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3章 アラサー女子、ふるさとの祭りに奔走する
3-3 幼なじみのお兄ちゃん
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月祭りの準備委員会に顔を出すのは、何年ぶりだろうか。父がいなくなってからは、直前に手伝い要因として参加したぐらいだ。
会合に使っている集会所の雰囲気は全然変わらない。
私は自分の立場をわきまえなければならない。私は委員のメンバーではない。祭りに参加する西都科学技術大学宇関キャンパスの事務担当として、顔を出すのだ。
委員のメンバーはお年寄りが多い。
私のことは知らされたはずなのに、彼らは私の顔を見るなりぎょっと、まるで珍しい爬虫類でも見たような表情を向け、バツが悪そうに頭を下げた。
覚悟していた。私は歓迎されていない。
以前は、私は父と祭りの委員によく顔を出し、「那津美ちゃんは親孝行娘だねえ~」などと歓迎してくれた。
が、七年前、父の尋常ではない死により、素芦は名士としての地位を完全に失い、その地位は荒本家に変わった。
荒本家が卑怯な手段で素芦家を潰したことは明白だが、宇関の古老たちは荒本家に付いた。
彼らは、私と顔を合わせたくないだろう。
土曜日の夜とあり、多くの委員が集まっているようだ。女の人たちがお茶出しを始めたので、私も手伝うことにした。
「那津美さんは座ってて」と言われたが、ここで引き下がってはいけない。私はお盆にお茶を載せて会合の部屋に持っていった。
女の人も私に対して気まずい思いがあるのだろう。本来ならここにいるべき荒本さんの奥さんがいない。私に気を遣っているのだろうか。
おもむろに現れたその荒本さんが、隅にどかっと腰を下ろす。
委員の中では一番若く序列も下だ。が、この場を実際仕切っている者が彼だと、誰もが認めているようだ。
「じょーじちゃん、お疲れ~」
老人たちも腰を浮かせ騒めいている。
荒本さんの視線が茶を配る私に刺さっている気がする。気のせいだろうか。
おつまみやジュースが並べられ、ゆるゆると会合が始まった。
荒本さんが「今日はわざわざ西都科学技術大学さんが来てくれたんだ。そっから始めるのはどうですかね?」と委員長に促す。
私はスポンサーの一覧と大学の出展ブースのパースを描いたペーパーを配った。
「へええ、こんなに企業さんが集まっただね」
「でも、みーんな聞いたことない会社だぞ」
「しかも、ほとんどが一口か、けち臭いな、大学って」
それを言われると辛い。広告を申し込んだ企業は三十社なので、中々の数だと思う。が、どれも小口のため金額にするとそれほどにはならない。
「す、すみません! 時間がなくて今回はこれだけでした。でも、来年からはもっと早くから大学に働きかけます。みんな小さい企業なので小口ですが、首都の企業が多く、関係者に宇関のことをもっともっと知ってもらえると思います」
私は寄付金のことまでは頭に回らなかった。とにかく数さえ集めればいいと思い、一口でいいから、とお願いして回った。
荒本さんが口を挟む。
「どれも俺らが知らない会社さんだ。だから、俺らはこれから、知らない会社と商売のチャンスを広げられるってことだ。寄付金の額じゃねえ。おれは早速売り込みさせてもらうぜ」
私も畳みかけるように付け加えた。
「気になる会社がありましたら、私、企業の広告担当者に連絡取ります」
微妙な空気が流れる。
老人たちは、私と荒本さんが婚約して破棄したことを知っている。険悪なはずの二人が、庇いあうようなやり取りを見せたのだ。
「そ、そだな。なにせあの那津美ちゃんが、こんな立派な大学の人になってすごいよな」
「昔から那津美ちゃんは、頭良かったぞ」
突然、褒め言葉が飛び交い、私は戸惑う。
「親父さん、自慢の娘だったなあ」
「親父さんよりはずっと仕事してるな。こんな立派な資料を作るだけでも違う」
また会合の雰囲気が嫌な流れになっている。
「素芦の殿様、本当にいい人だったよなあ」
「そうそう、いい人だからすぐ賃料負けてくれて、ありがたかったよ~」
「でも殿様は、何もしなかったよ。先々代はやり手だったがな」
