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34. エルマ兄の正体
リースベットが目覚めたのは、夕焼けが空を染める頃のことだった。
窓から差し込む夕日の光に瞼をピクリと動かし、ゆっくりと目を開ける。
室内の薄暗さから、明らかに朝や昼間ではないことを感じ取り、一体どれほど眠っていたのだろうかと驚いた。
ぐぅぅと小さく鳴ったお腹の音を聞いて、何食か食事を抜いてしまうほど寝ていたらしいと気づく。
隣を見れば、やはりと言うべきか、すでにアイゼルの姿はない。
おそらくリースベットと違って、きちんと起き、仕事に赴いたのだろう。
……こんな時間まで、私だけ眠っていたなんて。申し訳ないわ。
使用人扱いを受けて朝から晩まで忙しく働いていた経験を持つリースベットは、夕方まで惰眠を貪っていた自分が許せない。
アイゼルが働いているのならば尚更だ。
慌てて寝台から飛び出そうとして、自分が裸のままである事実に目を剥く。
素早くシーツを素肌に巻き付け、そして起き上がろと一歩を踏み出し……
足腰に力が入らず、その場にペタリと座り込んでしまった。
……えっ? うそ、立ち上がれない……!?
立とうとすると足がガクガクする。
ダルくて重い身体の状態は察していたが、まさか自力で立つことすら叶わないとは予想外だった。
どうしようとその場でオロオロしていると、トントンと寝室をノックする音が響いた。
続いて「奥様、お目覚めですか? 入っていいですか?」というエルマの声が聞こえてくる。
裸にシーツという格好は恥ずかしいが、エルマには湯浴みや着付けの時に散々裸体を今まで見られているため今更である。
それに誰かの手を借りなければここから動けそうにない。
「……エルマ、その、他に人はいない? エルマ一人なのだったら入ってくれて大丈夫よ」
リースベットは羞恥心を滲ませながら、藁にもすがる思いでエルマの助けを求めた。
エルマは一人だったらしく、すぐに寝室に駆け込んでくる。
そして寝台横の床でへたり込むリースベットの姿を見て、案の定だわ、とまず一言呟いた。
「あ~やっぱり足腰立たなくなっちゃったんですね。旦那様ったらどれほど奥様に無理させるんだか! 男の体力で付き合わされたら、たまったもんじゃないですよねぇ!?」
腰に手を当て、ぷりぷり怒った後、リースベットが立ち上がるのに手を貸してくれた。
「奥様、お腹も空いてると思いますけど、浴室の準備をしておきましたので、まずは湯浴みしちゃいましょう! 私も手伝いますから! ね?」
「手間かけてごめんなさいね……」
「いえいえ! 媚薬を盛られて大変だったことは聞いてます。おつらかったですよね。奥様は被害者なんですから、何も悪くないですよ! 媚薬なんて、ファンタジー世界だけで結構です、って感じですよね!?」
ファンタジー世界とはなんだろうとは思ったが、エルマが励ましてくれていることだけはしっかり伝わってくる。
自分のことのように怒ってくれるのもとても嬉しく、リースベッドは心が温かくなった。
「……ありがとう、エルマ。いつも味方でいてくれて心強いわ」
「御礼を言われることじゃないですよ! だって私は奥様の専属侍女ですからっ! ささっ、湯浴みで身体を癒しましょっ!」
リースベットが心からの感謝を伝えると、エルマは少し照れた様子を見せつつ、いつも通りの明るい調子で自信満々に胸を張った。
そんなエルマの手を借りて、なんとか震える身体に鞭を打ち、リースベットは湯浴みと身づくろいをする。
