子
恋愛
いつも笑顔の同期のあいつ。

“熟年恋愛”物語

山田森湖
恋愛
妻を亡くし、独りで過ごす日々に慣れつつあった 圭介(56)。 子育てを終え、長く封じ込めていた“自分の時間”をようやく取り戻した 佳奈美(54)。 どちらも、恋を求めていたわけではない。 ただ——「誰かと話したい」「同じ時間を共有したい」、 そんな小さな願いが胸に生まれた夜。 ふたりは、50代以上限定の交流イベント“シングルナイト”で出会う。 最初の一言は、たった「こんばんは」。 それだけなのに、どこか懐かしいような安心感が、お互いの心に灯った。 週末の夜に交わした小さな会話は、 やがて食事の誘いへ、 そして“誰にも言えない本音”を語り合える関係へと変わっていく。 過去の傷、家族の距離、仕事を終えた後の空虚—— 人生の後半戦だからこそ抱える孤独や不安を共有しながら、 ふたりはゆっくりと心の距離を縮めていく。 恋に臆病になった大人たちが、 無理をせず、飾らず、素のままの自分で惹かれ合う—— そんな“優しい恋”の物語。 もう恋なんてしないと思っていた。 でも、あの夜、確かに何かが始まった。

甘い失恋

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私は今日、2年間務めた派遣先の会社の契約を終えた。 重い荷物を抱えエレベーターを待っていたら、上司の梅原課長が持ってくれた。 ふたりっきりのエレベター、彼の後ろ姿を見ながらふと思う。 ああ、私は――。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

処理中です...