殿様の娘がいるのに、殿様の悪口で場は盛り上がり始めた。
「いやいや、あったぞ。ほら覚えてるか?」
「あー、遊園地ね。めずらしく殿様が自分で始めた事業、びっくりしたなあ」
その遊園地なら、遊びに行った。母がいなくなって寂しがる私のため、父はしばしば連れてってくれた。荒本さんとも行った。
「だけどさ、ターミナルから離れたあんな土地に遊園地なんてねえ」
「すぐ潰れちゃったな」
「唯一始めた事業があれじゃねえ……」
父が作った遊園地は、大学のキャンパスに変わった。
いつも仕事している時、私はそのことを忘れている。大学の中を歩いても、遊園地の面影はまったくない。
どうして、父はあの遊園地を作ったんだろう……私は何か大切なことを忘れている……。
場の空気に耐えられず、立ち上がった。
「みなさん!」
途端に注目が集まる。さすがに、亡き「殿様」の娘の前で話すことではないと思ったのか、誰もが口を抑えている。
「今日は、話を聞いてくださりありがとうございます。大学のブース拡張案はいかがでしょうか? この場で認めていただけたら、西都科技大は、みなさまの祭りを盛り上げるため、力を貸します」
中央に座る祭りの委員長がうなずく。
「あ、ああよろしく。那津美ちゃん。すごいねえ、頼むよ」
私はその場で頭を垂れ、礼を述べ立ち去った。そして、台所にいる女性たちにも礼を述べる。集会所の下駄箱にいれた靴を降ろすと同時に、大声がかかった。
「那津美!」
「荒本さん……今日はありがとうございます」
私は、大学の担当者として頭を下げた。
暗がりの駐車場に止めた車に向かって歩んだ。そのまま私についてきた荒本さんは、駐車場でひたすら謝っていた。
「今日はすまなかった。爺さん達は後で叱っておく」
私は首を振った。
「ダメですよ荒本さん。いくらあなたが荒本家の次男でも、年長者は敬わないと。お爺さま方は、寄付の口数が少ないとおっしゃってたわ」
「あんなの何もわかってない! 無視しろ」
荒本さんが私の代わりに怒ってくれている……悪い気持ちはせず、正直な気持ちを告げた。
「私……ミツハ不動産より大きなブースを出したかったんです」
「ははは、そうか、悪くないぞ。なら、ミツハのブースを半分、大学に譲る」
「いいのですか?」
「他の出展者を削るわけにいかねえ」
「よかった。私、広報課長さんに啖呵を切ったんで、ミツハの副支店長にそう言ってもらえると助かります」
過去はどうであれ、私はミツハの副支店長に感謝した。
「何年もお前の笑った顔、見てなかったな」
ずっとこの男が憎かった。それは変わらない。ただ、祭りの運営については信頼できる気がしてきた。
そして先ほどの会合で聞いた父の評判を確かめたくなった。
「……父は、宇関のために働いていました」
荒本さんは長い沈黙の上、口を開いた。
「親父さんは、いい人だった。賃料を負けてやったのは、疋田のばあさんだけじゃない。テナントの奴ら、ちょっと泣きつけば安くしてくれるって、知っていた。俺はミツハにいたが、親父さんを手伝ってたから、事情は大体知っている」
それは父に、領民に慈悲を施す領主の末裔としての誇りがあったからに違いない。
「荒本さんはいい人だった父を、そんなに許せなかったのですか」
「経営者としては最悪だった。採算取れない賃料じゃいずれ破綻する。戦争前なら素芦の威光で銀行は金を貸しただろうが、今はそんな時代じゃない」
「あなたがミツハに社員を引き抜いたから、素芦は倒産したんです! あなたが私を裏切ったからなのよ! なぜ、私たちをずっと恨むの!」
これまで私は、チクチク慇懃無礼に接したり厭味を繰り返してきたが、この男に声を荒げたことは、あまりない。
荒本さんは腕くみをしたまま動かない。
「七年前は可哀相だったから何も言わなかった。が、いい加減にしてくれ」
「いい加減にしてほしいのは私です! 叔母さんの塾を潰して、私を無職にして父と同じように死んでほしかったのでしょ!?」
私は自分の青いコンパクトカーに向かって走った。
「那津美! お前は本当のことを知るべきだ!」
その言葉に、私は思わず足を止める。
「今度、ミツハの事務所で教えてやる!」
私は車を発進させた。そして自宅ではなく、ミツハ不動産の事務所に向かった。
