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#4. プラハでの新しい生活

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『ここは好きに使っていいから。自分の家みたいにくつろいでね!』

『ありがとう、カタリーナ!』


日本から飛行機に乗り、ロンドンで乗り換えて、ようやくここプラハに辿り着いた。

長時間フライトに疲れ果てながらプラハの空港に着くと、カタリーナが車で迎えに来てくれていた。

私たちは久しぶりの再会に喜び、ハグをする。

そのあと車に乗り込み、カタリーナの住む家にやってきて、ちょうど今は家の中を案内してもらっていたところだった。



カタリーナが住む家は、プラハの中心地からほど近い広めのアパートだ。

親が所有する物件らしく、カタリーナは自由に使っているらしい。

カナダに留学中もなんとなく感じてはいたが、カタリーナは結構お嬢様のようだ。

私はアパート内にあるゲストルームで一時的に居候させてもらうことになった。

ゲストルームは充分な広さで、トイレやバスルームも併設されているプライベート空間だ。

リビングとキッチンはカタリーナと共同で使うことになるらしい。


『私、日中は仕事でいないし、本当に気兼ねなくね!まぁ私と環菜は前にも一緒に住んでたし分かってるだろうけど』

そう、私とカタリーナはカナダに留学中もシェアハウスで一緒に暮らしていたことがあった。

懐かしい記憶が蘇ってきて、思わず笑顔が溢れる。

茶目っ気たっぷりに話すカタリーナは、きっと私を励ましてくれているのだろう。


『環菜も知ってると思うけど、チェコの公用語はチェコ語なの。だけど、英語も通じるところが多いから、英語が話せる環菜ならそんなに困らないと思うわ。でも何かあったら私に言ってね!』

『分かった、ありがとう!』

『さっそくだけど、ちょっと家の周りを案内しようか?それとも時差ボケもあるだろうし、ゆっくりする?』

『せっかくだから家の周りだけ教えてもらってから、部屋で休ませてもらおうかな』

『オッケー!じゃあ行くわよ!』

私たちは財布や携帯など最低限の荷物だけを持って外へ繰り出す。

3月下旬のプラハはまだまだ冷え込みが激しく、私は顔を隠すようにコートのフードを被った。

プラハの街並みは、本当に絵本に入り込んだかのように可愛い。

日本で写真を見ているだけの時からそう思っていたが、その場に立つとまるで自分がキャラクターとしておとぎの国に迷い込んだような気分になる。

どこもかしこも絵になり、フォトジェニックな景観だった。


カタリーナは、生活に必要になるだろうことを次々と案内しながら教えてくれる。

近くのスーパーやおすすめのカフェの場所、地下鉄やトラム(路面電車)の乗り方と最寄駅、通貨の種類などだ。

案内してもらいながら周囲を見渡し、私はあることに気づく。

『‥‥日本人を全然見かけないね』

『そうね、カナダに比べると少ないわよ。観光シーズンにはたまに見かけるけど。まぁそれももしかしたら中国人か韓国人かも。私、正確に見分けつかないし』

ヨーロッパの人を見て、私たちがどこの国の人か見分けがつかないように、ヨーロッパの人から見るとアジア人はみんな一緒に見えるらしい。

私は日本人とそれ以外のアジア人の見分けはだいたいつくが、プラハで見かけるのは韓国人が多いような気がした。

(良かった。日本人が少ないのはすごく助かるな。私のことを知ってる人がいない場所なんだ‥‥!)

これまで人目を気にしてコソコソしていた私だが、心に開放感が訪れる。

こんなに人がいても誰も私を知らないなんて、世界はなんて広いんだろう。

日本とは全く違う街並みを見ると、日本という狭い世界で生きていたことを実感する。

私は被っていたコートのフードをそっと脱ぎ、外の空気を肌で感じてみた。

ひんやりとした空気が心地いい。

(誰も私を知らないこの地で、またやり直したい。自分を見つめ直して、私らしく生きたい‥‥!)

