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一章 僕は彼女を忘れない
12 振り子は正しく振動する
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火曜日の午後は、物理学実験がある。今日のテーマは振り子の振動。
先週は、光の干渉縞の実験を、暗幕で仕切られた狭い空間で行った。
あの暗幕は取り払われ、いつも通り、広々とした空間に、実験テーブルがずらっと並んでいる。
堀口宗太のペアは、僕らのいるところから対角線上にあり、よく見えない。
僕らとは、僕と篠崎あいら。
僕がテキストや実験ノートを広げていると、いつも通り、時刻ぎりぎりにあいらが駆けこんできた。
「三好君、今日もよろしくね」
いつも通り、少し目をそらしてボソッと呟いた。
白衣もヨレヨレのジーンズも、何も変わらないはず……なのに僕には、白衣の下に隠された肌が見える。土曜日に触れた、あの肌が。
なぜだ? 僕は、赤外線が見えるようになったのか? 夏の海岸で透視できる赤外線カメラで女性の水着を撮影するふざけた奴が捕まるが……違う! 僕はそんな卑怯な男ではない!
――ガシャーン!!
ループに入りかけた思考を止めたのは、いつも通りのあいらのヘマだった。
彼女は、振り子を取り出そうとして、床に落とした。
「やだ、転がってっちゃう!」
あいらは、銀色の球体を追いかけ、パタパタと隣りのテーブルの奴にペコッと頭を下げた。
隣りの男は、待ってましたとばかりに転がる球体を拾った。
「島村君、ありがとう。ごめんね」
「あいらちゃん、ドジだなあ~」
島村のやつは、あいらの頭を小突いて振り子の球を渡した。彼女もヘラヘラ笑っている。
親切な男なら誰でもいいのか?
「三好君、ごめんね。振り子落としちゃった」
恥ずかしいのか俯いている。頬が赤い。
「組み立ては僕がやるから、あいらは記録取って」
彼女が丸い目を開いて硬直した。しまった。きつい言い方をしただろうか?
が、あいらが実験ノートを開いて、枠線を書き始めたので、僕は言葉を掛けるタイミングを失ってしまった。
土曜日の出来事は嘘だったのか? 彼女は腹が立つほど全く変わらない。
振り子は何事もなく規則正しく振動した。当然だ。重力が働いている。振り子にも、実験テーブルにも、僕にも、彼女にも。
何事もなく実験は終わった。いつも通り彼女はペコッと頭を下げて、実験室から出た。
実験室の外のロッカーに白衣をしまい込んでいたら、堀口宗太から夕飯に誘われる。
彼の実家は中部地方なので、僕と同じ一人暮らしだ。
彼とはときどき、昼だけではなく夕飯を、学食で取っている。
「やっぱ、あいらちゃん、サイコーだろ?」
宗太が唐揚げを口に放り込み、食べながら僕に問いかけた。
「サイコーも何も、彼女は実験パートナーだ」
僕は鶏ソバを静かに口に運ぶ。音を立ててソバをすするのは、日本のガラパゴスルールで、国際的には駄目らしい。この大学は留学生が多いから、気を配らないといけない。
「へー、駅でチューしてたのに?」
僕はソバを喉に詰まらせる、なんてヘマはせず、静かに箸を置いた。
「ソータ、何を言ってる? 僕は彼女とそんなことはしてないぞ」
人前では、ただの実験パートナーとして振舞っている。
「お前んちの駅、俺らもよく使うからさ。お前ら、見てたヤツ、結構いるぞ」
「違う! キスはしてない! ハグしただけだ!」
つい椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
「へー、やっぱりね~」
友が金髪を揺らして、ニヤニヤ笑っている。
追及する彼の眼差しから顔を反らした。隣りのテーブルの学生と目が合った。見渡すと、何人かが僕を見つめている。
しまった。うかつに声を張り上げ、注目を浴びてしまった。
「で、あいらちゃんとヤッたんか?」
僕は全身全霊をかけて否定する。
「それだけはない! 付き合ってない! 実験の相談に乗ってるだけだ! 駅では、行き違いがあったけど、仲直りで……別に、友達ならそれぐらい普通だろ!」
宗太の細い目がカーブを描いている。絶対コイツ、誤解している……誤解とは言い切れない。
「それに島村が、『三好にすごい睨まれた、こえー』ッて、ビビッてたぞ」
島村は、あいらが実験で落とした振り子を拾った男だ。好きな奴ではないが、僕は、絶対、睨んでなんかいない。
「お前さあ、女と付き合わないって言ってたけど、結局、あいらちゃんの巨乳には勝てなかったんだな。ケケケ、笑える」
やめてくれ! 僕は、無駄にでかい胸は……嫌いではないし、気になるし、目が吸い寄せられるが、そういうことで女を好きになる、ということはない!
