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15. 初めてのお茶会
「あれ? 兄上、せっかく今日は王宮での仕事が休みなのに、家でも仕事してるの?」
ある日の昼下がり。
ルイズが兄の執務室前を通りかかると、ちょうど使用人が出入りするタイミングだったため、扉の隙間から机に向かうアイゼルの姿が目に入った。
てっきり妻と出掛けるか、私室でのんびりでもしているだろうと思っていたルイズは、なんとはなしに執務室にお邪魔し、朗らかに兄に話し掛けた。
「……ああ、ここ最近王都で違法薬物がひそかに蔓延しつつある疑いがあるんだが、その報告書に目を通してる」
「うわぁ、厄介そうな問題だね」
「意識障害を起こした中毒者が貴族男性ばかりという点も輪をかけて厄介だ。家の品位を落としたくない周囲の者が事実を隠蔽しようとするからな。情報が入手しにくい」
書類から目を離したアイゼルは深刻そうな声で国が直面している問題について語る。
国家の安全のため早期解決を模索し、休みの日にまで報告書を読み返していたのだろう。
さすが兄上だとルイズは尊敬の念を抱く。
だが、改めてアイゼルの顔に視線を向けた時、ルイズは気がついてしまった。
……え? なんかめちゃくちゃ不機嫌そうなんだけど。
端正なアイゼルの顔には、明らかに苛立ちが滲んでいた。
その苛立ちは、どうも今語っていた国家の問題に向けられたものではなさそうだ。
「……な、なんか機嫌悪そうだけど、どうかしたの? 行き場のないイライラを執務にぶつけてるように見えるんだけど……?」
わざわざ首を突っ込まなければいいのに、人の良いルイズはつい気になって口を挟んでしまった。
口数が多くはない寡黙な兄に自ら話し掛けるのがある種の癖になっている。
「……しょうがないだろ。執務しかすることがないんだから」
「え? でもリースベットは? 休みの日なんだから、イライラしながら仕事するより、愛しの妻と過ごせばいいんじゃないの?」
そうルイズが何気なく問いかけた途端、アイゼルの表情がピシリと固まった。
眉根を寄せ、苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
……あれ、なんか僕の発言まずかった? もしやリースベットと喧嘩したとか!?
先日胸に秘めた兄の煩悩を聞かされ続けたルイズは少々意外な気持ちで、アイゼルに視線を向けた。
アイゼルはふぅと一息吐くと、ポツリとつぶやく。
「……リースベットは母上と茶会に行っている」
「あ、なんだ。お茶会かぁ。そういえば今度の王宮舞踏会に向けてリースベットは母上に色々指導してもらってるんだっけ? お茶会もその一環ってことだよね。頑張ってるじゃない」
やはり喧嘩ではなかったようだ。
でもそれならば、なぜ兄はこうもご機嫌斜めなのだろうか。
ルイズは内心で疑問符を浮かべる。
すると、アイゼルはまたしても以前のようにルイズを前にして胸の内を吐露し始めた。
「母上がリースベットの指導を始めてもうすぐ一ヶ月半だ。二人の関係が良好なのは喜ばしいが………少々良好すぎると思わないか?」
「ん?」
「初めて義娘ができたと母上はリースベットにべったりだし、リースベットも幼少期に実母を亡くしたせいかそんな母上を心底慕っているようだ」
「僕は微笑ましいと思うけど……?」
「だが、この一ヶ月半、リースベットは母上の指導を優先してばかりだ。俺のことは目に入らないらしい。母上も母上だ。俺たちが新婚だということを忘れてるんじゃないか?」
アイゼルは実に憮然たる面持ちである。
一方、不満気に語られるその言葉を聞いてルイズは呆れが止まらない。
……それってつまり、リースベットが構ってくれなくて面白くないって言いたいんだよね?