ドロドロに汗をかいたベタつく身体を清め、清潔な室内着に着替え終えた時、ようやく人心地がつきホッと安堵した。
「スッキリしたようですね! 良かったです! 旦那様にはやりすぎないよう、改めて注意しとかなきゃダメですねぇ!」
「あの、昨夜は媚薬のこともあったから……アイゼル様は悪くないから、ね?」
「そうですかぁ? 奥様がそう言うんならいいですけど。でも無理しすぎはダメですからね! まぁ閨自体は色んな美容効果もあるんで、どんどんやっちゃってください! あ、そういえば騎乗位は試しました!?」
「えっと、その……」
リースベットは口ごもりながら顔を赤くする。
この媚薬の厄介なところは、どんなに熱に狂わされていようが記憶がきっちり残っていることだ。
昨夜の自身の行いを思い出し、リースベットは恥ずかしさで気が狂いそうだった。
……じ、自分からあんなに大胆に。エルマはアイゼル様が無理やり何度も迫ったように思ってるみたいだけど、実際は私からも……。
こんなこと絶対に言えないし、知られたくないとリースベットは悶絶した。
こういう時、エルマに悟られないためには話を変えるに限る。
「ねぇ、エルマ……! アイゼル様は今どうされているの?」
「旦那様ですか? 昼頃起きて来られて、昼食を食べた後はルイズ様とお兄様と出掛けられましたよ?」
「お兄様?」
「あっ、リースベットはまだ会ったことないかもしれないですね。私、四つ上の兄がいるんですよ! 兄は公爵家お抱えの諜報員やってます! 名前はクリフです!」
サラリと告げられた驚きの話にリースベットは目を瞬いた。
いつだったか、リースベットはアイゼルなら独自に諜報員を配しているのかもしれないと思ったことがあった。
その予想が的中したわけである。
……クリフ? その名前なら聞き覚えがあるわ。
昨夜、夜会会場から馬車に乗り込む際、確かアイゼルは誰かに指示を出していたはずだ。
リースベットはマントに包まれて、視界を遮られていたが、その時に「クリフ」とアイゼルが相手を呼んでいたのをなんとなく覚えている。
きっとあの場になんらかの理由でエルマの兄がいたのだろう。
それにしてもエルマに兄がいたのも初耳だ。
シャロック公爵家に嫁いできて、かれこれ約五ヶ月経つが、まだまだ知らないことがたくさんあるのだなとリースベットは思った。
「さて、そろそろ夕食にしましょうか! お腹空いてますよね! あ、今日は食堂ではなく、この寝室にお食事をお持ちしますので、寝台の上で身体を休めながら召し上がってくださいね!」
「そんな配慮まで……本当にありがとう。正直、全然身体に力が入らなくて動くのもつらいから助かるわ」
再びエルマに寝台へと連れて行ってもらい、リースベットは背もたれに上半身を凭れさせて寝台の上に座った。
ちょうどそのタイミングで、トントンと扉をノックする音がした。
エルマが扉に確認に赴く。
そして戻ってくると、エルマの他に二人の人物が一緒に中へ入って来た。
一人は夫のアイゼル。
もう一人はリースベットが初めて会う男性だった。
「リースベット、体調は大丈夫か?」
アイゼルは寝台の真横に椅子を並べ、そこに座るとリースベットの手を握りしめ、顔を覗き込んだ。
今朝に続き、その蕩けるように甘い眼差しにリースベットの胸の鼓動が速くなる。
「あ、はい。大丈夫です。……ただ、ちょっと一人では立てない状態で、エルマに手を貸してもらってはいるのですが」
「そうか……俺のせいだな。ところで意識の混濁はないか? ぼんやりするとか、めまいがするとか、幻覚が見えるとか」