なぜなら星佳はそうではなかった。彼女は見た目だけではなく中身が完璧だった。
あいらとあのようになったのは、成り行きだし、今、継続中なのは、僕の名誉と、実験をスムーズに進めるためだ。
「宗太、やめろ、しつこい」
宗太の攻撃をどうかわそうか悩んでたら、ありがたいことに、スマホが振動した。
あいらからの、LINEトークだ。
――はじめて名前で呼ばれた。私も名前で呼んでいい?
なんだ。そういうことか。
物理実験で僕は彼女を「あいら」と呼んだ。彼女が実験室で硬直していたのは、落ち込んだからじゃなかった。
安堵したところで、テンプレの絵文字で「OK」と返す。
「マサハル~、おーい、こっち戻っておいで~。ニヤニヤしてんじゃねーよ」
「別に、ニヤニヤしてませんが」
宗太の追及を交わしながら、ソバ汁に浸った鶏肉を咀嚼する。
確実に僕とあいらの間には、何かがあった。このままでは終わりたくない。僕から彼女を誘うべきだ。
目の前で唐揚げを幸せそうに頬張る男を、一瞥する。駄目だ。こいつに聞いてはいけない。
考えろ。あいらを部屋に呼ぶ口実を。
――土曜日、家で振り子の実験レポート、確認したい
彼女から「OK」の絵文字が返ってきた。
先週は、光の干渉縞の実験を、暗幕で仕切られた狭い空間で行った。
あの暗幕は取り払われ、いつも通り、広々とした空間に、実験テーブルがずらっと並んでいる。
堀口宗太のペアは、僕らのいるところから対角線上にあり、よく見えない。
僕らとは、僕と篠崎あいら。
僕がテキストや実験ノートを広げていると、いつも通り、時刻ぎりぎりにあいらが駆けこんできた。
「三好君、今日もよろしくね」
いつも通り、少し目をそらしてボソッと呟いた。
白衣もヨレヨレのジーンズも、何も変わらないはず……なのに僕には、白衣の下に隠された肌が見える。土曜日に触れた、あの肌が。
なぜだ? 僕は、赤外線が見えるようになったのか? 夏の海岸で透視できる赤外線カメラで女性の水着を撮影するふざけた奴が捕まるが……違う! 僕はそんな卑怯な男ではない!
――ガシャーン!!
ループに入りかけた思考を止めたのは、いつも通りのあいらのヘマだった。
彼女は、振り子を取り出そうとして、床に落とした。
「やだ、転がってっちゃう!」
あいらは、銀色の球体を追いかけ、パタパタと隣りのテーブルの奴にペコッと頭を下げた。
隣りの男は、待ってましたとばかりに転がる球体を拾った。
「島村君、ありがとう。ごめんね」
「あいらちゃん、ドジだなあ~」
島村のやつは、あいらの頭を小突いて振り子の球を渡した。彼女もヘラヘラ笑っている。
親切な男なら誰でもいいのか?
「三好君、ごめんね。振り子落としちゃった」
恥ずかしいのか俯いている。頬が赤い。
「組み立ては僕がやるから、あいらは記録取って」
彼女が丸い目を開いて硬直した。しまった。きつい言い方をしただろうか?
