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11 初めての感染者
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「正常温度です」
「正常温度です」
朝。あたしの右目と右の口は大忙し。次々とみらい開発の社員さんがやってくる。
みんなあたしを無視してた。LXTR1000という名前があるのに、だれも名前を呼ばなかった。
でも、砂尾理一郎さんだけは違った。初めて会ったときから、あたしに笑顔を向けてくれた。あたしを名前で呼んでくれた。彼がつけてくれた特別な名前。みんなが帰ったあと、二人きりの時間、彼はあたしに「エルちゃん」ってささやくの。
彼がいるからがんばれる。朝から晩まで休むことなく、ビルの一階ロビーに立って、みんなの顔をチェックして教えてあげる。
みんなの出勤時間は、大体決まっている。
そろそろ砂尾さんが来るころだ。ガラスのドアがさっと開いて、銀ぶち眼鏡のおじさんがやってきた。
いつも通り、顔をチェックして、大丈夫だよって返事を──
でもあたしは、いつもの返事ができなかった。
右目が、彼の顔を見た途端、熱くなったから。
砂尾さんにこんなこと言いたくない。でも……あたしは嘘つけない。正直に告げるしかなかった。
「温度が高めです」
砂尾さんの顔の表面温度は37.7℃だ。基準値は37.5℃だから「温度が高めです」と返事するしかない。同時に、彼の顔を映すモニターに、赤いマークを表示させる。
砂尾さんが、眼鏡の奥で眉間にしわを寄せている。いつものようにあたしに笑ってくれない。
背中のビジネスリュックを下ろし、ガサゴソあさりだした。と、ボールペンほどの長さの白いケースを取り出し、ふたを開ける。中から体温計が出てきた。シャツを広げ脇に挟む。一分ほどしてピッと鳴ったので、砂尾さんは体温計を取り出し、食い入るように見つめている。
体温計をリュックにしまうと、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「砂尾です。加久田課長、入り口のカメラで37.7℃と表示されました。手持ちの体温計で測ったら、七度八分でしたので、帰ります……プレゼン? 資料はありますよね?……念のため、私はこれから検査しますので」
「温度が高めです」は、あたしの四つの言葉で、最強の威力を発する。あたしにこう言われた人は、このビルに入ってはいけない。
だから、砂尾さんがあたしに背中を見せて出ていくのは、当然のこと。
でも、本当は行ってほしくなかった。
どうしてあたしは「温度が高め」なんて彼に言っちゃったんだろう?
どうして彼は、他の人みたいにシレっと中に入らないで、あたしの言うとおりにしたんだろう?
砂尾さんは会社に来なくなった。
あたしはその理由を知っている。
砂尾さんは新型ウィルスに感染した。この会社で初めての感染者だ。
それから変わった。会社の人たちは変わった。
今まで「温度が高めです」と教えてあげてもほとんどの人が無視してビルに入ったのに、立ち止まるようになった。内線電話で連絡し、体温を測ってもらうようになった。体温計を常備しその場で体温を測る人も出てきた。
砂尾さんと仕事をしていた巻田聖良さんと大山一太さんも会社に来なくなった。
あたしにあいさつしてくれる人は、だれもいない……それでもあたしは仕事を続ける。
三日経った。八時十五分、休んでいた大山さんが、出勤してきた。
「正常温度です」
いつも通り答えてあげると、あたしの中に手を入れてきた。
するといつもの大山さんは違って、あたしの右目に首を傾げて目を細めた。
え? あたしにあいさつをしてくれたの?