昨夜の記憶が飛んでいてくれた方が気が楽だったけど、とリースベットは媚薬に対して恨みがましい気持ちが少しだけ湧いた。
ただその場合、アイゼルが愛をささやきなかまらリースベットを求めてくれた幸せな記憶も失われてしまうと気づき、即座に考えを改める。
今でも夢ではないかと思う、あの幸福なひとときをなかったことにはしたくない。
「意識は問題ないです。はっきりしています。ご心配ありがとうございます」
「それなら良かった。あの媚薬は使い続けると意識障害を引き起こすが、一度だけなら大丈夫なはずだ。だからリースベットも心配しなくてもいい」
「はい。分かりました。……あの、ところで、そちらの方は……?」
リースベットの容態を自分の目で確認してホッと息を吐くアイゼルだったが、一方のリースベットは先程からアイゼルの背後に控えている男性が気になってしかたなかった。
極めて私的な空間である寝室に、変な人物をアイゼルが連れてくるわけがない。
となると、重要人物の一人なのだろうが、リースベットには見覚えがなかった。
それとも目立つ特徴のない男性のため、自分が覚えていないだけだろうか、とリースベットは首を傾げる。
リースベットが自分の背後に目を向けるのを見て、すっかり愛しの妻を見つめるのに夢中だったアイゼルもようやくクリフを紹介していなかった事実を思い出した。
「ああ、紹介がまだだったな。彼はクリフ。公爵家の使用人の一人だ」
「あっ! エルマのお兄様で、公爵家お抱えの諜報員の……!」
「……なんだ、エルマから聞いていたのか」
ついさっき話題にあがったばかりの人物の登場に、リースベットは思わず興奮気味に声を上擦らせた。
身近な存在であるエルマの兄なわけだし、リースベットが興味を持つのは分からなくもないが、自分以外の男を熱心に見つめるのがアイゼルには少々面白くない。
心が狭すぎるな、と自嘲めいた笑みが浮かぶ。
そんな主の珍しい姿に内心驚くクリフだったが、紹介を受けたので一歩前に進み出て、胸に手を当て、リースベットに向かって丁寧に頭を下げた。
「ただいまご紹介に預かりました、クリフと申します。奥様、以後お見知りおきください」
「初めまして、リースベットです。昨夜もきっと色々助けて頂いたんですよね。ありがとうございました」
アイゼルの指示のもと、見えないところで動いてくれていたのだろうと察し、寝台の上に座ったままリースベットはお辞儀をした。
だが、クリフはそんなリースベットの律儀な様子になぜか嬉しそうにクスクスと笑う。
「奥様は相変わらずでいらっしゃいますね。いつも控えめで、謙虚で、慎ましくて。公爵夫人になられたのにお変わりありませんね」
「えっ……?」
まるで以前から自分を知っているかのようなクリフの口ぶりに、リースベットは目を丸くした。
なぜ?と頭の中には疑問符が浮かぶ。
「驚かせて申し訳ありません。たぶんこれを見れば意味が分かりますよ。……ほら、いかがでしょう? リースベットお嬢様?」
クリフはそう言うと、どこかから取り出したカツラと眼鏡を装着して、リースベットを見つめた。
その姿を目にして、リースベットは榛色の瞳を大きく見開く。
「えっ! カミロ!?」
驚きからつい大きな声を出してその名を口にした。
そう、彼はリースベットもよく知る人物。
エイムズ伯爵家で父の補佐をしていた執事――リースベットにも親切にしてくれた使用人だった。
「ど、どうして……カミロがここに!? えっ、カミロ? クリフ?」
リースベットの頭の中が混乱する。
二人分の名前を口にするが、でも同じ人物ということで、それが意味することとは一体。
……どういうこと!?