が、あいらが実験ノートを開いて、枠線を書き始めたので、僕は言葉を掛けるタイミングを失ってしまった。
土曜日の出来事は嘘だったのか? 彼女は腹が立つほど全く変わらない。
振り子は何事もなく規則正しく振動した。当然だ。重力が働いている。振り子にも、実験テーブルにも、僕にも、彼女にも。
何事もなく実験は終わった。いつも通り彼女はペコッと頭を下げて、実験室から出た。
実験室の外のロッカーに白衣をしまい込んでいたら、堀口宗太から夕飯に誘われる。
彼の実家は中部地方なので、僕と同じ一人暮らしだ。
彼とはときどき、昼だけではなく夕飯を、学食で取っている。
「やっぱ、あいらちゃん、サイコーだろ?」
宗太が唐揚げを口に放り込み、食べながら僕に問いかけた。
「サイコーも何も、彼女は実験パートナーだ」
僕は鶏ソバを静かに口に運ぶ。音を立ててソバをすするのは、日本のガラパゴスルールで、国際的には駄目らしい。この大学は留学生が多いから、気を配らないといけない。
「へー、駅でチューしてたのに?」
僕はソバを喉に詰まらせる、なんてヘマはせず、静かに箸を置いた。
「ソータ、何を言ってる? 僕は彼女とそんなことはしてないぞ」
人前では、ただの実験パートナーとして振舞っている。
「お前んちの駅、俺らもよく使うからさ。お前ら、見てたヤツ、結構いるぞ」
「違う! キスはしてない! ハグしただけだ!」
つい椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
「へー、やっぱりね~」
友が金髪を揺らして、ニヤニヤ笑っている。
追及する彼の眼差しから顔を反らした。隣りのテーブルの学生と目が合った。見渡すと、何人かが僕を見つめている。
しまった。うかつに声を張り上げ、注目を浴びてしまった。
「で、あいらちゃんとヤッたんか?」
僕は全身全霊をかけて否定する。
「それだけはない! 付き合ってない! 実験の相談に乗ってるだけだ! 駅では、行き違いがあったけど、仲直りで……別に、友達ならそれぐらい普通だろ!」
宗太の細い目がカーブを描いている。絶対コイツ、誤解している……誤解とは言い切れない。
「それに島村が、『三好にすごい睨まれた、こえー』ッて、ビビッてたぞ」
島村は、あいらが実験で落とした振り子を拾った男だ。好きな奴ではないが、僕は、絶対、睨んでなんかいない。
「お前さあ、女と付き合わないって言ってたけど、結局、あいらちゃんの巨乳には勝てなかったんだな。ケケケ、笑える」
やめてくれ! 僕は、無駄にでかい胸は……嫌いではないし、気になるし、目が吸い寄せられるが、そういうことで女を好きになる、ということはない!
なぜなら星佳はそうではなかった。彼女は見た目だけではなく中身が完璧だった。
あいらとあのようになったのは、成り行きだし、今、継続中なのは、僕の名誉と、実験をスムーズに進めるためだ。
「宗太、やめろ、しつこい」
宗太の攻撃をどうかわそうか悩んでたら、ありがたいことに、スマホが振動した。
あいらからの、LINEトークだ。
――はじめて名前で呼ばれた。私も名前で呼んでいい?
なんだ。そういうことか。
物理実験で僕は彼女を「あいら」と呼んだ。彼女が実験室で硬直していたのは、落ち込んだからじゃなかった。
安堵したところで、テンプレの絵文字で「OK」と返す。
「マサハル~、おーい、こっち戻っておいで~。ニヤニヤしてんじゃねーよ」
「別に、ニヤニヤしてませんが」
宗太の追及を交わしながら、ソバ汁に浸った鶏肉を咀嚼する。
確実に僕とあいらの間には、何かがあった。このままでは終わりたくない。僕から彼女を誘うべきだ。
目の前で唐揚げを幸せそうに頬張る男を、一瞥する。駄目だ。こいつに聞いてはいけない。
考えろ。あいらを部屋に呼ぶ口実を。
――土曜日、家で振り子の実験レポート、確認したい
彼女から「OK」の絵文字が返ってきた。
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