まさに典型的な嫉妬である。
リースベットが自分以外の人に意識を向けていることが我慢ならないのだろう。
……まあ、兄上は自覚してなさそうだけど。ていうかリースベットが絡む時だけ本当に兄上は残念な感じになるなぁ。
ルイズの唇からは、はははとつい乾いた笑いが零れ落ちた。
「まあまあ、兄上。リースベットはきっと王宮舞踏会で兄上に恥をかかせたくないって思って努力してるんだよ。すべては兄上のためだって!」
空気の読めるできた弟は、すかさず宥めるような言葉を掛ける。
リースベットから直接聞いたわけではないが、彼女の性格を考えればそうとしか思えない。
「……それは俺も理解している。だからこそエルマに言われて我慢もしてるしな」
「ん? エルマに何か言われたの?」
「ああ。もしリースベットが懐妊してしまったら、ドレスを綺麗に着れなくなるから王宮舞踏会が終わるまでは絶対孕ませるな、と厳重注意を受けた」
「エルマ……。正論だけど、相変わらずアイツは明け透けすぎるね……」
また違った種類の乾いた笑みがルイズの口から漏れる。
まったくあの侍女は昔から破天荒で、言動が予想外すぎるのだ。
「……王宮舞踏会まで後一ヶ月半。まだ半分が過ぎたばかりだ。実に長すぎる……」
「え? もしかして三ヶ月の間、リースベットとまったく寝所を共にしないつもり!?」
「当たり前だろ。目の前にリースベットがいれば抱かずにはいられないし、孕ませないよう理性が保てる自信がない。それに母上の指導や舞踏会の準備でリースベットもいつも以上に疲れているだろうから負担をかけたくないしな」
「そ、そうなんだ……」
リースベットへの愛と思いやりに溢れているのは伝わってきたが、なんというか兄は非常に極端だ、とその話を聞いてルイズは思った。
そして同時に一抹の不安がよぎる。
……新婚早々に三ヶ月も夫と閨がないって、リースベットが気に病んだりしないかな……?
とはいえ、そんな繊細な夫婦の問題にルイズがとやかく意見するのは憚られた。
しかしながら、これだけは確認しておかねばならない。
「ねぇ、兄上。この前はリースベットが可愛すぎて目も合わせられないって言ってたけど……さすがにそれはもう大丈夫だよね? あと、想いを言葉にして伝えてるよね?」
「……………」
「え、もしかして全く……?」
「……以前よりは顔を直視できるようにはなった、とは思う」
「思う!? そこは自信を持って言い切って欲しかったよ……!」
「真摯に努力するリースベットはさらに輝きを増していて、これまで以上に可愛すぎるからな」
「とはいえ、もう結婚して二ヶ月半くらい経つよね! 僕思うんだけど、とりあえず兄上も王宮舞踏会までにリースベットと目を合わせられるようになった方がいいと思うよ。言葉で愛を伝える努力もね!」
その時、トントンと扉のノック音が響いた。
少し休憩しませんか、と家令が紅茶を持って来たところだった。
そこで会話を終わらせたアイゼルとルイズはしばしの間、二人で味わい深い紅茶と菓子に舌鼓を打ったのだった。
一方その頃。
リースベットもまた風味豊かな紅茶と、様々な種類のお菓子を味わっていた。
ただし、そこに和やかな雰囲気はなく、キリキリと胃が痛むような緊張感が密やかに漂っていた。
今日リースベットが出席しているのは、ローザリアの友人である某公爵夫人が主催するお茶会である。
出席資格は侯爵家以上、つまり高位貴族のみが集う場だった。
「貴女があのアイゼル様の妻ですって……?」
「しかも伯爵家出身だなんて」
「失礼ながらリースベットなんて名前、夜会やお茶会で聞いたことがないわ」
先程リースベットはローザリアから「我が家の嫁で、アイゼルの妻」として紹介されたのだが、それを聞いた出席者は揃って驚愕していた。
二人が結婚して約二ヶ月半が経つが、結婚式を挙げていないこともあり、社交界ではまだほぼ知られていなかったからだ。
憧れの的であるあのアイゼルが結婚したとなれば、皆内心穏やかではない。