「私はカミロとしてエイムズ伯爵家に潜入して任務をこなしていたのです。本名はクリフと言います」
「えーっ、お兄様、そんなことしてたの!? ていうか、カミロってお父様の名前じゃないっ!」
リースベットに続き、話を聞いていたエルマも驚いた声を上げた。
エルマも初耳だったらしい。
「でも、どうして伯爵家に潜入を……?」
「そのあたりは俺が説明する。リースベットには他にも色々話したいことがあるからな。悪いが食事はその後にしよう」
リースベットの問いかけを引き受けたのは、クリフではなくアイゼルだった。
アイゼルが軽く手を上げると、クリフとエルマが頷き、静かにその場を去っていく。
寝室にはリースベットとアイゼルの二人きりとなり、しばし静寂が訪れた。
そしてそこからアイゼルが語り出した話は、どれもこれもリースベットにとっては一つ残らず衝撃の内容だった――。
窓から差し込む夕日の光に瞼をピクリと動かし、ゆっくりと目を開ける。
室内の薄暗さから、明らかに朝や昼間ではないことを感じ取り、一体どれほど眠っていたのだろうかと驚いた。
ぐぅぅと小さく鳴ったお腹の音を聞いて、何食か食事を抜いてしまうほど寝ていたらしいと気づく。
隣を見れば、やはりと言うべきか、すでにアイゼルの姿はない。
おそらくリースベットと違って、きちんと起き、仕事に赴いたのだろう。
……こんな時間まで、私だけ眠っていたなんて。申し訳ないわ。
使用人扱いを受けて朝から晩まで忙しく働いていた経験を持つリースベットは、夕方まで惰眠を貪っていた自分が許せない。
アイゼルが働いているのならば尚更だ。
慌てて寝台から飛び出そうとして、自分が裸のままである事実に目を剥く。
素早くシーツを素肌に巻き付け、そして起き上がろと一歩を踏み出し……
足腰に力が入らず、その場にペタリと座り込んでしまった。
……えっ? うそ、立ち上がれない……!?
立とうとすると足がガクガクする。
ダルくて重い身体の状態は察していたが、まさか自力で立つことすら叶わないとは予想外だった。
どうしようとその場でオロオロしていると、トントンと寝室をノックする音が響いた。
続いて「奥様、お目覚めですか? 入っていいですか?」というエルマの声が聞こえてくる。
裸にシーツという格好は恥ずかしいが、エルマには湯浴みや着付けの時に散々裸体を今まで見られているため今更である。
それに誰かの手を借りなければここから動けそうにない。
「……エルマ、その、他に人はいない? エルマ一人なのだったら入ってくれて大丈夫よ」
リースベットは羞恥心を滲ませながら、藁にもすがる思いでエルマの助けを求めた。
エルマは一人だったらしく、すぐに寝室に駆け込んでくる。
そして寝台横の床でへたり込むリースベットの姿を見て、案の定だわ、とまず一言呟いた。
「あ~やっぱり足腰立たなくなっちゃったんですね。旦那様ったらどれほど奥様に無理させるんだか! 男の体力で付き合わされたら、たまったもんじゃないですよねぇ!?」
腰に手を当て、ぷりぷり怒った後、リースベットが立ち上がるのに手を貸してくれた。
「奥様、お腹も空いてると思いますけど、浴室の準備をしておきましたので、まずは湯浴みしちゃいましょう! 私も手伝いますから! ね?」
「手間かけてごめんなさいね……」
「いえいえ! 媚薬を盛られて大変だったことは聞いてます。おつらかったですよね。奥様は被害者なんですから、何も悪くないですよ! 媚薬なんて、ファンタジー世界だけで結構です、って感じですよね!?」
ファンタジー世界とはなんだろうとは思ったが、エルマが励ましてくれていることだけはしっかり伝わってくる。
自分のことのように怒ってくれるのもとても嬉しく、リースベッドは心が温かくなった。
「……ありがとう、エルマ。いつも味方でいてくれて心強いわ」
「御礼を言われることじゃないですよ! だって私は奥様の専属侍女ですからっ! ささっ、湯浴みで身体を癒しましょっ!」
リースベットが心からの感謝を伝えると、エルマは少し照れた様子を見せつつ、いつも通りの明るい調子で自信満々に胸を張った。
