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二章 僕は彼女を離さない
39 別れの理由
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僕のとなりに、篠崎あいらではなく青山星佳がいる。母が仕組んだことだ。
「母が君に何を頼んだのか知らないが、君が引き受けることはないだろ?」
「ええ。おば様は私に『お願い! 雅春に言い聞かせるからやり直して!』と前からおっしゃっていたわ。でも私は断ったの」
母はそんなみっともないことを言っていたのか!
「それはすまなかった。母に言っておくよ」
「わかっていないのね! なぜそれを言うのがおば様で、あなたではないの!?」
「わからないよ。大体、なぜ君は僕と別れたんだ?」
長い腕が僕の背中に回され、しがみ付かれる。
「マサ! どうして今になって聞くの!? 遅すぎるわ!」
星佳は僕の胸で泣きじゃくる。
僕はただ、まっすぐな肩と背中を撫でた。撫でながら、篠崎あいらとは肩の位置と感触が違うことを思い出す。あの子は小さいからもう少し下で、星佳よりふっくらしていたから柔らかかった。
「ちゃんと教えてほしい。なぜ君はいなくなったんだ?」
彼女の泣き声が途切れたところで、ずっと知りたかったことを尋ねた。
「本気にするなんて思わなかったのよ!」
世の中には理解できないことがたくさんある。量子論もその一つだ。ナノスケールの世界は、僕ら人間の感覚器が捉える世界とは異なる。箱に入れたボールが勝手に飛び出すし、ボールが正確にどこにあるか把握することができない。わかるのは存在確率だけ。
「君は僕をからかったのか?」
声を振り絞って、疑問を確認する。
「違うわ……あなたが本当に私を好きなのか、わからなかったのよ」
「そんなの当たり前じゃないか! 僕はいつも言ってただろ?」
「マサはいつも私に賛辞をくれた。私の声にも……顔にも、何もかも」
「僕は君の声も何もかも美しいと思っていたから、そう言っただけだ」
「それならなぜ、私の言うとおりにピアニストにならないで、あんな変な大学に行ったの?」
先ほどから彼女はよくわからないことを口走っている。が、僕は理解に努めようとした。
あやふやで何とも頼りないナノの世界にアボガドロ定数を掛けると、僕らがよく知る世界になる。ボールは勝手に飛び出さないし、僕がいつどこにいるかは……把握されている。スマホとGPSによって。
ナノスケールのあやふやな仕組みがなければ、僕らは物を見ることができないし、思考を進めることはできない。まさに今、難問に取り組んでいる。
「つまり、音大に進まない僕に不満があり、別れを持ち出すことで気持ちを試した、ということなのか?」
「言葉にすると陳腐になるわね。でも……いつもニコニコして私の言うことを聞くマサなのに、大学だけは譲らなかったから……」
「僕より君の方がわかるはずだ。僕は、いつも君が耳にしているピアノ科の子の足元にも及ばないって」
が、星佳は首を振る。
「あなたのレベルなんてどうでもいいのよ! ピアノ科の子は自分の音楽ばかり! 私には、いつでも伴奏して支えてくれる人が必要なの!」
――あなたのレベルなんてどうでもいい。
星佳は高校時代、僕に何度かピアニストになるよう勧めた。が、僕は自分の実力もピアノへの情熱も知っていたから、笑って首を振った。
が、星佳が僕の力を認めてくれたんだと、誇らしい気持ちでいっぱいになった。
「……君専属の伴奏者になれっていうこと?」
「マサは、リストやラフマニノフは弾けないけど、私の練習パートナーにそこまでの技術は求めないわ。あなたには音楽の知識があるもの。本番はプロの伴奏者に頼むけど、普段の練習なら充分よ」
「僕は君の言う通り、別の大学に行っても君の練習を手伝うつもりだったよ」
「無理に決まってるじゃない! レポートがたくさんあるって言ったわよね? 理系大学は忙しいってみんな言っているわ」
「……才能のない僕が無理に音大に行っても、何にもなれないよ。音楽では生きていけない」
「何かになる必要あって? 私の傍にいられるのに? お金なら、マサのお父様とお母様が何とかしてくださるでしょう? 私の家も問題ないわ」
かつての恋人は頬に涙の跡を残し、静かに微笑んだ。女王の微笑だった。
彼女は僕に従者であることを求めた。僕の進路を応援する、という発想は欠片もない。
音楽室で、僕のピアノに突然、美声を重ねてきた彼女。夢のような出会いだった。
間違いない。僕が大好きだった青山星佳だ。
「それならもっと早く言ってほしかったよ」
「私も音大受験で余裕がなかったわ。だから卒業式で別れを匂わせて、一年後の音大受験を勧めるつもりだったの」
彼女は女王だ。僕に仮面浪人までさせて、成功する見込みのないピアニストへの道を歩ませようとしたのだから。