特に妻の座を狙っていた妙齢の令嬢は、忸怩たる思いだった。
しかもアイゼルの相手が自分より家格が下の伯爵家の令嬢とあらば、非常に面白くない。
ローザリアがリースベットの隣にいる間は、前公爵夫人の手前、表立ってこのやり切れない気持ちをぶつけることはできないが、リースベット一人なら話は別だ。
ローザリアが席を立った瞬間、待ってましたとばかりに同じテーブルを囲む若い令嬢たちはリースベットへ辛辣な言葉を浴びせ始めた。
既婚者のご夫人たちもリースベットを観察するようにその様子を黙って見守っていた。
「はい。おっしゃる通り、夜会にはそれほど出席しておりませんでした。またお茶会は本日が初めてです。私をご存じないのもごもっともかと思います」
「まあ! お茶会は初めてですって? 社交に不慣れでいらっしゃるのね。それでアイゼル様の妻が務めるのかしら」
「私に不足が多いのは事実です。若輩者ゆえ経験や知識が浅く、未熟なところも多々あると思います。ですので、前公爵夫人であるお義母様に教えを請い、至らぬところを補うよう日々精進したいと思っています」
刺すような視線に晒され、緊張しつつも、リースベットは必要以上に怯えることなく落ち着いた態度で受け答えをしていた。
良くも悪くも、こういった悪意に満ちた視線と言葉には慣れている。
幼少期からずっと当たり前に浴びせられていたものだ。
以前のリースベットであれば、慣れているとはいえ、きっと萎縮してしまっていただろう。
だが、今のリースベットは違う。
……淑女中の淑女であるお義母様のように、優雅に、穏やかに、余裕のある振る舞いを心がけるのよ。大丈夫、この一ヶ月半しっかり学んだのだから。
脳裏に思い描くのは義母・ローザリアの姿だ。
こんなふうになりたいと思う目標の女性像があるリースベットは、その姿を指針として、ローザリアならどう対応するかを想像して忠実に実行していた。
そんなリースベットの落ち着いた応対にご夫人たちが感心する一方、令嬢たちはますます苛立ちを募らせる。
それに比例して口撃も鋭さを増した。
「そういえば、生家はエイムズ伯爵家だとおっしゃったわよね? エイムズ伯爵家といえば最近ご結婚されたアメリア様のご実家よね?」
「もしかしてアイゼル様は貴女とアメリア様をお間違えになったのではなくって?」
「エイムズ伯爵家の令嬢違いということなら腑に落ちますわ。社交界の華と謳われる美しく聡明なアメリア様であれば、アイゼル様が心を奪われるのも納得ですもの」
ここまでの嫌味は受け流せていたリースベットも、さすがにこれにはグサッときた。
……事実だからこそ胸に突き刺さるわ。
表情には出さないよう努めながらも、胸が張り裂けるような痛みが身体を駆け抜ける。
微笑みを絶やさずに維持することで精一杯。
リースベットは的確な返しが口から出てこなかった。
「あら? 貴女方はシャロック公爵家の人間が間抜けにも令嬢を間違えたとおっしゃるの? まさか誇り高き公爵家と侯爵家のご令嬢方が我が家を侮辱なさるなんて。きっと聞き間違いですわよね?」
するとそこへ気品溢れる凛とした声が割り入ってきた。
席を外していたローザリアが戻ってきて、軽やかにその場を支配する。
「ロ、ローザリア様……!」
実のところローザリアはこのやりとりを少し前から気づいており、しばらくは様子を見ていた。
自分が出て行ってリースベットを庇うことは容易だが、今後のことを見据えればそれは最善とは言えない。
練習という意味でも、リースベットには一人で対処してもらう必要があったのだ。
こっそり見守っていれば、リースベットは実に落ち着いて対応できており、十分に合格を出せる振る舞いだった。
自分に教えを請うて成長したいという母心をくすぐる台詞まで飛び出し、ローザリアの機嫌は急上昇していたくらいだ。
……でもあの嫌味はいただけないわね。我が家への侮辱行為だわ。
令嬢たちも熱くなりすぎて、この場にそぐわない過度な悪口になっていることに気がついていないのだろう。
