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Prologue
求職 ②
しおりを挟む「そりゃあ、一刻も早く家を出たいよね、麻生さん——いや、八木さん」
佐久間 千尋は、どうも言いにくそうに栞の名字を呼んだ。
「『八木』になったのは、去年からなんですけどねぇ。いいかげん、慣れてくれはりませんか、佐久間先生?」
栞はふふっ、と笑った。
栞の両親は去年、ようやく長い別居期間にピリオドを打ち、離婚が成立した。
それに伴って、栞と姉の稍は母方の姓を名乗るように手続きした。家庭裁判所に「子の氏の変更許可」を申し立てて、家裁から変更許可を受けたのだ。
ちなみに、父親はそのことを知らない。今でも娘たちが「麻生」であると思っている。
栞も姉も、別に父親に対して憎悪や恨みを持っているわけではない。
当時まだ小学生だった姉とやっと離乳食を卒業したばかりの栞を置いて、愛する人の許へ走ったのは母親の方だったからだ。
それ以来、祖父母の手を借りながら育ててくれた父親に対しては、感謝しかない。
もちろん、父の再婚話は話せても、そのあたりの「事情」までもは、佐久間には話していないが。
今春、京都にある旧帝大の大学院の博士課程を修了した栞は、目指していた特定有期雇用教職員になれなかった。
栞の「国語学国文学専修」なんて、そもそもツブしの利かない最たるものだ。そのうえ、大学院で修士課程二年・博士課程三年を経ているから、薹も立っている。
一般企業では理系ですら、求めているのは修士までだ。博士は専門に特化し過ぎて「ガラパコス」扱いされ、使いにくいと思われているのだ。
だから、大学で職を得られないのであれば、たとえ社会に出たとしても、中学・高校の教諭や塾・予備校の講師など、進路先は教育関係にぐっと狭められる。
なのに、栞は人前に立つのが苦手な性格ときている。さらに、学士の頃に教育実習で行った母校の公立中学校では、思春期の生徒たちに接する難しさ(京都は思いの外、ヤ◯キーが多かった)をイヤってほど感じた。自分は「教師」には向いていない、とつくづく思った。
だからこそ、徒然なるままに日暮らし机に向かひて文献にあたる「学究生活」を送りたかったのだが……今はかろうじて予備校で、生徒から個別に質問や相談を受けるチューターのバイトをして糊口を凌いでいる。
しかし、それも実家住まいだからこそ成り立つことであって、一人暮らしとなるとかなり心許ない。
それで、院時代によく面倒を見てもらっていた佐久間に相談しにきたというわけだ。
大学で助教の職につく佐久間は、実家が老舗デパート・松波屋の系譜なのだが、そんな「俗世間」にはまったく見向きもせず、江戸時代の書物を探究する書誌学の世界にどっぷり浸かっていた。
実は、同い年の本家の嫡男が周囲の反対の声を押し切って医者になって「権利」を放棄したため、本来ならば「継承権第二位」の佐久間がその任を引き受ける立場にあった。
だが、彼はするっと無視してこの道に進み、その後「第三位」にあたる従弟までもが自動制御機器などを扱う畑違いの会社に就職して、すっかりその座は「空位」になってしまった。
おかげで今、本家の嫡男の妹に、同業種デパートの御曹司との提携に向けた政略結婚の話があがっているのだが。
研究室のくたびれたソファセットの向こうに座る端正な顔立ちの佐久間は、彼の人となりを体現してそうな繊細な指でメタルフレームのブリッジをくいっと上げた。
「もし、君さえよければ、だけどね……」
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