卒業式――僕は星佳と別れたくなかった。星佳は、僕を音大に行かせるつもりだった。が、僕は内心の葛藤を抑え込み、笑顔を作った。星佳は引っ込みがつかず、僕らは別れた……互いのプライドのために。
頭の中がすーっと晴れ上がっていく。
「ありがとう。ずっと僕は何が悪かったのか、悩んでいたよ」
「……マサと別れた後も、おば様とはお話させていただいたの。だから、あなたの様子は知っていたわ。一人暮らしを始めたのも、私と別れたからでしょう?」
笑うしかない。本当のことだ。失恋の痛みを何とかしたくて、新しい生活を始めた。
「マサは別れてもずっと私を想っていると信じていたのに……すぐ新しい女に乗り換えたのね」
「あ、いや、それは……」
篠崎あいらとは、ちゃんと付き合ったわけではない。が、そんなことを星佳に言い訳してもどうにもならない。
「お母様に篠崎さんの写真を見せてもらったけど……彼女に迫られたのでしょう? マサのタイプではないもの」
確かにその通りだ。実験室の暗がりで、篠崎あいらは僕に『エッチについて知りたいの』と迫った。星佳との夢のような出会いに比べれば、あまりに俗っぽい。
「あなたが初めて抱く女は、私のはずだったわ」
すっと星佳がベッドから立ち上がった。
「マサが他の大学で忙しくしても許すわ。伴奏してくれる子なら、いくらでもいるもの」
星佳は音大で、彼女の従者を見つけたのだろう。
「篠崎さんって可愛いし胸が大きいわね。料理、作ってくれたんですって? 私、料理はあまり好きではないの」
あいらがマンションで料理を作ったことを、なぜ彼女が知っている? いや……母は僕の部屋のゴミ箱を調べて使用済みコンドームを見つけたのだ。生ゴミの痕跡から、気付いたのだろう。
「料理や胸の大きさなんて、どうでもいいだろ!」
「よくないわ。篠崎さんって、いかにもモテない男が好きそうなタイプ。マサまでそういう女に引っかかるなんて、失望しかないわ」
僕は星佳をたしなめるべきだろう。篠崎あいらをディスられているのだから。なのに一言も返せない。プライドの高い星佳があいらに嫉妬している……悪い気分ではない
「マサ、マンションから出てこの家に戻って。あとスマホから篠崎さんのアドレス削除して」
「無理だよ! ここから大学は一時間以上かかる。あいらは実験パートナーだ」
「私の通学時間も似たようなものよ。工業大生に確認したけど、実験パートナーとLINEしなくても、レポートは書けるわよね」
僕はベッドに腰かけたまま動けなくなる。と、星佳がカーペットに座り、僕の太ももに頭を載せてきた。
「なっ!」
「篠崎さんと完全に切れたら、私を好きにしていいわよ」
青山星佳の長い黒髪が妖しく流れる。僕の脳は、夜の女王に支配された。
「母が君に何を頼んだのか知らないが、君が引き受けることはないだろ?」
「ええ。おば様は私に『お願い! 雅春に言い聞かせるからやり直して!』と前からおっしゃっていたわ。でも私は断ったの」
母はそんなみっともないことを言っていたのか!
「それはすまなかった。母に言っておくよ」
「わかっていないのね! なぜそれを言うのがおば様で、あなたではないの!?」
「わからないよ。大体、なぜ君は僕と別れたんだ?」
長い腕が僕の背中に回され、しがみ付かれる。
「マサ! どうして今になって聞くの!? 遅すぎるわ!」
星佳は僕の胸で泣きじゃくる。
僕はただ、まっすぐな肩と背中を撫でた。撫でながら、篠崎あいらとは肩の位置と感触が違うことを思い出す。あの子は小さいからもう少し下で、星佳よりふっくらしていたから柔らかかった。
「ちゃんと教えてほしい。なぜ君はいなくなったんだ?」
彼女の泣き声が途切れたところで、ずっと知りたかったことを尋ねた。
「本気にするなんて思わなかったのよ!」
世の中には理解できないことがたくさんある。量子論もその一つだ。ナノスケールの世界は、僕ら人間の感覚器が捉える世界とは異なる。箱に入れたボールが勝手に飛び出すし、ボールが正確にどこにあるか把握することができない。わかるのは存在確率だけ。
「君は僕をからかったのか?」
声を振り絞って、疑問を確認する。
「違うわ……あなたが本当に私を好きなのか、わからなかったのよ」
「そんなの当たり前じゃないか! 僕はいつも言ってただろ?」
「マサはいつも私に賛辞をくれた。私の声にも……顔にも、何もかも」
「僕は君の声も何もかも美しいと思っていたから、そう言っただけだ」
「それならなぜ、私の言うとおりにピアニストにならないで、あんな変な大学に行ったの?」
先ほどから彼女はよくわからないことを口走っている。が、僕は理解に努めようとした。
あやふやで何とも頼りないナノの世界にアボガドロ定数を掛けると、僕らがよく知る世界になる。ボールは勝手に飛び出さないし、僕がいつどこにいるかは……把握されている。スマホとGPSによって。
ナノスケールのあやふやな仕組みがなければ、僕らは物を見ることができないし、思考を進めることはできない。まさに今、難問に取り組んでいる。
「つまり、音大に進まない僕に不満があり、別れを持ち出すことで気持ちを試した、ということなのか?」