そんなエルマの手を借りて、なんとか震える身体に鞭を打ち、リースベットは湯浴みと身づくろいをする。
ドロドロに汗をかいたベタつく身体を清め、清潔な室内着に着替え終えた時、ようやく人心地がつきホッと安堵した。
「スッキリしたようですね! 良かったです! 旦那様にはやりすぎないよう、改めて注意しとかなきゃダメですねぇ!」
「あの、昨夜は媚薬のこともあったから……アイゼル様は悪くないから、ね?」
「そうですかぁ? 奥様がそう言うんならいいですけど。でも無理しすぎはダメですからね! まぁ閨自体は色んな美容効果もあるんで、どんどんやっちゃってください! あ、そういえば騎乗位は試しました!?」
「えっと、その……」
リースベットは口ごもりながら顔を赤くする。
この媚薬の厄介なところは、どんなに熱に狂わされていようが記憶がきっちり残っていることだ。
昨夜の自身の行いを思い出し、リースベットは恥ずかしさで気が狂いそうだった。
……じ、自分からあんなに大胆に。エルマはアイゼル様が無理やり何度も迫ったように思ってるみたいだけど、実際は私からも……。
こんなこと絶対に言えないし、知られたくないとリースベットは悶絶した。
こういう時、エルマに悟られないためには話を変えるに限る。
「ねぇ、エルマ……! アイゼル様は今どうされているの?」
「旦那様ですか? 昼頃起きて来られて、昼食を食べた後はルイズ様とお兄様と出掛けられましたよ?」
「お兄様?」
「あっ、リースベットはまだ会ったことないかもしれないですね。私、四つ上の兄がいるんですよ! 兄は公爵家お抱えの諜報員やってます! 名前はクリフです!」
サラリと告げられた驚きの話にリースベットは目を瞬いた。
いつだったか、リースベットはアイゼルなら独自に諜報員を配しているのかもしれないと思ったことがあった。
その予想が的中したわけである。
……クリフ? その名前なら聞き覚えがあるわ。
昨夜、夜会会場から馬車に乗り込む際、確かアイゼルは誰かに指示を出していたはずだ。
リースベットはマントに包まれて、視界を遮られていたが、その時に「クリフ」とアイゼルが相手を呼んでいたのをなんとなく覚えている。
きっとあの場になんらかの理由でエルマの兄がいたのだろう。
それにしてもエルマに兄がいたのも初耳だ。
シャロック公爵家に嫁いできて、かれこれ約五ヶ月経つが、まだまだ知らないことがたくさんあるのだなとリースベットは思った。
「さて、そろそろ夕食にしましょうか! お腹空いてますよね! あ、今日は食堂ではなく、この寝室にお食事をお持ちしますので、寝台の上で身体を休めながら召し上がってくださいね!」
「そんな配慮まで……本当にありがとう。正直、全然身体に力が入らなくて動くのもつらいから助かるわ」
再びエルマに寝台へと連れて行ってもらい、リースベットは背もたれに上半身を凭れさせて寝台の上に座った。
ちょうどそのタイミングで、トントンと扉をノックする音がした。
エルマが扉に確認に赴く。
そして戻ってくると、エルマの他に二人の人物が一緒に中へ入って来た。
一人は夫のアイゼル。
もう一人はリースベットが初めて会う男性だった。
「リースベット、体調は大丈夫か?」
アイゼルは寝台の真横に椅子を並べ、そこに座るとリースベットの手を握りしめ、顔を覗き込んだ。
今朝に続き、その蕩けるように甘い眼差しにリースベットの胸の鼓動が速くなる。
「あ、はい。大丈夫です。……ただ、ちょっと一人では立てない状態で、エルマに手を貸してもらってはいるのですが」
「そうか……俺のせいだな。ところで意識の混濁はないか? ぼんやりするとか、めまいがするとか、幻覚が見えるとか」
昨夜の記憶が飛んでいてくれた方が気が楽だったけど、とリースベットは媚薬に対して恨みがましい気持ちが少しだけ湧いた。
ただその場合、アイゼルが愛をささやきなかまらリースベットを求めてくれた幸せな記憶も失われてしまうと気づき、即座に考えを改める。
今でも夢ではないかと思う、あの幸福なひとときをなかったことにはしたくない。
「意識は問題ないです。はっきりしています。ご心配ありがとうございます」
