ママの忘れもの 私と彼女の五十年

さんかく ひかる

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忘れものはどこへ行く?

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 週に一度の実家訪問から戻れば、翌日は出勤。
 会社の机には、一時間ごとに成長する書類タワー。
 最優先タスクは、ITフェア展示会のリポート。明日の午後イチに発表しなければならない。発表用のプレゼンファイルは無垢な赤子のまま。
 当然だ。なぜなら私は、展示会に行ってないのだ。

 一睡もできないまま朝を迎えた。雲一つない空の青が目に突き刺さる。
 通勤電車に乗るが、午後の報告会は絶望的。午前中に報告書をでっち上げるのは不可能だ。
 実家とは反対方向に電車が走りだす。三つ目の駅が、会社の最寄り駅。

 ──私は、駅を降りなかった。電車は、北へ北へ進む。


 異動して三年は頑張ったが、この一年、すっかりやる気が失せた。
 一年前に何があったのか? 厳しい役員が入社した? 親の具合が悪くなった? それとも更年期? ……どれでもない。私は元々こういう人間なのだ。
 大学でも最初に就職した会社でも、同じことをしでかした。
 今まで踏みとどまっていたが、ついにやってしまった。一度やると……戻れない。前もそうだったから。

 午前十時。会社のガラケーが、けたたましく鳴りだす。電車は鉄橋に差し掛かる。下は川だ。うるさい携帯を車窓から放り投げた。ほどなくスマホがブーブー震えだす。橋を渡る前に、スマホも外へ捨てた。ガラケーもスマホも川が受けとめるだろう。
 電車は終点についた。

 通勤と実家訪問以外にこの路線を使ったのも、北の終着駅で降りるのも初めてだ。
 自動改札を抜ける。目に、懐かしの光景が映った。

「あれ! ここ、知ってる! だって、毎日行ってた!!」


 そこは実家駅前のショッピングセンターだった。とうに消え失せ、コンビニと居酒屋に変わったはずのレトロな施設。

 入り口右には八百屋さん。左手には肉屋さん。通路を進むと魚屋さん。あの頃と変わらない。生臭い魚屋の匂いも変わらない。
 右に折れたところに、子供のパラダイスな文房具屋があるはず。
 が。
 九十度ターンした途端、パラダイスは消えてしまった。

 私は、自宅最寄り駅のモールに立っていた。


 会社から逃げ出したはずなのに、元に戻っている。
 所在なくモールをうろつく。と、左手に違和感を覚えた。淡い紫色のコットンが目についた。母が好きな色のパジャマだ。
 血液が逆流し、何かがこみ上げ瞼が熱くなる。
 唐突に、今すぐ母の顔を見たくなった。昨日会ったばかりなのに。ウンザリしているはずなのに。
 そっと、柔らかな布地に指を滑らせる。

「ママ」

 何十年も使ってない呼びかけが口をついた。

「ママ! 私ここだよ! すぐ見つけて! 迷子になっちゃったよ! 迷子だからどこにも行けないの!」

 堪え切れず、私はモールの冷たい床に座り込んだ。

「私のこと忘れたの!? 忘れたことも忘れたの?」

 人目もはばからず、私は泣きわめく。

「私って意味なかったの? 私を産んで幸せだったって言って! 私を育てていい人生だったって言ってよ、ママ!」

 涙でグシャグシャになった顔を紫色のパジャマにこすり付け、私は、誰にも届かぬ叫びを繰り返した。


   〈了〉

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