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二人は、世界中の誰もが幸せになれと願った。
しおりを挟む男が目覚めたのは、まだ朝日の昇らない薄暗い朝方のことだ。
「いつか?」
昨日の夜、疲れ果てたオメガの隣で、シーツを変えることもなく、男は寝ついた。その時、男はオメガを男自身から守り切れたことの達成感と、オメガを幸せにできた自信で溢れていて。普段、些細な音でも目を覚ます神経質な男は、その日ばかりはオメガが隣で起きてもぐっすり熟睡しきっていて、起きたときには男ひとり。
隣にいたはずのオメガを探し、視線を彷徨わせた男は、オメガが部屋にいないことに気づき、冷や水を浴びせられた気分だった。まさか、と思い立ちあがり、家中を探す。いつか、いつか、と大きな声で読んでみても返事はない。家の中にオメガはいなかった。
急に消えたオメガ。
それは、あの時以来で。
男の脳内はトラウマのように、オメガが消えた過去をフラッシュバックさせた。
(また、私はいつかを傷つけてしまったのか?)
自分では守ったつもりの昨日の出来事も、冷静になったオメガにとっては屈辱でしかなくて、男が嫌で家から逃げたのかもしれない。それだけでも、男は胸を締め付けられる気分だったのに、男は思い出した。鮫島は言っていた。男から逃げてきたオメガは死のうとしていた、と。こめかみで心臓の音が聞こえてる。息は荒く、手が震えた。男は、自分が冷静ではないことを分かっていた。それでも、オメガはまた自分から逃げて死のうとしているのかもしれない、という馬鹿な考えが頭から離れない。
たかが、あれぐらいで。
だが、昔の男のたかがそれぐらいで、オメガは死のうとしていた。
動転する頭をなんとか落ち着かせようと、オメガの部屋に、自分の本能を突き動かす、でも、今はオメガの存在を確かめさせてくれるフェロモンの濃い場所に行く。ベッドの横に座り、ベッドに顔を乗せた男は、冷静になるよう努めた。
少しして、動悸が治った男がなんとなく窓の外を見る。オメガの部屋は、島の反対側で、窓からは整えられていない海辺を一望できた。
ふと見たその中に、人影がある。
男は見間違いかと思った。其処から海辺まで長い距離がある。視力の良い男でも、この距離でこの薄暗い中、しっかりと判別するのは不可能だ。だが、その人影は、ずぶずぶとまだ暗い碧に身を鎮めていく。
根拠はなくとも、自信があった。
あれは、オメガだと。
海辺に近い裏口から男は慌てて飛び出し、走った。まさか、まさか、と頭はいっぱいで、だが、この薄暗い中冷たい海に入るなんて死にに行くようにしか見えない。
男は、初めて思った。
自分の全てを捧げるから、あのオメガを助けてくれと。
傲慢だった男が愛した者ために、身を捧げることがどれほど勇気のあることか知るものはいない。
全て思い通りに、全て自分のために生きてきた男が、その全てを捧げるなんて、男を知っている殆どの人が有り得ないと口を揃えて言うだろう。
「いつか!いつか!」
恥も外聞もなく男は精一杯、オメガの名前を叫んだ。走って、叫んで、男が何かしないと、オメガがそのまま海の底まで行って戻ってこないのではないかと怖かったのだ。
ゆっくりゆっくり、海の中に進むオメガ。遂に、水面がオメガの肩まで来た時、男は耐え切れず呼んだ。
「なお!」
それは、本当のオメガの名前。オメガがいつかになる前、男が一回も名前を呼ばなかったオメガの名前。
「なお!行くな!なお、行かないでくれ! 」
何故、男がオメガの本当の名前を呼んだのかは分からない。いつか、と初めて呼ぶのに時間のかかった男の、本当の呼びたい名前はきっと、オメガ本来の名前だったのだ。
いつかと呼ばれるオメガに、なおと言っても分からないだろう。
ただ、それでオメガは振り向いたのだ。
ゆっくりと水平線に日が登っていた。浜辺についた男にはオメガの、なおの驚く顔が見えた。男はそれでも、なおと呼びながら、靴を脱ぎ捨て、波に抗いオメガへ近づく。男のスーツはオーダーメイドの最高級品だ。そんなものを塩水につけてしまうなんて、オメガには到底出来ないが、男には幾つも持っているうちの一つに過ぎなかった。
「えっ、えっ、藍澤さん!? 」
男の突然の強行に、オメガはただ驚くばかりで、スーツのまま海にずぶずぶ入る男を止めることもできない。
男の言うなお、という名前の響きに懐かしいものを感じながら、ひたすら呆然としていたら、目の前に男が来て、ギュッと縋り付くように抱きつかれた。
「なお、なお、行かないでくれ。私が悪かった。だから、お願いだから死なないでくれ」
オメガには、男の言っていることが分からない。オメガは、昨晩、無意識に男に助けを求め、ひたすら、男を求めた。オメガは恥ずかしかった。気持ちがバレてしまったと。オメガに男のフェロモンは効かない。それなのに、男を死ぬほど求めてしまうなんて、そんなの愛の告白でしかないだろう。聡い男のことだから、きっと、男に自分の気持ちを気づかれたと思った。
