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Book 11

「幸棲家」①

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「……井筒さん」

 バッグの中をを探って、家の鍵を取り出していたわたしは、突如、暗闇から聞こえてきた声にびっくりして振り返った。

 門扉の陰から、原さんが現れた。

 ——どうして、ここへ?

「井筒さん……もう一度、ちゃんと話を聞いてくれませんか?」

 ——やっぱり、この界隈に出没するって言ってた「不審者」は原さんだったの!?

「あ、あの……今日で区立図書館も辞めたし、もう原さんとはなんの関わりもないはずなんで。……失礼します」
 わたしはあわててそう告げて、門扉を開けて足早に家の中へ入ろうとした。

 だが、しかし——
 次の瞬間、手が伸びてきて、わたしの手首が、がっ、と掴まれた。

「な、なにするんですか……っ⁉︎」
 わたしは振りほどこうとしたが、いかんせん女の力だ。男の人にひとたびがっちり握られたら、太刀たち打ちできない。

 暗闇の中で、原さんのウェリントンの眼鏡のレンズがぎらっ、と光った。
 寒気を帯びた恐怖が足元から、ぞぞわっと、上がってくる気がした。
 だけど、大きな声を出せばきっと、隣の山田のおばちゃんが「何事か⁉︎」と飛び出てくるはずだ。

「井筒さん、結婚したって言ってましたが……」

 ——なのに、喉が強張こわばって、声が出ない。

「あの人と……離婚してくれませんか?」

 ——はい?

 わたしは呆気にとられて、思わず間の抜けた顔になる。

「確か、女の人は離婚しても半年間は再婚できないんでしたよね?……だったら僕、あなたと入籍できる日まで待ちますから」
 原さんは表情の読めない顔で、わたしを見つめる。

「ただ……うちの親にはあなたが『再婚』だってこと、黙っててほしいんです」
  ——ちょっと、意味がわかんないんですけれども。

「僕、母親に『あなたと結婚する』って言ってしまったんですよ。……まさか、プロポーズして、あなたに断られるなんて思いもしなかったから。だって、あんなににっこりと僕に笑いかけてくれていたのに」
 ——いやいやいや、あれは「ビジネススマイル」だから。

「母があなたに会いたいと言って、上京してくるんです。すっごく楽しみにしてるんです。本当は田舎で結婚式を挙げてもらいたいのに、こっちで挙げてもいいって言ってくれてて、上京した際に式場も決めてしまおうって張り切ってるんです。……うちの母は、僕が幼い頃離婚してから女手一つで僕を育ててくれたんです。井筒さんはご両親を亡くして自身の親の面倒をみる必要はないでしょ?だから、ゆくゆくは母と同居して、老後を任せられる最適の人なんですよ。……なのに、今さら結婚しないって、そんなのありえないでしょう?」
 原さんはそう言って、口元を歪めてうすく笑った。

 ——いやいやいや。そんなの、わたしの方がありえない話だからっ!

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