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一章2
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「嫌な夢を見ちゃったわ」
色あせたカーテンの隙間からキラキラと輝く光が差しこんでいる。爽やかな朝だというのに、アデリナの顔色は冴えない。新鮮な空気を吸おうと、アデリナはベッドからおりて窓に近づく。たてつけの悪い出窓を開けるのにはコツがいるのだが、もうすっかり慣れたものだ。「よっ」という令嬢らしからぬかけ声とともにアデリナは窓を全開にした。
夏の熱気をはらんだ風が、アデリナの長い髪をなびかせる。
「いいお天気。今日も一日頑張ろう」
視界の奥には濃い緑の森が広がっている。この帝国は国土の半分近くを森林が占めている。海はないが、代わりに雄大な大河が二本。その大河の交差するところに帝都ローザがある。
ミュラー男爵家の屋敷は帝都の北の外れに建っている。帝都とは名ばかりの田舎だが自然が美しく、住めば都というやつでアデリナはすっかりここを気に入っていた。
平民の娘が着るようなコットンレースのワンピースに着替えると、ドレッサーの前に座り髪をすいた。緩くウェーブのかかった白銀の髪は彼女の自慢だった。手慣れた様子で編み込んでいき高い位置でお団子にする。かつては着替えも髪も侍女に任せきりだったが、今ではすべて自分でする。慣れてしまえばなんの不自由もない。アデリナは生来手先が器用なのだ。
身支度を整えると一階のダイニングにおりていく。厨房からグツグツというおいしそうな音が聞こえてくる。料理をしているのは専属シェフではなくて……アデリナの母であるレガッタだ。
「おはよう、お母さま。今日の朝食は野菜スープ? とってもおいしそう」
アデリナは鍋をのぞき込みながら聞いた。
「えぇ。古くなった野菜をタダで譲ってもらったの。ちょっと変色してるけど、火を通せば大丈夫よね!」
長年の貧乏暮らしでレガッタもアデリナもずいぶんたくましくなった。エバンス侯爵夫人だった頃は野菜を洗ったこともなかったレガッタが今ではミュラー家の料理人だ。
「この暮らしも慣れれば案外楽しいわよね。私、家庭菜園にもチャレンジしようと思ってるの。節約になるでしょ?」
「すごくいいと思うわ! 私も手伝う」
使用人を雇う余裕などなく、現在のミュラー家の住人はレガッタとアデリナと、アデリナの祖父でありミュラー家当主のオルコットの三人だけだ。オルコットは厄介者となったふたりを優しく迎えてくれて、貧しいがそれなりに楽しく暮らしている。
レガッタがしみじみとつぶやく。
「あのときは、もう生きていても仕方ないなんて思ったけど、そんなことなかったわ。クリスティアだって……」
彼女はその先は口にしなかった。けれど、続きは聞かなくてもわかる。死ぬことはなかった、そう言いたいのだろう。アデリナだって同じ気持ちだ。
「朝食を終えたら掃除を済ませて、それからシャロットのところへ行ってくるわね」
シャロットはアデリナの教え子だ。貴族の子弟の家庭教師は結構いい稼ぎになるのだ。
「掃除は助かるけど、庭の手入れはしちゃダメよ」
レガッタの言葉にアデリナは首をかしげた。
「前から思っていたけど、どうして庭の手入れはダメなのよ?」
「だって、鎌で手や顔に傷をつけてしまったら困るでしょう。アデリナは嫁入り前なんですから」
アデリナは苦笑を返す。
「嫁入りって……全然予定もないじゃない。もし嫁入りすることになったとしても、きっと手の傷を気にするような殿方じゃないわよ」
謙遜でも自虐でもなく、ただの事実だ。権力も財力もないミュラー家の娘の相手なら、きっと同じように貧しい相手だろう。白魚のように美しい手より鎌を使いこなすたくましい手のほうが喜ばれるに違いない。
だが、レガッタは唇をとがらせて反論する。
「そんなことないわよ! 家柄がちょっと劣っていたって、アデリナは美人で頭もよくて気立てもいいもの。我が娘ながら、非の打ちどころのない完璧な令嬢だと思うわ」
「あ、ありがとう」
親の欲目というものは厄介だ。彼女の目にはアデリナがいまだ深窓のご令嬢に映っているのだろうか。
『ローゼンバルトの真珠』
そんなふうにもてはやされていた頃があったのだ。だが、今のアデリナはただの貧しい男爵令嬢だ。変色しかけた野菜も平気で食べるし、汚れ仕事も力仕事も自分でこなす。自慢だった容姿もだいぶ陰りが見えてきた。美を維持するのには金がかかるのだ。
けれど、アデリナは今の自分も嫌いではない。自分の力でなにかを成し遂げるということは楽しいものだ。エバンスの名を失って、アデリナは初めてそのことを知った。
「さぁ。今日はこの階段をピカピカに磨きあげますか!」
バケツと雑巾を手にアデリナは元気な声をあげた。貧乏だが仮にも貴族の屋敷、広さだけは十分にある。夢中になって掃除をしていると、一時間くらいあっという間に過ぎてしまう。
「あら、大変! そろそろ準備して出かけないと」
教え子のシャロットのところへ向かう時間だった。アデリナは大急ぎで掃除道具を片付けると、家を出た。今やちょっと裕福な庶民でも馬車を所有している時代だが、ミュラー家には馬車がない。いな、正確に説明すると、持っていたが金に困って売ってしまったのだ。
シャロットの家、ブラウ伯爵邸は帝都の中心街にある。ローゼンバルト帝国の街は、どこも軍事国家らしく堅牢に造られているが、帝都しは少し華やいだ空気も漂う。中心街に近づくにつれどんどん洗練されていく街並みを眺めながら、アデリナは歩を進めた。