さすがに見過ごせなくなり、意気揚々と姿を現した次第だった。
「ご、誤解なのです! シャロック公爵家を侮辱するつもりなど一ミリもございませんわ……!」
「そう? ならば、きっとわたくしの聞き間違いなのでしょうね」
「は、はい。おそらくそうかと…」
「ごめんなさいね? わたくしはそそっかしくて、今のように聞き間違いをしてしまうこともあるのよ。……でもね、わたくしの息子は間違えることなんてなくってよ? ましてや令嬢を間違うなんてありえないわ。ぜひ覚えておいてちょうだいね?」
ふふふと優雅に微笑みながら、美しい声で歌うように紡がれた言葉に、令嬢たちは顔面蒼白になった。
ここ二年ほど社交界から遠ざかっていたローザリアだが、その影響力の大きさはいまだ健在だ。
前シャロック公爵夫人であるとともに、現王妃の妹でもあり、王家との繋がりも強い。
敵に回したくない人物の一人と言える女性である。
そんなローザリアの心象を悪くしたとあっては、家にどんな影響が降りかかるか分かったものではない。
このお茶会での一幕が自分の父の耳に入れば、叱責では済まないだろうと、令嬢たちはわなわなと恐怖に震えた。
すっかり大人しくなってしまった令嬢たちを見て、リースベットはというと、ローザリアの鮮やかな対処に感心しきりだった。
……お義母様、さすがだわ。
相手を否定せずに、それでいて返り討ちにする手際は見事の一言だ。
改めてローザリアのような強く、美しく、余裕のある女性になりたいと強く思う。
……私もお義母様のようにもっと強くなりたいわ。たとえアイゼル様がお姉様の代わりに私と結婚したことや、私では満足させられないことに触れられても、揺らがない心を育まなければね。
こうして初めてのお茶会は、義母であるローザリアへの尊敬が深まるとともに、リースベットに貴重な学びをもたらし、幕を閉じたのだった。
ある日の昼下がり。
ルイズが兄の執務室前を通りかかると、ちょうど使用人が出入りするタイミングだったため、扉の隙間から机に向かうアイゼルの姿が目に入った。
てっきり妻と出掛けるか、私室でのんびりでもしているだろうと思っていたルイズは、なんとはなしに執務室にお邪魔し、朗らかに兄に話し掛けた。
「……ああ、ここ最近王都で違法薬物がひそかに蔓延しつつある疑いがあるんだが、その報告書に目を通してる」
「うわぁ、厄介そうな問題だね」
「意識障害を起こした中毒者が貴族男性ばかりという点も輪をかけて厄介だ。家の品位を落としたくない周囲の者が事実を隠蔽しようとするからな。情報が入手しにくい」
書類から目を離したアイゼルは深刻そうな声で国が直面している問題について語る。
国家の安全のため早期解決を模索し、休みの日にまで報告書を読み返していたのだろう。
さすが兄上だとルイズは尊敬の念を抱く。
だが、改めてアイゼルの顔に視線を向けた時、ルイズは気がついてしまった。
……え? なんかめちゃくちゃ不機嫌そうなんだけど。
端正なアイゼルの顔には、明らかに苛立ちが滲んでいた。
その苛立ちは、どうも今語っていた国家の問題に向けられたものではなさそうだ。
「……な、なんか機嫌悪そうだけど、どうかしたの? 行き場のないイライラを執務にぶつけてるように見えるんだけど……?」
わざわざ首を突っ込まなければいいのに、人の良いルイズはつい気になって口を挟んでしまった。
口数が多くはない寡黙な兄に自ら話し掛けるのがある種の癖になっている。
「……しょうがないだろ。執務しかすることがないんだから」
「え? でもリースベットは? 休みの日なんだから、イライラしながら仕事するより、愛しの妻と過ごせばいいんじゃないの?」
そうルイズが何気なく問いかけた途端、アイゼルの表情がピシリと固まった。
眉根を寄せ、苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
……あれ、なんか僕の発言まずかった? もしやリースベットと喧嘩したとか!?