「それなら良かった。あの媚薬は使い続けると意識障害を引き起こすが、一度だけなら大丈夫なはずだ。だからリースベットも心配しなくてもいい」
「はい。分かりました。……あの、ところで、そちらの方は……?」
リースベットの容態を自分の目で確認してホッと息を吐くアイゼルだったが、一方のリースベットは先程からアイゼルの背後に控えている男性が気になってしかたなかった。
極めて私的な空間である寝室に、変な人物をアイゼルが連れてくるわけがない。
となると、重要人物の一人なのだろうが、リースベットには見覚えがなかった。
それとも目立つ特徴のない男性のため、自分が覚えていないだけだろうか、とリースベットは首を傾げる。
リースベットが自分の背後に目を向けるのを見て、すっかり愛しの妻を見つめるのに夢中だったアイゼルもようやくクリフを紹介していなかった事実を思い出した。
「ああ、紹介がまだだったな。彼はクリフ。公爵家の使用人の一人だ」
「あっ! エルマのお兄様で、公爵家お抱えの諜報員の……!」
「……なんだ、エルマから聞いていたのか」
ついさっき話題にあがったばかりの人物の登場に、リースベットは思わず興奮気味に声を上擦らせた。
身近な存在であるエルマの兄なわけだし、リースベットが興味を持つのは分からなくもないが、自分以外の男を熱心に見つめるのがアイゼルには少々面白くない。
心が狭すぎるな、と自嘲めいた笑みが浮かぶ。
そんな主の珍しい姿に内心驚くクリフだったが、紹介を受けたので一歩前に進み出て、胸に手を当て、リースベットに向かって丁寧に頭を下げた。
「ただいまご紹介に預かりました、クリフと申します。奥様、以後お見知りおきください」
「初めまして、リースベットです。昨夜もきっと色々助けて頂いたんですよね。ありがとうございました」
アイゼルの指示のもと、見えないところで動いてくれていたのだろうと察し、寝台の上に座ったままリースベットはお辞儀をした。
だが、クリフはそんなリースベットの律儀な様子になぜか嬉しそうにクスクスと笑う。
「奥様は相変わらずでいらっしゃいますね。いつも控えめで、謙虚で、慎ましくて。公爵夫人になられたのにお変わりありませんね」
「えっ……?」
まるで以前から自分を知っているかのようなクリフの口ぶりに、リースベットは目を丸くした。
なぜ?と頭の中には疑問符が浮かぶ。
「驚かせて申し訳ありません。たぶんこれを見れば意味が分かりますよ。……ほら、いかがでしょう? リースベットお嬢様?」
クリフはそう言うと、どこかから取り出したカツラと眼鏡を装着して、リースベットを見つめた。
その姿を目にして、リースベットは榛色の瞳を大きく見開く。
「えっ! カミロ!?」
驚きからつい大きな声を出してその名を口にした。
そう、彼はリースベットもよく知る人物。
エイムズ伯爵家で父の補佐をしていた執事――リースベットにも親切にしてくれた使用人だった。
「ど、どうして……カミロがここに!? えっ、カミロ? クリフ?」
リースベットの頭の中が混乱する。
二人分の名前を口にするが、でも同じ人物ということで、それが意味することとは一体。
……どういうこと!?
「私はカミロとしてエイムズ伯爵家に潜入して任務をこなしていたのです。本名はクリフと言います」
「えーっ、お兄様、そんなことしてたの!? ていうか、カミロってお父様の名前じゃないっ!」
リースベットに続き、話を聞いていたエルマも驚いた声を上げた。
エルマも初耳だったらしい。
「でも、どうして伯爵家に潜入を……?」
「そのあたりは俺が説明する。リースベットには他にも色々話したいことがあるからな。悪いが食事はその後にしよう」
リースベットの問いかけを引き受けたのは、クリフではなくアイゼルだった。
アイゼルが軽く手を上げると、クリフとエルマが頷き、静かにその場を去っていく。
寝室にはリースベットとアイゼルの二人きりとなり、しばし静寂が訪れた。
そしてそこからアイゼルが語り出した話は、どれもこれもリースベットにとっては一つ残らず衝撃の内容だった――。
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