色あせたカーテンの隙間からキラキラと輝く光が差しこんでいる。爽やかな朝だというのに、アデリナの顔色は冴えない。新鮮な空気を吸おうと、アデリナはベッドからおりて窓に近づく。たてつけの悪い出窓を開けるのにはコツがいるのだが、もうすっかり慣れたものだ。「よっ」という令嬢らしからぬかけ声とともにアデリナは窓を全開にした。
夏の熱気をはらんだ風が、アデリナの長い髪をなびかせる。
「いいお天気。今日も一日頑張ろう」
視界の奥には濃い緑の森が広がっている。この帝国は国土の半分近くを森林が占めている。海はないが、代わりに雄大な大河が二本。その大河の交差するところに帝都ローザがある。
ミュラー男爵家の屋敷は帝都の北の外れに建っている。帝都とは名ばかりの田舎だが自然が美しく、住めば都というやつでアデリナはすっかりここを気に入っていた。
平民の娘が着るようなコットンレースのワンピースに着替えると、ドレッサーの前に座り髪をすいた。緩くウェーブのかかった白銀の髪は彼女の自慢だった。手慣れた様子で編み込んでいき高い位置でお団子にする。かつては着替えも髪も侍女に任せきりだったが、今ではすべて自分でする。慣れてしまえばなんの不自由もない。アデリナは生来手先が器用なのだ。
身支度を整えると一階のダイニングにおりていく。厨房からグツグツというおいしそうな音が聞こえてくる。料理をしているのは専属シェフではなくて……アデリナの母であるレガッタだ。
「おはよう、お母さま。今日の朝食は野菜スープ? とってもおいしそう」
アデリナは鍋をのぞき込みながら聞いた。
「えぇ。古くなった野菜をタダで譲ってもらったの。ちょっと変色してるけど、火を通せば大丈夫よね!」
長年の貧乏暮らしでレガッタもアデリナもずいぶんたくましくなった。エバンス侯爵夫人だった頃は野菜を洗ったこともなかったレガッタが今ではミュラー家の料理人だ。
「この暮らしも慣れれば案外楽しいわよね。私、家庭菜園にもチャレンジしようと思ってるの。節約になるでしょ?」
「すごくいいと思うわ! 私も手伝う」
使用人を雇う余裕などなく、現在のミュラー家の住人はレガッタとアデリナと、アデリナの祖父でありミュラー家当主のオルコットの三人だけだ。オルコットは厄介者となったふたりを優しく迎えてくれて、貧しいがそれなりに楽しく暮らしている。
レガッタがしみじみとつぶやく。
「あのときは、もう生きていても仕方ないなんて思ったけど、そんなことなかったわ。クリスティアだって……」
彼女はその先は口にしなかった。けれど、続きは聞かなくてもわかる。死ぬことはなかった、そう言いたいのだろう。アデリナだって同じ気持ちだ。
「朝食を終えたら掃除を済ませて、それからシャロットのところへ行ってくるわね」
シャロットはアデリナの教え子だ。貴族の子弟の家庭教師は結構いい稼ぎになるのだ。
「掃除は助かるけど、庭の手入れはしちゃダメよ」
レガッタの言葉にアデリナは首をかしげた。
「前から思っていたけど、どうして庭の手入れはダメなのよ?」
「だって、鎌で手や顔に傷をつけてしまったら困るでしょう。アデリナは嫁入り前なんですから」
アデリナは苦笑を返す。
「嫁入りって……全然予定もないじゃない。もし嫁入りすることになったとしても、きっと手の傷を気にするような殿方じゃないわよ」
謙遜でも自虐でもなく、ただの事実だ。権力も財力もないミュラー家の娘の相手なら、きっと同じように貧しい相手だろう。白魚のように美しい手より鎌を使いこなすたくましい手のほうが喜ばれるに違いない。
だが、レガッタは唇をとがらせて反論する。
「そんなことないわよ! 家柄がちょっと劣っていたって、アデリナは美人で頭もよくて気立てもいいもの。我が娘ながら、非の打ちどころのない完璧な令嬢だと思うわ」
「あ、ありがとう」
親の欲目というものは厄介だ。彼女の目にはアデリナがいまだ深窓のご令嬢に映っているのだろうか。
『ローゼンバルトの真珠』
そんなふうにもてはやされていた頃があったのだ。だが、今のアデリナはただの貧しい男爵令嬢だ。変色しかけた野菜も平気で食べるし、汚れ仕事も力仕事も自分でこなす。自慢だった容姿もだいぶ陰りが見えてきた。美を維持するのには金がかかるのだ。
けれど、アデリナは今の自分も嫌いではない。自分の力でなにかを成し遂げるということは楽しいものだ。エバンスの名を失って、アデリナは初めてそのことを知った。
「さぁ。今日はこの階段をピカピカに磨きあげますか!」
バケツと雑巾を手にアデリナは元気な声をあげた。貧乏だが仮にも貴族の屋敷、広さだけは十分にある。夢中になって掃除をしていると、一時間くらいあっという間に過ぎてしまう。
「あら、大変! そろそろ準備して出かけないと」
教え子のシャロットのところへ向かう時間だった。アデリナは大急ぎで掃除道具を片付けると、家を出た。今やちょっと裕福な庶民でも馬車を所有している時代だが、ミュラー家には馬車がない。いな、正確に説明すると、持っていたが金に困って売ってしまったのだ。
シャロットの家、ブラウ伯爵邸は帝都の中心街にある。ローゼンバルト帝国の街は、どこも軍事国家らしく堅牢に造られているが、帝都しは少し華やいだ空気も漂う。中心街に近づくにつれどんどん洗練されていく街並みを眺めながら、アデリナは歩を進めた。
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