先日胸に秘めた兄の煩悩を聞かされ続けたルイズは少々意外な気持ちで、アイゼルに視線を向けた。
アイゼルはふぅと一息吐くと、ポツリとつぶやく。
「……リースベットは母上と茶会に行っている」
「あ、なんだ。お茶会かぁ。そういえば今度の王宮舞踏会に向けてリースベットは母上に色々指導してもらってるんだっけ? お茶会もその一環ってことだよね。頑張ってるじゃない」
やはり喧嘩ではなかったようだ。
でもそれならば、なぜ兄はこうもご機嫌斜めなのだろうか。
ルイズは内心で疑問符を浮かべる。
すると、アイゼルはまたしても以前のようにルイズを前にして胸の内を吐露し始めた。
「母上がリースベットの指導を始めてもうすぐ一ヶ月半だ。二人の関係が良好なのは喜ばしいが………少々良好すぎると思わないか?」
「ん?」
「初めて義娘ができたと母上はリースベットにべったりだし、リースベットも幼少期に実母を亡くしたせいかそんな母上を心底慕っているようだ」
「僕は微笑ましいと思うけど……?」
「だが、この一ヶ月半、リースベットは母上の指導を優先してばかりだ。俺のことは目に入らないらしい。母上も母上だ。俺たちが新婚だということを忘れてるんじゃないか?」
アイゼルは実に憮然たる面持ちである。
一方、不満気に語られるその言葉を聞いてルイズは呆れが止まらない。
……それってつまり、リースベットが構ってくれなくて面白くないって言いたいんだよね?
まさに典型的な嫉妬である。
リースベットが自分以外の人に意識を向けていることが我慢ならないのだろう。
……まあ、兄上は自覚してなさそうだけど。ていうかリースベットが絡む時だけ本当に兄上は残念な感じになるなぁ。
ルイズの唇からは、はははとつい乾いた笑いが零れ落ちた。
「まあまあ、兄上。リースベットはきっと王宮舞踏会で兄上に恥をかかせたくないって思って努力してるんだよ。すべては兄上のためだって!」
空気の読めるできた弟は、すかさず宥めるような言葉を掛ける。
リースベットから直接聞いたわけではないが、彼女の性格を考えればそうとしか思えない。
「……それは俺も理解している。だからこそエルマに言われて我慢もしてるしな」
「ん? エルマに何か言われたの?」
「ああ。もしリースベットが懐妊してしまったら、ドレスを綺麗に着れなくなるから王宮舞踏会が終わるまでは絶対孕ませるな、と厳重注意を受けた」
「エルマ……。正論だけど、相変わらずアイツは明け透けすぎるね……」
また違った種類の乾いた笑みがルイズの口から漏れる。
まったくあの侍女は昔から破天荒で、言動が予想外すぎるのだ。
「……王宮舞踏会まで後一ヶ月半。まだ半分が過ぎたばかりだ。実に長すぎる……」
「え? もしかして三ヶ月の間、リースベットとまったく寝所を共にしないつもり!?」
「当たり前だろ。目の前にリースベットがいれば抱かずにはいられないし、孕ませないよう理性が保てる自信がない。それに母上の指導や舞踏会の準備でリースベットもいつも以上に疲れているだろうから負担をかけたくないしな」
「そ、そうなんだ……」
リースベットへの愛と思いやりに溢れているのは伝わってきたが、なんというか兄は非常に極端だ、とその話を聞いてルイズは思った。
そして同時に一抹の不安がよぎる。
……新婚早々に三ヶ月も夫と閨がないって、リースベットが気に病んだりしないかな……?