異国の地の美しい景色と信頼のおける長年の友人の存在が、私の視界を広げ、傷ついた心を癒やしてくれるようだった。


『ふふっ。環菜がリラックスしてくれてるみたいで良かったわ。なんだか環菜らしい顔つきに戻ってきたみたい』

『うん、こっちに来たらって誘ってくれてありがとう!なんだか目の前の霧が晴れたような気がする。カタリーナが言ってたように、逃げることは負けじゃないんだね』

『私、環菜のその笑顔がとっても好きだわ。あなたは昔も今も魅力的よ』

カタリーナの言葉は本心で言ってくれているということが伝わる。

私には敵しかいない、悪意しか向けられないと思い込んでいたあの時期の私が、救われるようだった。

『そうだ、実はね環菜に紹介したい人がいるの。えっと、私の彼なんだけど。明日夜一緒に食事しない?』

『えっ!カタリーナに彼氏がいるの!?初耳だよ。会わせてもらえるなんて嬉しいな』

ちょっと照れながら話すカタリーナが絶妙に可愛い。

恋する女の子はこんな感じで頬を染めて恥ずかしそうに話すのかぁと私は演技の参考にまじまじと観察してしまった。

もう演技する機会なんてないのに、いつもの習慣だった。


『どんな人なの?』

『大人の落ち着いた人なの。仕事も頑張っててすっごく尊敬もしてて』

『そうなんだ。明日会えるのが楽しみ』

私たちはカタリーナの彼について話に花を咲かせながら、そのあとも家の近くを散策する。

寒さで体の芯が冷えてきた頃、家に引き返し、私はそのまま早めに就寝することにした。

時差ボケでなんなく身体がだるくなってきたのだった。


ベッドの中に潜り込み、目を閉じる。

瞼の裏に浮かぶのはさきほど見たあの美しいプラハの景色だ。

今の私は、罵詈雑言が並ぶ人々の言葉を思い出すことはなく、そのまま静かに眠りにつくことができたのだった。



翌日、日中は一人で市街地をのんびり街歩きしてみた。

目に入ったカフェに足を踏み入れてみる。

小腹がすいてコーヒーと一緒にクロワッサンも注文したのだが、これが最高に美味しかった。

サクサクっとした口当たりに、バターの芳醇な香り、表現しがたい絶妙な甘みもあって、今まで食べたクロワッサンで一番と言っても過言ではない。

すっかり魅力されて気分良くカフェタイムを楽しんでいると、背後から肩を軽く叩かれて、ビクッとする。

振り返ると、おそらくチェコ人だと思われる若い男性が、なにやら一生懸命にチェコ語で私に話しかけていた。

「I’m so sorry I can’t speak Czech. (すみませんが、チェコ語話せないんです)」

私は英語で返答するも、彼は英語が分からないようでひたすらチェコ語で興奮したように話している。

そして突然私の手を両手で包むように握ってきて、驚きで身がすくんでしまった。

困り果てていると、店内にいた背の高いアジア人の男性がスッとこちらに近寄ってきて、流暢なチェコ語で彼に話しかける。

「Nemyslím si, že mluví česky. Co když přestaneme mluvit?」

私に話しかけていた男性は、その言葉に振り向くとアジア人の男性と話し始める。

私は訳がわからずにただじっとしていた。

「Ale je to velmi typ ženy. Nemůžu se vzdát.」

「Bez ohledu na to, jak moc vypadáte jako typ, nevadí, když neumíte komunikovat.」

「máš pravdu」

何かに納得したのか、チェコ人の男性は私の手から手を離すと、そのままお店を出て行った。

呆気に取られていると、アジア人の男性が私に視線を移す。

「Are you okay? ‥‥もしかして日本人の方ですか?」

最初は英語で話しかけられたのだが、その人は途中で日本語になった。

訛りのない綺麗な日本語だから、彼も日本人なのだろう。

日本人なら私を知っているかもしれないと思うと、みるみるうちに顔が青ざめていく。

顔を隠すように少し俯いた。

「‥‥あ、はい。大丈夫です。助けていただきありがとうございました」

「顔が青ざめてますね。怖い思いをされたんでしょう。あの人、ただあなたを口説いてただけなんですけどね」

「‥‥え?」

私が顔面蒼白なのを見てさっきの出来事を怖がっていると思ったらしい。

彼は何を彼と話したのかを説明してくれる。

