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二段目
萌芽の場〈壱〉
しおりを挟むその後、舞ひつるは少し離れた処を歩く兵馬に見守られながら、久喜萬字屋へ戻った。
昼見世が始まる前の、まだだれも座っていない張見世に上がって、籬(格子)の隙間から表の大通りを眺める。
すると、兵馬がすーっと前を通り過ぎるところであった。
ふと、目が合う。
兵馬がふっ、と笑った。怖いもの知らずな、文字どおり「向かう処、敵なし」の不敵な笑顔だ。
舞ひつるは、急に頬が火照ったような気がして、思わず目を伏せた。
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巳の刻(午前十時)、廓では晩い朝餉が始まる。
部屋待ち以上の遊女たちは二階の其々の座敷で摂るが、廻り部屋の女郎たちは一階の大広間で一斉に食す。
舞ひつるは羽衣の座敷にいた。
「呼出」のいない今の久喜萬字屋では最高位になる「昼三」の一人、羽衣が舞ひつるの「姉女郎」だ。
昼三ともなると、我の仕事だけをすれば良いというわけではない。
世話になっている見世への恩返しのためにも、初見世後に人気になりそうな「上玉」を「妹女郎」として側に置いて、一人前の遊女にせねばならぬ任も加わる。
年端の行かぬ女子たちに、遊女らしいしゃなりとした所作を叩き込むのは元より、唄に三味線に舞にと歌舞音曲の稽古をつけ、さらには身に纏う着物や簪、喰い扶持の面倒までもみてやらねばならない。
それゆえ、見世の上位に駆け上れば上ったで、稼げる揚代が跳ね上がったとしても、出て行く金が半端なかった。
さすれば、余計に負い目(借金)が嵩んでいき、結局のところ儲かるのは見世ばかり、って寸法だ。
羽衣の折れそうなくらい頼りなげな細い肩には、振袖新造の舞ひつるに禿の羽おり・羽おと、そしておしげという番頭新造の、計四人の暮らしの掛かりが一切合切乗っかっていた。
「禿」は遊女の下に付く一番下っ端の見習いで、歳は十歳前後である。
初潮を迎えると、振袖新造になるか廻し部屋の女郎になるかの身の振り方が決まる。
「番頭新造」とは、年季奉公の十年が明けても何処にも行く当てがなかったりして、廓に留まった女郎だ。
おのれ自身がもう客をとることはないが、その代わり世話になっている遊女のために日々の雑事を一手に引き受けるゆえ、「遣り手」とも云われる。
海千山千の番頭新造は、面倒な客相手でも遊女に代わってあしらうことなんか朝飯前なものだから、口さがない客からは腹立ち紛れに「遣り手婆ぁ」などと呼ばれていた。
そして、立派な座敷を持つ「姉女郎」羽衣の朝餉には、いつも「妹女郎」たちと「遣り手」が侍り、皆で食すのが常だった。
とはいえ、女郎だけではなく遊女であっても、見世から供されるものは質素だ。
さすがに大見世の久喜萬字屋では、粟や芋などが混じった「かて飯」ではなく白い米の飯ではあるが、あとはおみおつけの汁物と漬物だけである。
ゆえに、お菜(惣菜)になるものは、各々で辻まで出て、棒手振り(行商人)から好きなものを買ってこなければならない。
位の高い遊女ほど、おいそれとは見世の外には出させてもらえぬため、見世のだれかに頼んで買ってきてもらうことになるのだが、派手に見えて実は締まり屋の羽衣は、いつも昨晩お座敷の客が残していった御膳を妹女郎や遣り手たちと分け合って食べていた。
粋な客であればあるほど、たとえ如何に評判の良い料理茶屋からの仕出しの馳走であってもいっさい手をつけずに、遊女が舞い芸者が奏でる音曲のみを肴にして、ひたすら酒だけを呑るものだ。
もし、がっついて我の腹の中に全部収めようものなら、見世の妓たちがいくらそないな様子を涼しい顔で見守っていたとしても、さような客は翌朝には吉原じゅうに「無粋な半可通」として名を馳せることになる。
江戸の男にとって、廓で「半可通」の烙印を押されるほどの屈辱はない。
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