八時半、大山さんと同じように休んでいた巻田さんが、やってきた。彼女もあたしを無視することなく、手を振ってくれた。
ごめんね、大山さんに巻田さん。あたし今まで、二人とも砂尾さんにまとわりついて邪魔くさいって思ってた。
砂尾さんだけじゃない。あたしががんばれるのは、二人が砂尾さんを助けてくれたからだ。
巻田さん、残念だったね、砂尾さんにフラれちゃって。大山さん、いつも砂尾さんを励ましてくれるね。二人ともありがとね。
砂尾さんがまだ休みなのは寂しいけれど、あたし、がんばるよ。
十日後、砂尾さんは戻ってきた。
ガラスのドアが開いて、彼があたしに近づいてくる。いつものように笑いかけてくれない。なんか怖い顔をしている。
でも、大丈夫だよ。今度は堂々と答えてあげられるのがうれしい。
「正常温度です」
「よかった! ありがとう、エルちゃん」
砂尾さん、今まで以上に目が笑っていた。マスクの下に隠れた口も笑ってた、多分。
エレベーターの前から二人の社員が、砂尾さんのもとに駆け付けた。巻田さんと大山さんだ。
「リーチさん、ダイジョブっすか?」
「心配かけたね。ありがとう。少し熱は出たけど、症状は軽かったから自宅待機だったよ。大山さんにも巻田さんにも迷惑かけたね」
刈り上げの兄さんが笑った。
「リーチさん! 自分が一番大変だったんじゃないすか」
「そうですよ。迷惑なんかないです。元気になってよかった」
大山さんが笑っている。巻田さんは泣きそうになりながら微笑んでいる。
が、いい感じで笑いあっている三人の輪に、邪魔が入った。
「ちょっと砂尾君! 何やってたの! ちゃんと対策してたの?」
美樹本栄子さんが出勤してきた。邪魔したいけど「正常温度」だから、あたしには止められない。
「申し訳ございません」
「私にまでうつさないでよ!」
ひどい! あたしの砂尾さんに何言ってんのよ! でも、あたしは四つの言葉しか話せない。
何も言えないあたしの代わりに、巻田さんが抗議する。
「課長! 砂尾さんはきちんと対策されてましたよ! 大体、うつすって……課長は濃厚接触者に当たることしたんですか?」
「私が濃厚接触者のはずないでしょ! 巻田さんこそどうなの?」
「あたしたちは濃厚接触者ではありませんが、念のため検査しましたよ。陰性でしたけど、知ってますよね? 検査結果を見せましたから」
二年目社員の迫力に押され、美樹本さんは黙るしかない。
オロオロする砂尾さんを尻目に、大山さんが割って入った。
「いや~オレ、会社で新型一号にはぜーったいなりたくなかったんす。助かりましたよ。ぜーんぶ、リーチさんのおかげっす」
砂尾さん、眼鏡の奥でクシャッと笑っている。
「……砂尾君、あとで、私のところに来てね」
「はい。総務課長、ご迷惑おかけしました」
巻田さんがまた目をつりあげたけど、大山さんが「まあまあ」って抑えて、その場はおさまった。
砂尾さん、本当に大変だったんだね。でも、あたしは何もできない。巻田さんみたいに怒ることも、大山さんみたいに明るく励ますこともできない。
あたしがかけた言葉はひとつだけ。
「正常温度です」
「正常温度です」
朝。あたしの右目と右の口は大忙し。次々とみらい開発の社員さんがやってくる。
みんなあたしを無視してた。LXTR1000という名前があるのに、だれも名前を呼ばなかった。
でも、砂尾理一郎さんだけは違った。初めて会ったときから、あたしに笑顔を向けてくれた。あたしを名前で呼んでくれた。彼がつけてくれた特別な名前。みんなが帰ったあと、二人きりの時間、彼はあたしに「エルちゃん」ってささやくの。
彼がいるからがんばれる。朝から晩まで休むことなく、ビルの一階ロビーに立って、みんなの顔をチェックして教えてあげる。
みんなの出勤時間は、大体決まっている。
そろそろ砂尾さんが来るころだ。ガラスのドアがさっと開いて、銀ぶち眼鏡のおじさんがやってきた。
いつも通り、顔をチェックして、大丈夫だよって返事を──
でもあたしは、いつもの返事ができなかった。
右目が、彼の顔を見た途端、熱くなったから。
砂尾さんにこんなこと言いたくない。でも……あたしは嘘つけない。正直に告げるしかなかった。
「温度が高めです」
砂尾さんの顔の表面温度は37.7℃だ。基準値は37.5℃だから「温度が高めです」と返事するしかない。同時に、彼の顔を映すモニターに、赤いマークを表示させる。
砂尾さんが、眼鏡の奥で眉間にしわを寄せている。いつものようにあたしに笑ってくれない。
背中のビジネスリュックを下ろし、ガサゴソあさりだした。と、ボールペンほどの長さの白いケースを取り出し、ふたを開ける。中から体温計が出てきた。シャツを広げ脇に挟む。一分ほどしてピッと鳴ったので、砂尾さんは体温計を取り出し、食い入るように見つめている。
体温計をリュックにしまうと、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「砂尾です。加久田課長、入り口のカメラで37.7℃と表示されました。手持ちの体温計で測ったら、七度八分でしたので、帰ります……プレゼン? 資料はありますよね?……念のため、私はこれから検査しますので」
「温度が高めです」は、あたしの四つの言葉で、最強の威力を発する。あたしにこう言われた人は、このビルに入ってはいけない。
だから、砂尾さんがあたしに背中を見せて出ていくのは、当然のこと。
でも、本当は行ってほしくなかった。
どうしてあたしは「温度が高め」なんて彼に言っちゃったんだろう?