かつて、休みのたびに出入りしていたビル。どの社員さんも私に優しくしてくれた。お茶くみにコピー、ホッチキス止めにフロアの掃除などを手伝うと、褒められた。
最上階の社長室にお茶を運ぶと、父がニコニコ笑って迎えてくれた。
ビルの窓は、まだポツポツと明かりがついている。夜遅くまで働いているのは数人というとこか。正面玄関は固く閉ざされている。
所在なくウロウロしていると、見慣れぬ中型のワゴン車が入ってきた。そこから現れたのは荒本丞司だった。
かつて彼の車に何度も乗った。その時は派手なオープンカーだった。この車はファミリー向けだ。彼が何を言おうが、彼には妻と子どもがいるのだ。
「よお、じいさんたちを適当に巻いてきたぜ」
「まさか、私がいると思ったのですか?」
「いや。会合の後も、事務所によるからな」
途端、気恥ずかしくなり、私は帰ろうと背を向ける。が、荒本に手を取られた。
「何です?」
「本当のこと、知りたいんだろ?」
彼は、ビルの裏手に回り、従業員用出入り口のセキュリティシステムにカードをかざした。
そうだ。もう私はこのビルに勝手に入ることはできないのだ。
前と同じように副支店長室に通された。最上階には誰もいない。
「そこに座れ」
柔らかい大きなソファに私は腰を所在なくおろす。と、盆にお茶を二客入れた荒本が戻ってきた。
精悍な大男に似合わない動作が何かおかしく、私は吹き出してしまう。
「変か? 俺だって、お茶ぐらい客にいれる」
「お兄ちゃんにお茶を入れてもらうなんて、初めてだもの」
「お兄ちゃんか、その方がずっとましだな」
しまった! 私は七年前の彼の裏切りから、ずっと「荒本さん」と意識して呼んでいた。
「……すみません。奥様のいる方になれなれしかったですね」
「いったろ。あいつとは結婚したわけじゃない。さて、本当のことだな」
彼は自分の机から鍵を取り出し、キャビネットを開けた。その奥に古びた金庫が見える。
その金庫に見覚えがあった。
この会社の金庫ではない。素芦の屋敷の金庫だ。
「荒本さん、やはり、あなたは素芦の財産を盗んだのね!」
彼は、別のキャビネットから取り出した古い鍵を金庫に差し込んだ。
中には、帯だたしいほどの通帳に書類が積み重なっている。
「こんなところに通帳があったのね! 許せない!」
「ああ、お前に今全部返すとも、そしてよく見ろ」
彼は金庫の中身を乱雑に、どさっと応接用テーブルにぶちまけた。
「何するの! いくら素芦に恨みがあるからって、ひどいじゃない!」
「いいから一つでも見るんだ。お前ももうすぐ三十歳だ。そろそろわかるだろ」
私は食い入るように、通帳を開く。許せない。こんなところに素芦の財産を盗み隠し破産に追い込み父を死なせたなんて!
「わからなかったら、教えてやる」
一つ一つの通帳、そして、書類を確認した。
「うそ! うそ! うそよ!!」
すべての通帳の残高はゼロ円で解約済み、書類は借金の督促状だった。
会合に使っている集会所の雰囲気は全然変わらない。
私は自分の立場をわきまえなければならない。私は委員のメンバーではない。祭りに参加する西都科学技術大学宇関キャンパスの事務担当として、顔を出すのだ。
委員のメンバーはお年寄りが多い。
私のことは知らされたはずなのに、彼らは私の顔を見るなりぎょっと、まるで珍しい爬虫類でも見たような表情を向け、バツが悪そうに頭を下げた。
覚悟していた。私は歓迎されていない。
以前は、私は父と祭りの委員によく顔を出し、「那津美ちゃんは親孝行娘だねえ~」などと歓迎してくれた。
が、七年前、父の尋常ではない死により、素芦は名士としての地位を完全に失い、その地位は荒本家に変わった。
荒本家が卑怯な手段で素芦家を潰したことは明白だが、宇関の古老たちは荒本家に付いた。
彼らは、私と顔を合わせたくないだろう。
土曜日の夜とあり、多くの委員が集まっているようだ。女の人たちがお茶出しを始めたので、私も手伝うことにした。
「那津美さんは座ってて」と言われたが、ここで引き下がってはいけない。私はお盆にお茶を載せて会合の部屋に持っていった。
女の人も私に対して気まずい思いがあるのだろう。本来ならここにいるべき荒本さんの奥さんがいない。私に気を遣っているのだろうか。