「言葉にすると陳腐になるわね。でも……いつもニコニコして私の言うことを聞くマサなのに、大学だけは譲らなかったから……」
「僕より君の方がわかるはずだ。僕は、いつも君が耳にしているピアノ科の子の足元にも及ばないって」
が、星佳は首を振る。
「あなたのレベルなんてどうでもいいのよ! ピアノ科の子は自分の音楽ばかり! 私には、いつでも伴奏して支えてくれる人が必要なの!」
――あなたのレベルなんてどうでもいい。
星佳は高校時代、僕に何度かピアニストになるよう勧めた。が、僕は自分の実力もピアノへの情熱も知っていたから、笑って首を振った。
が、星佳が僕の力を認めてくれたんだと、誇らしい気持ちでいっぱいになった。
「……君専属の伴奏者になれっていうこと?」
「マサは、リストやラフマニノフは弾けないけど、私の練習パートナーにそこまでの技術は求めないわ。あなたには音楽の知識があるもの。本番はプロの伴奏者に頼むけど、普段の練習なら充分よ」
「僕は君の言う通り、別の大学に行っても君の練習を手伝うつもりだったよ」
「無理に決まってるじゃない! レポートがたくさんあるって言ったわよね? 理系大学は忙しいってみんな言っているわ」
「……才能のない僕が無理に音大に行っても、何にもなれないよ。音楽では生きていけない」
「何かになる必要あって? 私の傍にいられるのに? お金なら、マサのお父様とお母様が何とかしてくださるでしょう? 私の家も問題ないわ」
かつての恋人は頬に涙の跡を残し、静かに微笑んだ。女王の微笑だった。
彼女は僕に従者であることを求めた。僕の進路を応援する、という発想は欠片もない。
音楽室で、僕のピアノに突然、美声を重ねてきた彼女。夢のような出会いだった。
間違いない。僕が大好きだった青山星佳だ。
「それならもっと早く言ってほしかったよ」
「私も音大受験で余裕がなかったわ。だから卒業式で別れを匂わせて、一年後の音大受験を勧めるつもりだったの」
彼女は女王だ。僕に仮面浪人までさせて、成功する見込みのないピアニストへの道を歩ませようとしたのだから。
卒業式――僕は星佳と別れたくなかった。星佳は、僕を音大に行かせるつもりだった。が、僕は内心の葛藤を抑え込み、笑顔を作った。星佳は引っ込みがつかず、僕らは別れた……互いのプライドのために。
頭の中がすーっと晴れ上がっていく。
「ありがとう。ずっと僕は何が悪かったのか、悩んでいたよ」
「……マサと別れた後も、おば様とはお話させていただいたの。だから、あなたの様子は知っていたわ。一人暮らしを始めたのも、私と別れたからでしょう?」
笑うしかない。本当のことだ。失恋の痛みを何とかしたくて、新しい生活を始めた。
「マサは別れてもずっと私を想っていると信じていたのに……すぐ新しい女に乗り換えたのね」
「あ、いや、それは……」
篠崎あいらとは、ちゃんと付き合ったわけではない。が、そんなことを星佳に言い訳してもどうにもならない。
「お母様に篠崎さんの写真を見せてもらったけど……彼女に迫られたのでしょう? マサのタイプではないもの」
確かにその通りだ。実験室の暗がりで、篠崎あいらは僕に『エッチについて知りたいの』と迫った。星佳との夢のような出会いに比べれば、あまりに俗っぽい。
「あなたが初めて抱く女は、私のはずだったわ」
すっと星佳がベッドから立ち上がった。
「マサが他の大学で忙しくしても許すわ。伴奏してくれる子なら、いくらでもいるもの」
星佳は音大で、彼女の従者を見つけたのだろう。
「篠崎さんって可愛いし胸が大きいわね。料理、作ってくれたんですって? 私、料理はあまり好きではないの」
あいらがマンションで料理を作ったことを、なぜ彼女が知っている? いや……母は僕の部屋のゴミ箱を調べて使用済みコンドームを見つけたのだ。生ゴミの痕跡から、気付いたのだろう。
「料理や胸の大きさなんて、どうでもいいだろ!」
「よくないわ。篠崎さんって、いかにもモテない男が好きそうなタイプ。マサまでそういう女に引っかかるなんて、失望しかないわ」
僕は星佳をたしなめるべきだろう。篠崎あいらをディスられているのだから。なのに一言も返せない。プライドの高い星佳があいらに嫉妬している……悪い気分ではない
「マサ、マンションから出てこの家に戻って。あとスマホから篠崎さんのアドレス削除して」
「無理だよ! ここから大学は一時間以上かかる。あいらは実験パートナーだ」
「私の通学時間も似たようなものよ。工業大生に確認したけど、実験パートナーとLINEしなくても、レポートは書けるわよね」
僕はベッドに腰かけたまま動けなくなる。と、星佳がカーペットに座り、僕の太ももに頭を載せてきた。
「なっ!」
「篠崎さんと完全に切れたら、私を好きにしていいわよ」
青山星佳の長い黒髪が妖しく流れる。僕の脳は、夜の女王に支配された。
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