どうして彼は、他の人みたいにシレっと中に入らないで、あたしの言うとおりにしたんだろう?
砂尾さんは会社に来なくなった。
あたしはその理由を知っている。
砂尾さんは新型ウィルスに感染した。この会社で初めての感染者だ。
それから変わった。会社の人たちは変わった。
今まで「温度が高めです」と教えてあげてもほとんどの人が無視してビルに入ったのに、立ち止まるようになった。内線電話で連絡し、体温を測ってもらうようになった。体温計を常備しその場で体温を測る人も出てきた。
砂尾さんと仕事をしていた巻田聖良さんと大山一太さんも会社に来なくなった。
あたしにあいさつしてくれる人は、だれもいない……それでもあたしは仕事を続ける。
三日経った。八時十五分、休んでいた大山さんが、出勤してきた。
「正常温度です」
いつも通り答えてあげると、あたしの中に手を入れてきた。
するといつもの大山さんは違って、あたしの右目に首を傾げて目を細めた。
え? あたしにあいさつをしてくれたの?
八時半、大山さんと同じように休んでいた巻田さんが、やってきた。彼女もあたしを無視することなく、手を振ってくれた。
ごめんね、大山さんに巻田さん。あたし今まで、二人とも砂尾さんにまとわりついて邪魔くさいって思ってた。
砂尾さんだけじゃない。あたしががんばれるのは、二人が砂尾さんを助けてくれたからだ。
巻田さん、残念だったね、砂尾さんにフラれちゃって。大山さん、いつも砂尾さんを励ましてくれるね。二人ともありがとね。
砂尾さんがまだ休みなのは寂しいけれど、あたし、がんばるよ。
十日後、砂尾さんは戻ってきた。
ガラスのドアが開いて、彼があたしに近づいてくる。いつものように笑いかけてくれない。なんか怖い顔をしている。
でも、大丈夫だよ。今度は堂々と答えてあげられるのがうれしい。
「正常温度です」
「よかった! ありがとう、エルちゃん」
砂尾さん、今まで以上に目が笑っていた。マスクの下に隠れた口も笑ってた、多分。
エレベーターの前から二人の社員が、砂尾さんのもとに駆け付けた。巻田さんと大山さんだ。
「リーチさん、ダイジョブっすか?」
「心配かけたね。ありがとう。少し熱は出たけど、症状は軽かったから自宅待機だったよ。大山さんにも巻田さんにも迷惑かけたね」
刈り上げの兄さんが笑った。
「リーチさん! 自分が一番大変だったんじゃないすか」
「そうですよ。迷惑なんかないです。元気になってよかった」
大山さんが笑っている。巻田さんは泣きそうになりながら微笑んでいる。
が、いい感じで笑いあっている三人の輪に、邪魔が入った。
「ちょっと砂尾君! 何やってたの! ちゃんと対策してたの?」
美樹本栄子さんが出勤してきた。邪魔したいけど「正常温度」だから、あたしには止められない。
「申し訳ございません」
「私にまでうつさないでよ!」
ひどい! あたしの砂尾さんに何言ってんのよ! でも、あたしは四つの言葉しか話せない。
何も言えないあたしの代わりに、巻田さんが抗議する。
「課長! 砂尾さんはきちんと対策されてましたよ! 大体、うつすって……課長は濃厚接触者に当たることしたんですか?」
「私が濃厚接触者のはずないでしょ! 巻田さんこそどうなの?」
「あたしたちは濃厚接触者ではありませんが、念のため検査しましたよ。陰性でしたけど、知ってますよね? 検査結果を見せましたから」
二年目社員の迫力に押され、美樹本さんは黙るしかない。
オロオロする砂尾さんを尻目に、大山さんが割って入った。
「いや~オレ、会社で新型一号にはぜーったいなりたくなかったんす。助かりましたよ。ぜーんぶ、リーチさんのおかげっす」
砂尾さん、眼鏡の奥でクシャッと笑っている。
「……砂尾君、あとで、私のところに来てね」
「はい。総務課長、ご迷惑おかけしました」
巻田さんがまた目をつりあげたけど、大山さんが「まあまあ」って抑えて、その場はおさまった。
砂尾さん、本当に大変だったんだね。でも、あたしは何もできない。巻田さんみたいに怒ることも、大山さんみたいに明るく励ますこともできない。
あたしがかけた言葉はひとつだけ。
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