おもむろに現れたその荒本さんが、隅にどかっと腰を下ろす。
委員の中では一番若く序列も下だ。が、この場を実際仕切っている者が彼だと、誰もが認めているようだ。
「じょーじちゃん、お疲れ~」
老人たちも腰を浮かせ騒めいている。
荒本さんの視線が茶を配る私に刺さっている気がする。気のせいだろうか。
おつまみやジュースが並べられ、ゆるゆると会合が始まった。
荒本さんが「今日はわざわざ西都科学技術大学さんが来てくれたんだ。そっから始めるのはどうですかね?」と委員長に促す。
私はスポンサーの一覧と大学の出展ブースのパースを描いたペーパーを配った。
「へええ、こんなに企業さんが集まっただね」
「でも、みーんな聞いたことない会社だぞ」
「しかも、ほとんどが一口か、けち臭いな、大学って」
それを言われると辛い。広告を申し込んだ企業は三十社なので、中々の数だと思う。が、どれも小口のため金額にするとそれほどにはならない。
「す、すみません! 時間がなくて今回はこれだけでした。でも、来年からはもっと早くから大学に働きかけます。みんな小さい企業なので小口ですが、首都の企業が多く、関係者に宇関のことをもっともっと知ってもらえると思います」
私は寄付金のことまでは頭に回らなかった。とにかく数さえ集めればいいと思い、一口でいいから、とお願いして回った。
荒本さんが口を挟む。
「どれも俺らが知らない会社さんだ。だから、俺らはこれから、知らない会社と商売のチャンスを広げられるってことだ。寄付金の額じゃねえ。おれは早速売り込みさせてもらうぜ」
私も畳みかけるように付け加えた。
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「昔から那津美ちゃんは、頭良かったぞ」
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いつも仕事している時、私はそのことを忘れている。大学の中を歩いても、遊園地の面影はまったくない。
どうして、父はあの遊園地を作ったんだろう……私は何か大切なことを忘れている……。
場の空気に耐えられず、立ち上がった。
「みなさん!」
途端に注目が集まる。さすがに、亡き「殿様」の娘の前で話すことではないと思ったのか、誰もが口を抑えている。
「今日は、話を聞いてくださりありがとうございます。大学のブース拡張案はいかがでしょうか? この場で認めていただけたら、西都科技大は、みなさまの祭りを盛り上げるため、力を貸します」
中央に座る祭りの委員長がうなずく。
「あ、ああよろしく。那津美ちゃん。すごいねえ、頼むよ」
私はその場で頭を垂れ、礼を述べ立ち去った。そして、台所にいる女性たちにも礼を述べる。集会所の下駄箱にいれた靴を降ろすと同時に、大声がかかった。
「那津美!」
「荒本さん……今日はありがとうございます」
私は、大学の担当者として頭を下げた。
暗がりの駐車場に止めた車に向かって歩んだ。そのまま私についてきた荒本さんは、駐車場でひたすら謝っていた。
「今日はすまなかった。爺さん達は後で叱っておく」
私は首を振った。
「ダメですよ荒本さん。いくらあなたが荒本家の次男でも、年長者は敬わないと。お爺さま方は、寄付の口数が少ないとおっしゃってたわ」
「あんなの何もわかってない! 無視しろ」
荒本さんが私の代わりに怒ってくれている……悪い気持ちはせず、正直な気持ちを告げた。
「私……ミツハ不動産より大きなブースを出したかったんです」
「ははは、そうか、悪くないぞ。なら、ミツハのブースを半分、大学に譲る」
「いいのですか?」
「他の出展者を削るわけにいかねえ」
「よかった。私、広報課長さんに啖呵を切ったんで、ミツハの副支店長にそう言ってもらえると助かります」
過去はどうであれ、私はミツハの副支店長に感謝した。
「何年もお前の笑った顔、見てなかったな」
ずっとこの男が憎かった。それは変わらない。ただ、祭りの運営については信頼できる気がしてきた。
そして先ほどの会合で聞いた父の評判を確かめたくなった。
「……父は、宇関のために働いていました」
荒本さんは長い沈黙の上、口を開いた。