とはいえ、そんな繊細な夫婦の問題にルイズがとやかく意見するのは憚られた。
しかしながら、これだけは確認しておかねばならない。
「ねぇ、兄上。この前はリースベットが可愛すぎて目も合わせられないって言ってたけど……さすがにそれはもう大丈夫だよね? あと、想いを言葉にして伝えてるよね?」
「……………」
「え、もしかして全く……?」
「……以前よりは顔を直視できるようにはなった、とは思う」
「思う!? そこは自信を持って言い切って欲しかったよ……!」
「真摯に努力するリースベットはさらに輝きを増していて、これまで以上に可愛すぎるからな」
「とはいえ、もう結婚して二ヶ月半くらい経つよね! 僕思うんだけど、とりあえず兄上も王宮舞踏会までにリースベットと目を合わせられるようになった方がいいと思うよ。言葉で愛を伝える努力もね!」
その時、トントンと扉のノック音が響いた。
少し休憩しませんか、と家令が紅茶を持って来たところだった。
そこで会話を終わらせたアイゼルとルイズはしばしの間、二人で味わい深い紅茶と菓子に舌鼓を打ったのだった。
一方その頃。
リースベットもまた風味豊かな紅茶と、様々な種類のお菓子を味わっていた。
ただし、そこに和やかな雰囲気はなく、キリキリと胃が痛むような緊張感が密やかに漂っていた。
今日リースベットが出席しているのは、ローザリアの友人である某公爵夫人が主催するお茶会である。
出席資格は侯爵家以上、つまり高位貴族のみが集う場だった。
「貴女があのアイゼル様の妻ですって……?」
「しかも伯爵家出身だなんて」
「失礼ながらリースベットなんて名前、夜会やお茶会で聞いたことがないわ」
先程リースベットはローザリアから「我が家の嫁で、アイゼルの妻」として紹介されたのだが、それを聞いた出席者は揃って驚愕していた。
二人が結婚して約二ヶ月半が経つが、結婚式を挙げていないこともあり、社交界ではまだほぼ知られていなかったからだ。
憧れの的であるあのアイゼルが結婚したとなれば、皆内心穏やかではない。
特に妻の座を狙っていた妙齢の令嬢は、忸怩たる思いだった。
しかもアイゼルの相手が自分より家格が下の伯爵家の令嬢とあらば、非常に面白くない。
ローザリアがリースベットの隣にいる間は、前公爵夫人の手前、表立ってこのやり切れない気持ちをぶつけることはできないが、リースベット一人なら話は別だ。
ローザリアが席を立った瞬間、待ってましたとばかりに同じテーブルを囲む若い令嬢たちはリースベットへ辛辣な言葉を浴びせ始めた。
既婚者のご夫人たちもリースベットを観察するようにその様子を黙って見守っていた。
「はい。おっしゃる通り、夜会にはそれほど出席しておりませんでした。またお茶会は本日が初めてです。私をご存じないのもごもっともかと思います」
「まあ! お茶会は初めてですって? 社交に不慣れでいらっしゃるのね。それでアイゼル様の妻が務めるのかしら」
「私に不足が多いのは事実です。若輩者ゆえ経験や知識が浅く、未熟なところも多々あると思います。ですので、前公爵夫人であるお義母様に教えを請い、至らぬところを補うよう日々精進したいと思っています」
刺すような視線に晒され、緊張しつつも、リースベットは必要以上に怯えることなく落ち着いた態度で受け答えをしていた。
良くも悪くも、こういった悪意に満ちた視線と言葉には慣れている。
幼少期からずっと当たり前に浴びせられていたものだ。
以前のリースベットであれば、慣れているとはいえ、きっと萎縮してしまっていただろう。
だが、今のリースベットは違う。
……淑女中の淑女であるお義母様のように、優雅に、穏やかに、余裕のある振る舞いを心がけるのよ。大丈夫、この一ヶ月半しっかり学んだのだから。
脳裏に思い描くのは義母・ローザリアの姿だ。
こんなふうになりたいと思う目標の女性像があるリースベットは、その姿を指針として、ローザリアならどう対応するかを想像して忠実に実行していた。
そんなリースベットの落ち着いた応対にご夫人たちが感心する一方、令嬢たちはますます苛立ちを募らせる。
それに比例して口撃も鋭さを増した。
