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四章2
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屋敷内の雰囲気がいつもと違うことにはアデリナもすぐに気がついた。空気がピリピリとし、妙な緊張感が漂っていた。だが、なにがあったのかはさっぱりわからない。
「おかえりなさいませ」
門口でアデリナを出迎えたカイが他人行儀にそう言って、恭しく頭をさげた。隣にいたサーシャも頭が床に届きそうなほど深々と礼をしている。
「なさいませって……なにか新しい遊び?」
アデリナはカイを見るが、彼は顔を背け、決してアデリナを見ようとはしない。
「カイ。なにかあったの?」
アデリナが震える声で聞くと、しばしの沈黙のあとでようやく答えが返ってきた。
「俺とお前の婚姻は解消……いや、最初からなかったことになる」
アデリナの脳はその言葉を理解することを拒んだ。苦しげなカイの声は意味をなさずにただ宙を漂っている。
「カイってば、なにを言ってるの? よく聞こえなかったわ」
アデリナは乾いた笑い声を立てる。笑いながら、心と身体がバラバラに引き離されていくのを感じていた。カイは覚悟を決めたように、ゆっくりとアデリナを見る。紫がかった黒い瞳のなかには絶望しかなかった。切なそうに苦しそうに、カイは顔をゆがめて言葉を紡ぐ。
(やめて、そんな目をしないで。冗談だって笑ってよ!)
「アデリナ・ミュラーは五年婚リストから外れ、皇太子レイン・ホン・ウェルベルトの婚約者となる」
(私がレイン殿下の? だからミュラー家に伯爵位を?)
「そんなの、なにかの間違いに決まっているじゃない。カイとだって不釣り合いもいいところなのに、今度は殿下がお相手だなんてっ」
「政治的な理由だと説明を受けた」
カイの声は冷たく、アデリナは怖くてたまらなくなった。まさか彼はこのおかしな話を受け入れるつもりなのだろうか。アデリナはおそるおそるカイに問う。
「カイは婚姻の解消を受け入れるつもりなの?」
「受け入れるもなにも……俺たちのこの数か月はなかったことになるんだ。記録もなにも残らない。お前はずっとアデリナ・ミュラーで、オーギュスト家とは一切の関わりはなかった」
「そんな……」
アデリナは言葉を失った。記録が残らないからって、なかったことになんてできない。初めて抱き合った夜も、一緒に食べた料理の味もすべて鮮明に覚えているというのに。身体に刻まれた彼の感触もアデリナは決して忘れはしない。
「カイは、なかったことにしてしまえるの?」
「泣くな」
アデリナの瞳にあふれたしずくを、カイの鋭い声が止めた。
「お前が泣いても、俺はもうその涙を拭ってやることもできない。皇太子妃になろうという女性に触れることは許されない」
アデリナはこらえきれず膝からがくりと床にへたり込んだ。氷のように冷たい床がアデリナをますますみじめにさせた。
「どうして? 私、やっとあなたに……」
静かな、静かすぎる声がアデリナの頭上に降ってくる。
「難しく考えることはない。お前はただ、元の居場所に戻るだけだ」
「わからない、わかりたくもないわ」
アデリナは駄々をこねる子どものように、床に座り込んだまま膝のうえでこぶしを握り締めた。
「六年前のことがなければ、お前は今頃皇宮にいたはずだ。相手は変わってしまったが、皇太子妃になるのがアデリナの運命なんだろう。最初から……俺とは結ばれるはずのない女だった」
アデリナは弾かれるように顔をあげ、まっすぐにカイを見据えた。全身がカタカタと小刻みに震える。
「六年前の政争は現実にあったことよ。そして、私の運命の相手はカイだった。違うの? 答えてよ、カイ」
アデリナの悲痛な叫びは彼には届かなった。カイは冷たい声で短く告げる。
「忘れろ。それがお前のためだ」
ちょうどそのとき、コツコツとノッカーを鳴らす音が聞こえ扉の外から声がかけられた。
「カイ。俺だ、ジェインだ」
ジェインはカイの兄、オーギュスト家の次男の名だ。もっとも、長男のヴィルは六年前に亡くなっているから実質上は彼が跡取り息子だ。
サーシャが扉に向かおうとするのをカイが制した。
「いい、俺が行く」
カイが扉を開けると、ジェインが顔をのぞかせた。アデリナが彼の顔を見るのは本当に久しぶりだった。オーギュスト家の当主である彼らの父は数年前に大病を患い、今はジェインが当主代理を務めていると聞く。彼が有能であることはオーギュスト家の栄華を見ればわかることだ。ジェインはアデリナに目を留めると、にこりとほほ笑んだ。
「お久しぶりですね、アデリナ嬢」
アデリナは慌てて立ちあがると、乱れたドレスを直し彼に礼をとった。
「ご無沙汰しておりました、ジェインさま」
この兄弟、顔立ちそのものはよく似ているのだが、与える印象はむしろ真逆だ。ジェインは穏やかで物腰も柔らかい。軍人より政治家に向いているタイプだろう。
「ちょうどよかった。ここに来たのは君の話をするためなんだ」
「おかえりなさいませ」
門口でアデリナを出迎えたカイが他人行儀にそう言って、恭しく頭をさげた。隣にいたサーシャも頭が床に届きそうなほど深々と礼をしている。
「なさいませって……なにか新しい遊び?」
アデリナはカイを見るが、彼は顔を背け、決してアデリナを見ようとはしない。
「カイ。なにかあったの?」
アデリナが震える声で聞くと、しばしの沈黙のあとでようやく答えが返ってきた。
「俺とお前の婚姻は解消……いや、最初からなかったことになる」
アデリナの脳はその言葉を理解することを拒んだ。苦しげなカイの声は意味をなさずにただ宙を漂っている。
「カイってば、なにを言ってるの? よく聞こえなかったわ」
アデリナは乾いた笑い声を立てる。笑いながら、心と身体がバラバラに引き離されていくのを感じていた。カイは覚悟を決めたように、ゆっくりとアデリナを見る。紫がかった黒い瞳のなかには絶望しかなかった。切なそうに苦しそうに、カイは顔をゆがめて言葉を紡ぐ。
(やめて、そんな目をしないで。冗談だって笑ってよ!)