それによると、私がタイプだから口説きたかったらしいのだが、いくらタイプでも言葉が通じないなら意味ないでしょと彼が正論で追い払ったそうだ。

「そうですか。ありがとうございました」

私はお礼を述べながら、顔を少し上げて彼を見上げる。

改めてよく見ると、その人は驚くくらい整った容姿をしている男性だった。

芸能人だと言われても違和感がない。

「お一人でご旅行ですか?」

彼は人当たりの良いニコニコとした笑顔を浮かべて私に尋ねてきた。

目が三日月のように優しく細められていて、口角がキュッと上がった理想的な笑顔の形だ。

そこに甘さも宿り、まるで親切で優しい王子様のような雰囲気の人だ。

「えぇ、まぁ、はい」

あまり話してボロを出したくない私は質問に曖昧に返事をする。

今のところ彼は全く私が女優の神奈月亜希だとは気づいていないようだ。

「日本人の女性は狙われやすいですし、あなたみたいな方は余計にだと思うんで気をつけてくださいね。あと、スリも日本より多いですし警戒してお過ごしください」

その口ぶりは現地に住んでいる人のものだった。

やっぱりプラハにも日本人はいるのだなと感じる。

現地在住の日本人なら私を知らない可能性も高いけど、あまり長く話していて、ふと思い出したりされると困ると思った私は、この場を早く去りたい気持ちに駆られた。

「ご親切に本当にありがとうございました。では私はこれで失礼します」

そう言って立ち上がると、飲み終わったコーヒーのマグカップとクロワッサン用のお皿をトレイに乗せて返却する。

そのまま彼を振り返ることなく足早にその場をあとにした。


その日の夜は、カタリーナとカタリーナの彼であるアンドレイとの食事会だった。

今日はカタリーナが家庭料理を振る舞いたいと意気込み、家のリビングでカタリーナのお手製料理に舌鼓を打っている。

『環菜はカタリーナから聞いていたとおり、とってもチャーミングで可愛い女性だね!』

アンドレイは外国人男性らしいリップサービスで私を褒めてくれる。

彼は私とカタリーナより10歳年上の大人の男性で、包容力を感じるおおらかな雰囲気のある人だった。

『2人の出会いはどこだったの?』

『チャリティーイベントで出会ったんだ。彼女は参加者で、僕はイベントを視察しててね』

カタリーナは、高級ホテルでマネージャーとして活躍しているのだが、休日には恵まれない子供を支援するようなチャリティー活動にも精を出しているそうだ。

『視察って?』

『アンドレイはね、プラハの若手議員なの!お父様も議員なのよ』

カタリーナによると彼は2世議員のようだった。

勝手な偏見ながら、議員なのに偉ぶった態度は全然なく、人の話に耳を傾ける姿勢がある。

きっと優秀な議員なのだろうと思った。

『カタリーナから環菜は仕事を辞めてプラハに来たって聞いたけど、前はどんな仕事をしてたの?』

そう、アンドレイから聞かれてギクリと身体が強張る。

『えっと、色々だけど、お芝居を少しかじったりしてたかなぁ』

私は嘘はつかないものの、曖昧に少しぼかして答えた。

職業を言っていないだけで事実だ。

『へぇそうなんだ。そうだ、実は環菜にお願いがあるんだった!』

突然何かを思い出したようにアンドレイが話を変え、私は少しホッとする。

アンドレイはカタリーナを見て頷き合うと、改めて私に視線を移す。

『実は今度、在チェコ日本大使館で桜を楽しむレセプションパーティーがあって招待されててね。パートナー同伴でなんだけど、あいにくその日はカタリーナが都合がつかないんだ。それで、ぜひ環菜に一緒に行ってもらえないかと思って。どうかな?』

『えっ!私が??』

『環菜なら日本語も英語も話せるし、カタリーナの友人だから僕も安心だし。日本のことで分からないことがあったら、ぜひ僕をフォローしてほしいな』

戸惑っていると、カタリーナも口を開く。

『お願い!環菜!アンドレイを助けてあげてくれない?』

お世話になっているカタリーナからのお願いならぜひ力になりたい。

ただ、場所が日本大使館ということは、きっと日本人も多くいるに違いない。

もし私のことを知ってる人がいたら‥‥と怖くなる気持ちもあった。

(でも、この地でやり直そうって決めたじゃない。それに今日会った現地在住の日本人も私のこと知らない感じだったし大丈夫かもしれない。何よりカタリーナの頼みなんだもの!)

苦渋の決断だったが、私は決意を滲ませながら、アンドレイに了承の返事を返した。
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