「そういえば、生家はエイムズ伯爵家だとおっしゃったわよね? エイムズ伯爵家といえば最近ご結婚されたアメリア様のご実家よね?」
「もしかしてアイゼル様は貴女とアメリア様をお間違えになったのではなくって?」
「エイムズ伯爵家の令嬢違いということなら腑に落ちますわ。社交界の華と謳われる美しく聡明なアメリア様であれば、アイゼル様が心を奪われるのも納得ですもの」
ここまでの嫌味は受け流せていたリースベットも、さすがにこれにはグサッときた。
……事実だからこそ胸に突き刺さるわ。
表情には出さないよう努めながらも、胸が張り裂けるような痛みが身体を駆け抜ける。
微笑みを絶やさずに維持することで精一杯。
リースベットは的確な返しが口から出てこなかった。
「あら? 貴女方はシャロック公爵家の人間が間抜けにも令嬢を間違えたとおっしゃるの? まさか誇り高き公爵家と侯爵家のご令嬢方が我が家を侮辱なさるなんて。きっと聞き間違いですわよね?」
するとそこへ気品溢れる凛とした声が割り入ってきた。
席を外していたローザリアが戻ってきて、軽やかにその場を支配する。
「ロ、ローザリア様……!」
実のところローザリアはこのやりとりを少し前から気づいており、しばらくは様子を見ていた。
自分が出て行ってリースベットを庇うことは容易だが、今後のことを見据えればそれは最善とは言えない。
練習という意味でも、リースベットには一人で対処してもらう必要があったのだ。
こっそり見守っていれば、リースベットは実に落ち着いて対応できており、十分に合格を出せる振る舞いだった。
自分に教えを請うて成長したいという母心をくすぐる台詞まで飛び出し、ローザリアの機嫌は急上昇していたくらいだ。
……でもあの嫌味はいただけないわね。我が家への侮辱行為だわ。
令嬢たちも熱くなりすぎて、この場にそぐわない過度な悪口になっていることに気がついていないのだろう。
さすがに見過ごせなくなり、意気揚々と姿を現した次第だった。
「ご、誤解なのです! シャロック公爵家を侮辱するつもりなど一ミリもございませんわ……!」
「そう? ならば、きっとわたくしの聞き間違いなのでしょうね」
「は、はい。おそらくそうかと…」
「ごめんなさいね? わたくしはそそっかしくて、今のように聞き間違いをしてしまうこともあるのよ。……でもね、わたくしの息子は間違えることなんてなくってよ? ましてや令嬢を間違うなんてありえないわ。ぜひ覚えておいてちょうだいね?」
ふふふと優雅に微笑みながら、美しい声で歌うように紡がれた言葉に、令嬢たちは顔面蒼白になった。
ここ二年ほど社交界から遠ざかっていたローザリアだが、その影響力の大きさはいまだ健在だ。
前シャロック公爵夫人であるとともに、現王妃の妹でもあり、王家との繋がりも強い。
敵に回したくない人物の一人と言える女性である。
そんなローザリアの心象を悪くしたとあっては、家にどんな影響が降りかかるか分かったものではない。
このお茶会での一幕が自分の父の耳に入れば、叱責では済まないだろうと、令嬢たちはわなわなと恐怖に震えた。
すっかり大人しくなってしまった令嬢たちを見て、リースベットはというと、ローザリアの鮮やかな対処に感心しきりだった。
……お義母様、さすがだわ。
相手を否定せずに、それでいて返り討ちにする手際は見事の一言だ。
改めてローザリアのような強く、美しく、余裕のある女性になりたいと強く思う。
……私もお義母様のようにもっと強くなりたいわ。たとえアイゼル様がお姉様の代わりに私と結婚したことや、私では満足させられないことに触れられても、揺らがない心を育まなければね。
こうして初めてのお茶会は、義母であるローザリアへの尊敬が深まるとともに、リースベットに貴重な学びをもたらし、幕を閉じたのだった。
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※「小説家になろう」にも投稿しています。
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