「アデリナ・ミュラーは五年婚リストから外れ、皇太子レイン・ホン・ウェルベルトの婚約者となる」
(私がレイン殿下の? だからミュラー家に伯爵位を?)
「そんなの、なにかの間違いに決まっているじゃない。カイとだって不釣り合いもいいところなのに、今度は殿下がお相手だなんてっ」
「政治的な理由だと説明を受けた」
カイの声は冷たく、アデリナは怖くてたまらなくなった。まさか彼はこのおかしな話を受け入れるつもりなのだろうか。アデリナはおそるおそるカイに問う。
「カイは婚姻の解消を受け入れるつもりなの?」
「受け入れるもなにも……俺たちのこの数か月はなかったことになるんだ。記録もなにも残らない。お前はずっとアデリナ・ミュラーで、オーギュスト家とは一切の関わりはなかった」
「そんな……」
アデリナは言葉を失った。記録が残らないからって、なかったことになんてできない。初めて抱き合った夜も、一緒に食べた料理の味もすべて鮮明に覚えているというのに。身体に刻まれた彼の感触もアデリナは決して忘れはしない。
「カイは、なかったことにしてしまえるの?」
「泣くな」
アデリナの瞳にあふれたしずくを、カイの鋭い声が止めた。
「お前が泣いても、俺はもうその涙を拭ってやることもできない。皇太子妃になろうという女性に触れることは許されない」
アデリナはこらえきれず膝からがくりと床にへたり込んだ。氷のように冷たい床がアデリナをますますみじめにさせた。
「どうして? 私、やっとあなたに……」
静かな、静かすぎる声がアデリナの頭上に降ってくる。
「難しく考えることはない。お前はただ、元の居場所に戻るだけだ」
「わからない、わかりたくもないわ」
アデリナは駄々をこねる子どものように、床に座り込んだまま膝のうえでこぶしを握り締めた。
「六年前のことがなければ、お前は今頃皇宮にいたはずだ。相手は変わってしまったが、皇太子妃になるのがアデリナの運命なんだろう。最初から……俺とは結ばれるはずのない女だった」
アデリナは弾かれるように顔をあげ、まっすぐにカイを見据えた。全身がカタカタと小刻みに震える。
「六年前の政争は現実にあったことよ。そして、私の運命の相手はカイだった。違うの? 答えてよ、カイ」
アデリナの悲痛な叫びは彼には届かなった。カイは冷たい声で短く告げる。
「忘れろ。それがお前のためだ」
ちょうどそのとき、コツコツとノッカーを鳴らす音が聞こえ扉の外から声がかけられた。
「カイ。俺だ、ジェインだ」
ジェインはカイの兄、オーギュスト家の次男の名だ。もっとも、長男のヴィルは六年前に亡くなっているから実質上は彼が跡取り息子だ。
サーシャが扉に向かおうとするのをカイが制した。
「いい、俺が行く」
カイが扉を開けると、ジェインが顔をのぞかせた。アデリナが彼の顔を見るのは本当に久しぶりだった。オーギュスト家の当主である彼らの父は数年前に大病を患い、今はジェインが当主代理を務めていると聞く。彼が有能であることはオーギュスト家の栄華を見ればわかることだ。ジェインはアデリナに目を留めると、にこりとほほ笑んだ。
「お久しぶりですね、アデリナ嬢」
アデリナは慌てて立ちあがると、乱れたドレスを直し彼に礼をとった。
「ご無沙汰しておりました、ジェインさま」
この兄弟、顔立ちそのものはよく似ているのだが、与える印象はむしろ真逆だ。ジェインは穏やかで物腰も柔らかい。軍人より政治家に向いているタイプだろう。
「ちょうどよかった。ここに来たのは君の話をするためなんだ」
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