それに、オメガに男の子供は出来ない。それでも、もしかしたら、とオメガはお腹に男の種が欲しくて、堪らなくて、何度も強請ったのに、男は答えてくれない。自分のヒートを利用してまで、男の劣情を煽ったのに男はオメガを犯してくれなかった。つまり、アルファとしての本能よりも男の好きでもないオメガとセックスをしたくない理性が勝ったのだ。男はオメガを好きじゃない。それが痛いほど分かって辛かった。
昨日の夜の記憶は、曖昧だ。でも、オメガが男を強請り男がそれを拒んだことは分かっている。
そして、オメガは、自分の卑しさが恥ずかしかったり、想いが叶わないことの悲しさだったりで、男のいない外へ出たのだ。
いつものヒートでは、鮫島から貰った強力な座薬で乗り切っていたが、昨日に限って在庫がなく、薬でも治らない時は熱い身体を海で冷やしていたから、今日も同じようにそうしただけなのだ。
だから、男の言う死ぬ、がどう言うことか分からなくて、男に抱きつかれたことへの胸の高鳴りが男にバレるんじゃないかと不安で大丈夫ですと抱き返すことも出来ない。
「なお、なおが望むなら私はもうなおには会わないと誓おう。私は、ただ、なおが生きてくれていればそれだけでいい」
傲慢な男の聞いたこともない、震えた哀願。
男の想いに鈍いオメガも、期待を抱いた。今の男の言葉は、心からの告白にしか聞こえないからだ。未だに自分をかき抱く手は、力強く、決してオメガを離さない。オメガを抱き上げた状態でいるから男の顔は見えないが、男は泣いているような気がした。
もしかして。
まさか、でも。
オメガの都合の良い期待だと言うのは百も承知だ。だが、オメガは今しかないと思う。
「藍澤さんは僕のこと、好きなんですか」
男から見れば、自分の想いは言わず、人に先に言わせるずるい聞き方だ。相手がオメガじゃなかったら、お前に言う義理はない、と傲慢に言い返していただろう。
だけど、男が最も恐れるオメガの死の前では、男のそんなちっぽけな矜持はどうでもよかった。
男は答える。
「好きではない」
オメガが自分の勘違いに顔を赤らめる手前。
「愛してるんだ」
オメガは、恋い焦がれた嘘みたいな現実に、頭が真っ白で、素直に受け入れればいいのに、自分の弱点ばかりを挙げて男に言い募る。
「で、でも、僕はもう運命の番じゃないし、藍澤さんのフェロモンも感じ取れない欠陥品で……藍澤さんに子供も作ってあげられない……」
やめて、やめてよ、とオメガは自分の口を止めたかった。受け入れたいのに、信じられなくて、言わなくていいことを言ってしまっている。もし、これで、男が正気に戻ってしまったらと思うと、怖いのに、自分を否定する言葉が止められなかった。
「そんなのどうでもいい」
男のその言葉にほっとして泣きそうなのに、オメガは。
「だって、藍澤さんが欲しいのは運命の番であって僕じゃないって……そうだって、ぼ、僕は」
オメガは自分が何を言いたいのか分からない。ただ、信じられなくて、信じたくて、証拠が欲しくて、余計なことが止まらない。
男は、オメガを優しく抱き直して言った。
「確かに、きっかけは運命の番だったからだ。だけど、なおが……いつかがいなくなって、運命の番じゃなくなって、それでも、いつかが気になって仕方なくて、やっと気付いた。私がいつかを求めているのは愛しているからだと」
男の独白に、オメガの胸は締め付けられた。男の優しい声に、言葉に、涙が出て、未だオメガの肩口に顔を埋める男を振り向かせて愛していると伝えたい。
「だけど、分かっている。いつかは、私など好きでないことも。鮫島という相手がいることも。いつかは昨日の私が嫌で海に潜ろうと」
オメガの中では、もう両想いな二人も、オメガはまだ男に想いを伝えていない。オメガは、話途中の男の顔を思いっきり振り向かせて、その男の少し赤くなった目をじっと見つめた。
「好きです。いいえ、好きじゃ足りません。愛してます。僕も藍澤さんのことを愛していて、今、すっごく嬉しいんです。奇跡みたいに嬉しい」
いつの間にか、水平線から完全に顔を出した太陽が男の頬を濡らす一粒の滴を照らした。ぽかんと呆けた男の顔。間抜けなはずなのに、ハンサムだからどうしたって決まってしまう男の顔をオメガは思いっきり抱きしめた。愛おしくって、愛おしくって堪らなかった。この傲慢で、でもオメガの前では不器用な男をオメガは守って包んであげたい。
オメガも男も、己こそが世界一幸福な人間だと確信した。オメガの熱い抱擁に、現実感がやっと出てきた男はオメガの胸に顔を埋めたまま、子宮の中にいるような安心感に包まれ、世界中の誰もが幸せになれと願う。
暫く二人は抱き合ったままでいたが、オメガがくしゃみをしたことで、我に帰り、二人で診療所へ帰った。
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