「親父さんは、いい人だった。賃料を負けてやったのは、疋田のばあさんだけじゃない。テナントの奴ら、ちょっと泣きつけば安くしてくれるって、知っていた。俺はミツハにいたが、親父さんを手伝ってたから、事情は大体知っている」
それは父に、領民に慈悲を施す領主の末裔としての誇りがあったからに違いない。
「荒本さんはいい人だった父を、そんなに許せなかったのですか」
「経営者としては最悪だった。採算取れない賃料じゃいずれ破綻する。戦争前なら素芦の威光で銀行は金を貸しただろうが、今はそんな時代じゃない」
「あなたがミツハに社員を引き抜いたから、素芦は倒産したんです! あなたが私を裏切ったからなのよ! なぜ、私たちをずっと恨むの!」
これまで私は、チクチク慇懃無礼に接したり厭味を繰り返してきたが、この男に声を荒げたことは、あまりない。
荒本さんは腕くみをしたまま動かない。
「七年前は可哀相だったから何も言わなかった。が、いい加減にしてくれ」
「いい加減にしてほしいのは私です! 叔母さんの塾を潰して、私を無職にして父と同じように死んでほしかったのでしょ!?」
私は自分の青いコンパクトカーに向かって走った。
「那津美! お前は本当のことを知るべきだ!」
その言葉に、私は思わず足を止める。
「今度、ミツハの事務所で教えてやる!」
私は車を発進させた。そして自宅ではなく、ミツハ不動産の事務所に向かった。
かつて、休みのたびに出入りしていたビル。どの社員さんも私に優しくしてくれた。お茶くみにコピー、ホッチキス止めにフロアの掃除などを手伝うと、褒められた。
最上階の社長室にお茶を運ぶと、父がニコニコ笑って迎えてくれた。
ビルの窓は、まだポツポツと明かりがついている。夜遅くまで働いているのは数人というとこか。正面玄関は固く閉ざされている。
所在なくウロウロしていると、見慣れぬ中型のワゴン車が入ってきた。そこから現れたのは荒本丞司だった。
かつて彼の車に何度も乗った。その時は派手なオープンカーだった。この車はファミリー向けだ。彼が何を言おうが、彼には妻と子どもがいるのだ。
「よお、じいさんたちを適当に巻いてきたぜ」
「まさか、私がいると思ったのですか?」
「いや。会合の後も、事務所によるからな」
途端、気恥ずかしくなり、私は帰ろうと背を向ける。が、荒本に手を取られた。
「何です?」
「本当のこと、知りたいんだろ?」
彼は、ビルの裏手に回り、従業員用出入り口のセキュリティシステムにカードをかざした。
そうだ。もう私はこのビルに勝手に入ることはできないのだ。
前と同じように副支店長室に通された。最上階には誰もいない。
「そこに座れ」
柔らかい大きなソファに私は腰を所在なくおろす。と、盆にお茶を二客入れた荒本が戻ってきた。
精悍な大男に似合わない動作が何かおかしく、私は吹き出してしまう。
「変か? 俺だって、お茶ぐらい客にいれる」
「お兄ちゃんにお茶を入れてもらうなんて、初めてだもの」
「お兄ちゃんか、その方がずっとましだな」
しまった! 私は七年前の彼の裏切りから、ずっと「荒本さん」と意識して呼んでいた。
「……すみません。奥様のいる方になれなれしかったですね」
「いったろ。あいつとは結婚したわけじゃない。さて、本当のことだな」
彼は自分の机から鍵を取り出し、キャビネットを開けた。その奥に古びた金庫が見える。
その金庫に見覚えがあった。
この会社の金庫ではない。素芦の屋敷の金庫だ。
「荒本さん、やはり、あなたは素芦の財産を盗んだのね!」
彼は、別のキャビネットから取り出した古い鍵を金庫に差し込んだ。
中には、帯だたしいほどの通帳に書類が積み重なっている。
「こんなところに通帳があったのね! 許せない!」
「ああ、お前に今全部返すとも、そしてよく見ろ」
彼は金庫の中身を乱雑に、どさっと応接用テーブルにぶちまけた。
「何するの! いくら素芦に恨みがあるからって、ひどいじゃない!」
「いいから一つでも見るんだ。お前ももうすぐ三十歳だ。そろそろわかるだろ」
私は食い入るように、通帳を開く。許せない。こんなところに素芦の財産を盗み隠し破産に追い込み父を死なせたなんて!
「わからなかったら、教えてやる」
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